第三話 古城の幽霊と血の滴る肉汁
夜の帳が降り、古城の石壁に冷たい風が吹き付ける。カラスの鳴き声が不吉に響く、人里離れた森の奥。
その古城――かつてこの地方を治めた血族の居城と伝わる廃墟に、幽霊の気配と、忘れ去られた料理の魂を追う者がいた。
「ふぅむ……この冷気は、ただの夜風ではないな」
セレネ・ナイトシェイドは、古びた黒いドレスの襟をそっと合わせ、細い指先で携えた香炉の蓋を開けた。
微かに甘い、そしてどこか懐かしい香りが、凍えるような空気の中に立ち上る。
ハーフヴァンパイアである彼女の青白い顔には、わずかな高揚感が浮かんでいた。
血の混じった身には、夜闇と、それに纏わる古びた記憶が心地よい。
この城には、間違いなく「何か」がいる。そして、その「何か」は、生前の美食への執着を、この冷たい石の壁に染み込ませているはずだ。
彼女は、古城の崩れかけた門を、まるで自宅の扉を開けるかのように静かに押し開けた。
内部は漆黒の闇に包まれているが、セレネの瞳には、微弱な光でも周囲が鮮明に見える。
腐敗した木材の匂いと、長い年月が積み重ねた埃の匂い。そして、その奥に、微かながらも確かな「肉の焼ける匂い」を感じ取った。
まさか、とセレネは薄く唇の端を上げた。
この廃墟で、料理の気配がするとは。
広い中庭を抜け、彼女は城の奥へと進む。かつて大広間だった場所だろうか、天井は崩れ落ち、星空が覗いている。
そこから続く薄暗い通路をしばらく進むと、微かに赤みがかった光が漏れる一室があった。
近づくにつれて、肉の焼ける香りがはっきりと強くなる。滴る肉汁が熱い石床に落ちる音まで聞こえるようだ。
「……まさか、これは本物か?」
セレネは慎重に、しかし抗いがたい好奇心に駆られて、光が漏れる扉の前に立った。
扉は半開きになっており、中を覗くと、そこはかつて厨房だったと思しき場所だった。
煤けた壁、壊れた竈。しかし、その中央には、信じられない光景が広がっていた。
石造りの大きなテーブルの上に、見るも鮮やかなロースト肉が堂々と鎮座している。
表面はこんがりと焼けて香ばしく、肉汁が惜しげもなく滴り、皿の縁に小さな池を作っている。付け合わせには、鮮やかな緑のハーブと、湯気を立てる焼きたてのパンらしきものが添えられている。
だが、その料理の周りには、誰もいない。ただ、熱を帯びた空気が揺らめき、まるで目に見えない手が調理をしているかのようだった。
セレネは一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。ひんやりとした古城の空気が、その部屋の中だけは、熱と香りで満たされている。
彼女が足を踏み入れた途端、部屋の隅に置かれた古びた燭台の蝋燭が、ひとりでに燃え上がった。
炎がパチパチと音を立て、ロースト肉の表面を照らし出す。その光景は、あまりにも現実離れしていた。
「これは……まさか、幽霊の晩餐会か?」
セレネは独り言ち、ゆっくりとロースト肉の置かれたテーブルに近づいた。
肉からは、確かに暖かな熱が発せられている。指先でそっと触れてみると、本物の、温かい肉の感触があった。
彼女の嗅覚が、肉の芳醇な香り、ハーブの爽やかさ、そしてパンの香ばしい匂いを完璧に捉えた。この料理は、幻ではない。では、誰が、なぜここに?
その時、セレネの耳に、微かな「音」が届いた。それは、古い食器が擦れるような音、そして、囁くような、しかしはっきりと聞き取れない「話し声」だった。
声は、この厨房の壁の中から響いているようだった。彼女は目を閉じ、嗅覚だけでなく、聴覚、そして自身の持つ特殊な「感覚」を研ぎ澄ませた。
「これは……過去の残響。ここに生きた者たちの、食への情念」
セレネは理解した。このロースト肉は、幽霊が作ったものではない。
ここに染み付いた、過去の住人たちの「食」への強い思いが、時を超えて具現化したものなのだ。
特に、この肉の作り手は、相当な美食家だったに違いない。
彼女は、テーブルに置かれたナイフとフォークを手に取った。
ナイフは鈍く光り、フォークは銀色の光沢を放っている。まるで、今しがた食卓に並べられたかのように、埃一つない。
「では、僭越ながら、このセレネが、貴方たちの「魂の料理」を味わわせていただこう」
セレネは、優雅な手つきでナイフを肉に入れた。刃は滑らかに、何の抵抗もなく肉の繊維を断ち切る。
切り口からは、熱気を帯びた肉汁が止めどなく溢れ出し、皿の上にさらに広がる。その色は鮮やかな赤で、まるで生きているかのようだった。
一切れをフォークで刺し、ゆっくりと口元へと運ぶ。
一口。
彼女の瞳が見開かれた。肉は、想像を遥かに超えて柔らかく、噛む必要がないほどだった。
口に入れた瞬間に、芳醇な肉の旨味が爆発し、舌の上の全ての味蕾を刺激する。
塩味とハーブの風味が絶妙に絡み合い、肉本来の甘みが後を追う。そして、その肉汁の奥には、かすかに甘く、そして深みのある「血」の風味が混じっていた。
それは、彼女のハーフヴァンパイアとしての血が、本能的に求めていた味だった。
「……ああ、これは……」
セレネは言葉を失い、もう一口、肉を口に運んだ。この味は、ただ美味しいだけではない。
肉を噛みしめるたびに、彼女の脳裏に、断片的な「記憶」が流れ込んできた。
煌びやかな衣装を纏った貴婦人が、この肉を前にして微笑む姿。
屈強な騎士たちが、戦の後の宴で、この肉を貪り食う情景。
そして、誰よりもこの肉を慈しむように見つめる、一人の料理人の横顔。
その料理人は、満面の笑みで、自身の最高傑作が食されるのを見守っていた。
彼の魂が、この肉に宿っているかのように感じられた。
セレネは、彼の情熱と、彼がこの料理に込めた「幸福」の記憶を、味覚を通じて受け取っていた。
肉汁の池に、パンを浸して食べる。焼きたてのパンは外はカリカリ、中はふんわりとしており、温かい肉汁を吸い込むと、さらにその旨味が増した。
「素晴らしい……。これほどまでに、作り手の情念を感じる料理は、初めてだ」
彼女はゆっくりと、まるで儀式を行うかのように食事を進めた。
一切れ、また一切れと食べるたびに、厨房の空気はわずかに温かくなり、燭台の炎は一層明るさを増した。
壁から聞こえていた囁き声も、次第に心地よいBGMのように聞こえてくる。
それは、過去の住人たちが、セレネの食事を祝福しているかのような錯覚さえ覚えた。
ロースト肉のほとんどを食べ終えた時、セレネは深く息を吐いた。身体の内側から温かさが満ち溢れ、これまで感じたことのない充実感が彼女を包み込んでいた。
それは、単なる栄養補給ではない。この城の歴史と、そこに生きた人々の「魂」を、彼女は確かに味わい尽くしたのだ。
食べ終えると、燭台の炎が揺らぎ、再び暗闇が厨房を包み始めた。熱を帯びていた空気も、元のひんやりとした状態に戻っていく。
テーブルに残された皿だけが、彼女がそこで食事をした唯一の証だった。
セレネは立ち上がり、静かに厨房を出た。古城の石壁は、再び冷たい沈黙を取り戻している。
しかし、彼女の胸の中には、温かい余韻が残っていた。
「幽霊が宿るは屋敷か。否、幽霊が宿るのは、その情念が生み出した、究極の美食だったか……」
月の光が差し込む中庭で、セレネは立ち止まり、空を見上げた。
今宵の「食事」は、彼女の探求心に新たな火を灯した。
この世界には、まだ見ぬ、そして忘れ去られた「魂の料理」が、きっと無数に存在するに違いない。
彼女の長い旅は、これからも続いていくだろう。
失われた味覚の記憶を求め、幽玄なる美食の探訪は、終わらない。