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第十一話 苔むした石臼と記憶の甘露


 ドリアン・アークライトは、ひんやりとした森の奥深くを、ローブの裾を翻しながら進んでいた。

 かつて王宮で名を馳せた魔術師の面影は、質素な旅装と深く刻まれた知的な皺の中に潜んでいる。


 彼の指先は、杖代わりに携えた古びた書物のページを無意識に撫でていた。

 そこには、魔法陣の他に、奇妙な薬草や珍しい食材の図鑑が描き加えられている。


 ここ数日、彼はとある古い言い伝えを追っていた。


 『月の光を浴びた苔むした石臼で挽かれた穀物から作られるパンは、食べた者に古の記憶を呼び起こす』


 というものだ。馬鹿げた迷信だと一笑に付す者もいるだろう。

 だが、ドリアンにとって、それは新たな魔法のインスピレーションの源泉であり、同時に「食」が持つ深淵なる可能性への探求だった。


 森の小道は次第に獣道と化し、苔むした岩が点在するようになる。

 冷たく澄んだ空気が肺を満たし、鼻腔を、甘く、それでいてどこか土の匂いのする香りがかすめた。


 「…この気配は」


 ドリアンは立ち止まり、深く息を吸い込んだ。魔法の気配ではない。

 だが、確かに「生命の循環」を感じさせる、根源的な香りだった。


 足元に目をやると、地面を覆う苔が、周囲のどの苔よりも鮮やかな緑色をしていた。

 その中に、ひときわ大きく、周囲の空気を吸い込むかのように鎮座する巨大な岩。


 そしてその岩の窪みに、苔に覆われた石臼が据え付けられているのが見えた。


 「これか…」


 ドリアンの目が細められた。この石臼だ。

 言い伝えの通り、月の光を浴びてきたのだろう、表面は滑らかに磨り減り、深い緑色の苔がびっしりと生えている。


 石臼の傍には、小さな掘っ立て小屋があり、そこから微かな灯りが漏れていた。ドリアンは迷わず小屋の扉を叩いた。


 ギィィ、と軋む音を立てて扉が開くと、中から現れたのは、小さな、しかし眼光の鋭い老女だった。

 彼女の顔には深い皺が刻まれ、その瞳は森の奥深さと同じ色をしていた。


 「…何の用だい、旅のお方。ここには、旅人に分け与える食料などありゃしないよ」


 老女の声は、まるで枯れ葉が擦れるような、低い声だった。ドリアンは優雅に一礼した。


 「失礼をいたしました、おばあ様。わたくしは、月の石臼の言い伝えを追って参りました、ドリアンと申します。もしよろしければ、この石臼で挽かれた穀物から作られたパンを、分けていただくことはできませんでしょうか?」


 老女は疑わしげな目でドリアンを見つめた。


 「お前さん、魔術師のようじゃが…そんなくだらない迷信を信じるのかい?」


 ドリアンは静かに微笑んだ。


 「迷信か否か、それは食してみなければ分かりません。わたくしは、常に真理を探求しておりますので」


 老女は鼻を鳴らしたが、その瞳の奥には微かな好奇心が宿っているように見えた。


 「まあいいさね。どうせ、お前さんみたいな薄っぺらい輩には、何も感じられやしないだろうがね」


 そう言いながら、老女は小屋の奥へと消えていった。

 ドリアンは小屋の中へと案内された。


 中は驚くほど清潔で、中央には小さな暖炉が燃え、壁際には様々な薬草が吊るされている。  

 そして、暖炉のそばの木製のテーブルには、先ほど見た石臼で挽いたと思われる、粗い粉が盛られていた。


 しばらくして、老女は焼きたてのパンを木の皿に乗せて戻ってきた。

 それは、素朴で飾り気のない、しかし温かみのある丸いパンだった。


 表面には、焼き色の濃い部分と薄い部分が混じり合い、どこか古代の紋様を思わせる。

 ほんのりと土と、微かに甘い香りがした。


 「さあ、食ってみな。これが、記憶のパンだよ」


 ドリアンは、恭しくパンを受け取った。

 まだ熱気を帯びたパンからは、微かに魔力の波動のようなものが感じられた。


 それは、石臼そのものから発せられる「マナ」と、老女の手から込められた「生命力」が混じり合ったものだろうか。


 ドリアンは目を閉じ、ゆっくりとパンを一口かじった。

 その瞬間、彼の頭の中に、まるで古いフィルムが再生されるかのように、様々な情景が流れ込んできた。


 はるか昔、まだこの森が若かった頃、人々が石臼の周りに集まり、共に穀物を挽き、歌いながらパンを焼く姿。

 彼らの喜びの声、汗、そして、このパンが彼らの命を支えていたという根源的な感謝の念。


 それは、ドリアンが経験したことのない、しかし確かにそこに存在した「記憶」だった。


 このパンは、単なる栄養補給の道具ではなかった。

 それは、土地の歴史を、人々の営みを、そして生命の連なりを、食べる者に伝える「媒介」だったのだ。


 ドリアンは目を開けた。彼の瞳は、かつての宮廷魔術師としての鋭さだけでなく、深い感動の光を宿していた。


 「…これは…」


 彼は言葉を失った。老女は、そんなドリアンの様子をじっと観察していた。


 「どうだい?何か、見えたかい?」


 ドリアンはゆっくりと頷いた。


 「ええ。確かに…見えました。この土地の、そしてこのパンを食してきた人々の、営みの記憶が。これほどまでに『生命の循環』を感じさせる食物は、かつて宮廷で食したどの豪奢な料理にも勝るとも劣りません」


 老女の口元に、微かな笑みが浮かんだ。


 「そうだろうさ。この石臼はな、ただの石臼じゃない。この森の精霊と、古くからの契約で結ばれているんだ。月の光を浴び、森の息吹を吸い込み、そして、食べる者の心に、忘れ去られた記憶を届ける。これが、記憶のパンさ」


 ドリアンは、残りのパンをゆっくりと、しかし確かな喜びをもって味わった。

 一口ごとに、新たな発見があり、新たな感情が湧き上がる。


 パンが持つ「マナ」や「生命力」を、これほどまでに明確に感じ取ったのは初めてだった。


 「おばあ様…このパンの作り方を、教えていただくことはできませんでしょうか?そして、この石臼の、魔術的な…いえ、自然との繋がりについて、もう少し詳しく…」


 ドリアンは前のめりになって尋ねた。老女は、またしても鼻を鳴らした。


 「フン。まあ、お前さんには、その価値がありそうじゃ。ただし、条件がある。お前さんが、その『真理の探求』とやらで得たものを、この森と、この石臼に、何かしらの形で還元すること。そして、決してこの石臼の力を、私利私欲のために使わないことだ」


 ドリアンは再び、力強く頷いた。


 「はい!必ずお約束いたします!」


 ドリアン・アークライトの食の探求は、新たな段階へと突入した。

 宮廷魔術師として飽き足らなかった「食」の奥深さ。


 それは、辺境の森の奥深くに、苔むした石臼と、そして一人の老女の守る「記憶のパン」の中に隠されていた。

 彼にとって、これは単なる新しい食材の発見ではなかった。

 



 それは、魔法と生命、そして歴史が織りなす、壮大な食の哲学への、新たな扉が開かれた瞬間だった。


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