第二十一話 奇妙な薬膳酒場と秘薬のシチュー
夕闇が迫る頃、辺境の小さな町、「忘れられた窪地」は、ひときわ冷たい風に包まれていた。
石畳の道は湿り気を帯び、軒先にぶら下がったランタンの明かりが、揺らめく影を長く伸ばす。
旅の疲れを感じながら、サー・カエラン・ストーンハンドは、がっしりとした革の鎧を身につけたまま、町の通りを歩いていた。
今日の宿を探すかたわら、彼の腹はすでに、温かく、そして何よりも「正直な」食事を求めて鳴り始めていた。
「この風の冷たさ…今日は体が温まるものがいいな。肉のシチューに、地元の黒パンがあれば文句はないんだが…」
ぶっきらぼうな独り言を漏らしながら、カエランは視線を巡らせる。
だが、目に入るのはどこも似たり寄ったりの、ありふれた宿ばかりだ。
そんな中、彼はふと、路地裏の奥まった場所に、控えめな明かりが漏れる一軒の店を見つけた。
古びた木製の看板には、かすれてはいるものの、「薬膳酒場『癒しの釜』」と記されている。薬膳、という言葉に、彼の質実剛健な食の嗜好とは少し異なるものを感じたが、好奇心が僅かに刺激された。
扉を開けると、土と草木の混じったような、だが嫌味のない独特の香りが鼻腔をくすぐった。
店内は薄暗く、奥には薬草がびっしりと並べられた棚が見える。
客はまばらで、皆、静かに食事をしている。
カウンターには、まるで店に溶け込んでいるかのような、地味で実用的な旅装束を身につけたハーフエルフが座っていた。
銀色の髪は後ろで束ねられ、鋭く観察力のある目が、カウンターに置かれた小さなボウルの中身をじっと見つめている。
それは、旅する神秘の錬金術師、エララ・メドウライトだった。
彼女の隣には、使い込まれた小瓶や道具を入れるための隠しポケットが多数ついた革製のポーチが置かれている。
「いらっしゃいませ。温かいものをお探しですか?」
老齢の店主が、枯れた声でカエランに声をかけた。
彼の目は優しく、店の雰囲気によく馴染んでいる。
「ああ。何か、この地の特産で、体が温まるものはないか?」
カエランはカウンター席をちらりと見て、エララとは少し離れた場所に腰を下ろした。
「左様でございますか。では、『森の奥の秘薬シチュー』はいかがでしょう? 少しばかり値は張りますが、これ以上の滋養と温かさを与えるものはございませんぞ」
「秘薬、だと? あまり怪しげなものは…」
カエランが眉をひそめると、隣から静かな声が聞こえた。
「そのシチューは、薬草学において非常に興味深い組成をしています。単なる滋養強壮というよりは、むしろ『内なる調和』を促す類のものかと」
エララが顔を上げ、カエランの方に目を向けた。彼女の瞳は、まるで彼の胃の腑を見透かすかのように鋭い。
「ほう…錬金術師の方か?」
カエランの問いに、エララは小さく頷いた。
「ええ。エララと申します。そちらの方は?」
「サー・カエランだ。元は騎士だが、今はただの旅人。…なるほど、内なる調和、か。薬膳とは奥が深いな」
カエランは興味をそそられ、店主に告げた。
「では、その秘薬シチューと、地元の黒パンを頼む」
「かしこまりました。パンは焼き立てがよろしいでしょう」
店主はにこやかに奥へと引っ込んだ。
カエランは、エララの小瓶やノートが置かれたカウンターの様子を横目で見ていた。
彼女は、魔法のかかった小さなノートに、先ほどまで見ていたボウルの内容を熱心に記録している。
時折、ペン先を止め、何かを深く考察しているようだった。
「先ほどのシチューは…もう召し上がったのか?」
カエランが尋ねると、エララは静かに答えた。
「ええ。一口だけ。その構成と、内部で起こっているであろう分子レベルの変化を分析していました。胃に負担をかけず、それでいて全身を温める効果が見られます。特に、この『苔の根』と呼ばれる食材が、非常にユニークな特性を持っているようです」
彼女はノートに描かれた、いびつな根のスケッチをカエランに見せた。
それは、まるで土が詰まった血管のようにも見えた。
「苔の根、か。聞いたことがないな。そんなものが食えるのか?」
「ええ。この地方の森の奥深くにしか生息しないもので、非常に採取が難しいとされています。生で食すと独特の苦味と土の香りが強いのですが、じっくりと煮込むことで、その薬効が引き出されるのです。特に、微量に含まれる『翠玉の結晶』が、体内の淀みを洗い流す効果があると、この店の主人は仰っていました」
翠玉の結晶…エララの言葉は、カエランには少々難解だったが、彼女の真剣な眼差しから、それがただの空想ではないことが伝わった。
やがて、湯気を立てる大きなボウルがカエランの前に置かれた。
濃い琥珀色のシチューは、見た目にも濃厚で、表面には細かく刻まれた様々な薬草が散らされている。
隣には、こんがりと焼き色がついた素朴な黒パンが一切れ。
香りは、先ほどエララが感じ取っていたような、土と草木の混じった、だが食欲をそそる温かいものだった。
カエランはまず、黒パンを手に取り、シチューの表面に浮かぶ油を少しだけすくい取って口に運んだ。
「ん…!」
予想に反し、その油はしつこくなく、むしろ豊かな香りと、ほんのりとした甘みすら感じさせた。
次に、大きくスプーンですくってシチューを一口。
口に含んだ瞬間、深い滋味と、野性的な香りが広がる。
見た目よりもはるかに複雑な味わいで、様々な薬草の風味が層をなしている。
最初に感じるのは、ほのかな苦味と、その奥に潜む土のような風味。
だが、それがすぐに温かみのある、肉の旨みと溶け合い、喉を通る頃には、まるで全身に温かい血が巡るかのような感覚に包まれた。
「これは…うまい」
カエランは思わず呟いた。彼は何十年も旅をしてきたが、これほどまでに体が喜ぶシチューは初めてだった。
疲労で凝り固まっていた肩の力が抜け、まるで内側から熱が湧き上がってくるようだ。
「不思議なものだな…これほどの薬効があるとは。体が軽くなるようだ」
「ええ。通常の錬金術では引き出せない、自然の持つ純粋な力が凝縮されています。まさに、この地の恵みと言えるでしょう」
エララは、カエランが満足そうに食事をする様子を見て、わずかに口元を緩めた。
彼女は、自身のノートに何かを書き加えながら、カエランの表情の変化を観察しているようだった。
カエランは、黒パンをシチューに浸し、しっかりと吸い込ませてから口に運んだ。
素朴な黒パンは、シチューの濃厚な旨みを吸い込み、さらに美味しくなっている。
「それにしても、この『苔の根』とやら…」
彼はシチューの中から、小さな塊になった苔の根を見つけ、フォークで刺して口に運んでみた。
「…むむ」
ほんのりと苦く、だが歯ごたえは柔らかい。
そして、口の中でとろけるように広がる、ほのかな甘みと、独特の土の香り。
それは、彼が普段口にする肉や野菜とは全く異なる、野生の、そして力強い生命力を感じさせる味だった。
「これは…体が温まるだけじゃない。なんだか、今まで溜まっていた澱のようなものが、スーッと消えていくようだ」
カエランの言葉に、エララは静かに頷いた。
「まさに、その通りです。胃腸の働きを整え、血液の流れを促進し、疲労回復を早める効果があります。そして何よりも、精神的な落ち着きをもたらす効果が高いとされています。長い旅の疲れには、最適の食事でしょう」
「なるほど…道理で、こんなにも体が安らぐわけだ」
カエランは残りのシチューをじっくりと味わい尽くした。
一口、また一口と食べるごとに、体の中から力が湧き上がり、頭の中も澄み渡るような感覚があった。
まるで、重い鎧を脱ぎ捨てたかのように、全身が軽くなった。
食事が終わり、満足したカエランは深々と息を吐いた。胃袋は満たされ、体は芯から温まっている。
「感謝する、店主。そして、エララ殿も」
カエランが礼を言うと、エララは小さく微笑んだ。
「いえ。興味深い観察でした。この『苔の根』の薬効については、私もさらに研究を進めるつもりです。もしかしたら、新たな錬金術の触媒となる可能性も秘めているかもしれません」
彼女の目は、未来の発見を見据えるかのように輝いている。
カエランは立ち上がり、店主に代金を支払った。
「これはいい店を見つけた。旅の途中で、また立ち寄ることがあるかもしれんな」
「いつでもお待ちしておりますぞ」
店主は朗らかな笑顔で応じた。
カエランが店の扉を開け、再び冷たい夜の空気の中に足を踏み出すと、彼の足取りは先ほどよりもずっと軽くなっていた。
体の内側から湧き上がる温かさと、満たされ
た充足感。
「薬膳…悪くない。いや、むしろ、たまにはこういうのもいいものだ」
彼は夜空を見上げた。満月が、雲の切れ間からひっそりと顔を出している。
体の調子が整ったおかげか、月の光すら、いつもより明るく見えた。
一方で、薬膳酒場『癒しの釜』の中では、エララが静かにノートにペンを走らせていた。
「…ふむ。『苔の根』と肉の脂質が結合することで、新たな複合体を形成し、それが血行促進に繋がっているのか。やはり、あの騎士の体格では、これほどの効果は顕著に現れるだろう。興味深い…」
彼女のノートには、詳細なスケッチと、複雑な化学式のような図が描かれていく。
彼女にとって、食事は単なる栄養補給ではなく、無限の可能性を秘めた「実験材料」だった。
エララはボウルの底に残った最後のシチューをスプーンで掬い上げた。
その一口を口に含むと、先ほどまで観察していた様々な情報が、味覚を通じて脳内で再構築される。
「このかすかな甘みは、やはりあの翠玉の結晶の影響か。この地の土壌に含まれる微量元素が、苔の根の成長に影響を与えている可能性も…」
彼女は思考の海に深く潜り込み、その日の「食の発見」を、静かに、そして徹底的に記録していくのだった。
町の外れへと続く道を歩きながら、カエランはふと、自身の使い込んだ砥石をポケットから取り出した。
無意識にそれを指先で転がしながら、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「あの娘…なかなか面白いな。だが、食べ物は、もっとこう…理屈じゃねぇ、心で味わうもんだ」
しかし、彼の胃の腑では、秘薬のシチューが確かに、理屈を超えた充足感をもたらしていた。
今夜の食事は、彼の心と体に、深く、そして温かく染み渡ったのだった。




