第二話 甘き残響、古都の迷路にて
ゴブリンのグリッグル・シュガースナップは、今日も旅を続けていた。
古びた革製のベストは旅の埃をまとい、腰に提げた小さな木箱が歩くたびにカタン、と微かな音を立てる。
オークの軍勢での調理係という過去は、もう遠い記憶の彼方だ。今はただ、ひたすらに甘いものを追い求める、一介の菓子職人崩れである。
彼のつぶらな瞳は、道端の小石ではなく、次に現れる町の菓子屋の看板を熱心に探していた。
「クシュン……この埃っぽさも、また旅の味ってやつか」
彼が足を踏み入れたのは、かつて栄華を誇ったという古都、エルドラの入り口だった。
石造りの門は苔むし、その威容は過去の栄光を物語る。しかし、グリッグルの興味は、そんな歴史的建造物にはない。
彼の鼻腔をくすぐる、微かな甘い香りの方だ。
「む、これは……焦がし砂糖の、いや、蜂蜜か?そして、どこか懐かしい麦の匂い……」
彼の嗅覚は、並外れて鋭い。それは、長年、オークたちの無骨な食生活の中で、唯一の癒しである甘味を嗅ぎ分けてきた賜物だった。
グリッグルは、まるで獲物を追う獣のように、匂いの元へと吸い寄せられていく。
狭い路地裏、入り組んだ石畳の道を抜けた先、古びた木造の建物から、その香りは濃厚に立ち上っていた。
「ここ、か……」
そこにあったのは、「蜜蝋亭」と書かれた、煤けた看板が掲げられた小さな菓子屋だった。
店の前には誰もいない。グリッグルは用心深く、しかし期待に胸を膨らませて扉を開けた。
カランコロン、と寂しげな鈴の音が鳴る。
店内は薄暗く、埃っぽい。
ショーケースには、色あせた菓子がいくつか並んでいるだけだ。
客は誰もいない。奥から、猫背の老人がゆっくりと姿を現した。
しわだらけの顔には諦めのようなものが滲み出ており、見るからに商売がうまくいっていない様子だった。
「いらっしゃい……何か、用かね?」
老人は、ゴブリンの客に驚きもせず、ただ疲れた声で言った。
グリッグルは、小さなフォークとスプーンが収められた腰の木箱を軽く叩き、単刀直入に尋ねた。
「おじさん、この匂い……どこからだ?店の中じゃない、もっと奥、工房の方からする匂い。焦がし蜂蜜と、麦の……。もしや、これは『黄金の蜜渦パン』の匂いじゃないか?」
老人の目が、僅かに見開かれた。その顔に、微かな驚きと、そして一抹の寂しさが浮かんだのをグリッグルは見逃さなかった。
「……ほう。まさか、お前さんのような者が、その名を知っているとは。あの菓子は、もう何十年も作っていない。材料が手に入らないし、何より、もう誰も作ってくれと頼まないからな……」
老人は、店の奥の、さらに薄暗い一角を指差した。そこには、使い古された大きな木製のオーブンが鎮座している。
そのオーブンの隙間から、確かにグリッグルの求めていた香りが微かに漏れ出ていた。
「この匂いは、あんたが以前作ったものの残滓か……。しかし、これほど鮮明に残っているとは。よほど、素晴らしいパンだったんだろうな」
グリッグルは、オーブンを見つめながら呟いた。彼の職人気質の血が騒ぎ始めていた。
老人は、ゆっくりとグリッグルに近づき、オーブンに手を触れた。
「……このオーブンは、わしの曾祖父の代から使ってきたものだ。黄金の蜜渦パンは、このオーブンでしか焼けないと言われていた。特別な魔力が込められた麦と、月光の下でしか採取できない幻の蜂蜜を使った、この都に伝わる秘伝の菓子だった……」
老人の言葉は、途切れ途切れだったが、その瞳には遠い日の輝きが宿っていた。
グリッグルは、その話を黙って聞いていた。そして、突然、彼らしくない大胆な提案をした。
「おじさん。俺に、その『黄金の蜜渦パン』のレシピを教えてくれないか?」
老人は驚きに目を見開いた。
「なに……?なぜ、お前のようなゴブリンが、そんな古臭い菓子のレシピを……?」
「俺は菓子職人だ。そして、美味しいものが大好きだ。この匂いからして、それはきっと、俺が今まで巡ってきたどんな甘味よりも、素晴らしいものに違いない。どうか、俺に教えてくれ!材料が手に入らないなら、代わりを探す。焼く場所がないなら、どこでも探してやる!俺は、この『黄金の蜜渦パン』を、もう一度味わいたいんだ!」
グリッグルは、珍しく声を荒げ、老人に訴えかけた。彼の目には、甘いものへの純粋な探求心と、職人としての強い情熱が宿っていた。
老人は、しばらく黙ってグリッグルの顔を見つめていた。その瞳には、かつての自分と同じ、菓子作りへの真摯な情熱が映っていたのだろう。
「……わかった。そこまで言うのなら、教えてやろう。しかし、幻の材料の代わりを探すのは、容易なことではないぞ」
老人は、店の奥から、埃まみれの古びた革の巻物を取り出した。それが、「黄金の蜜渦パン」の秘伝のレシピだった。
グリッグルは、その巻物を慎重に広げ、食い入るように見つめた。
そこには、難解な記号や、複雑な魔法陣のようなものが記されていた。
そして、材料の項目には、「月光を浴びた黄金麦」「夢幻の森の精霊蜜」といった、いかにもファンタジーらしい記述が並んでいた。
数日後、グリッグルはエルドラの都を後にしていた。
彼の腰の木箱には、秘伝のレシピを記した新たな手帳と、老人が餞別としてくれた、僅かに残っていた「黄金の蜜渦パン」の欠片が入っていた。
それは、硬く、風味もほとんど飛んでいたが、グリッグルには宝石のように思えた。
「幻の黄金麦か……『錬金術師』の知り合いにでも、聞いてみるか。夢幻の森の精霊蜜は……『森の精霊』のやつなら、何か知っているかもしれないな」
彼は、自身の旅の途中で出会った、変わった旅人たちの顔を思い浮かべた。
エララ、サー・カエラン、ジラ、そしてピップ……彼らなら、もしかしたら、この幻の材料を見つける手がかりを知っているかもしれない。
グリッグルは、小さなスプーンで「黄金の蜜渦パン」の欠片を一口だけ食べた。
「うむ……やはり、この味は……。いつか、このパンを、俺自身の手で、完璧に再現してやる。そして、あの老人に、もう一度、焼きたての匂いをかがせてやるんだ」
夕焼けに染まる古都を背に、グリッグルの背中は希望に満ちていた。
彼の新たな旅は、単なる甘味の探求ではなく、失われた「味の物語」を再びこの世界に呼び覚ます、壮大な冒険へと変わっていったのだ。
彼の小さな手帳には、次の目的地が書き込まれていた。そこには、古くからの伝承が残る、謎めいた森の名前が記されていた。