美しき慕情
海の匂いは微かに風に乗ってやって来て、空の模様を写し取って彩った。
初代の生まれ故郷は海辺の街であり、夏は観光客でごった返し、冬は山辺の方は雪に覆われた。初代の家は海辺のせいかあまり雪が積もることはなかった。
初代の家は夏の海水浴を求める客の宿を経営しており、初代も幼き頃から宿で客に相手をしていた。
夏頃になると、宿で飼っている猫を撫でていると、客の一人が声を掛けた。
「君はいくつだい?」
「九歳です」
客の男は初代の背に合わせて屈み、初代はその男の裾から流れる冷たさを感じた。
男はその後も何度か宿を利用し、初代も男を顔馴染みに思い接した。
海辺の街で最後に会ったのは初代が十五の時であり、芸者になるために京都行きが決まった事を夏の日に男に伝えた。
「京都に着いたら、手紙で伝えておくれ。僕も遊びに行くから」
男はそう言ったのを初代はよく覚え、坂を登っていくその後ろ姿ともに寂しげな儚さが流れ、その姿が見えなくなると二度と会えないような心持ちがした。
それは初代がこの地を離れる寂しさと重なっていたのかと初代は今になって思っていた。
初代が京都に出向くことになった理由の一つには彼女の寒がりがあった。冬に雪が降る場所であり、宿の方は雪は積もらないが、寒さは火鉢では初代にはどうにもできず、誰もいない客室から火鉢を持っていくこともままあった。
そして十五になった初代は言葉通り、古都京都へと旅立った。そこで芸者としての修行を行い、十八の時に、人前へと出ることになった。
そしてその時までにその馴染みの男が旦那としてついていた。初代にとってその時にはもう父親のような存在になっていた。
男の初代を見る目は幼少の頃とは違い、女を見る目になっていた。そのことに初代が気づいたのは十七の時であったが、その違和感に邪気のような歪んだものを思った。
初代自身は自分の性的とも言える魅力にはまだ気づくはずがなく、それは男と交わることで初めて知るものであった。
それは波が覆い被さるような強い憂いを思わせ、初代にとって、裏切りに似た幸福が大人になり実感に変化させる幻想を抱かせた。
京都では姉を持ち、古都の街並みに身を置きながら、四季を過ぎていった。暑がりであり、夏にはサイダーをよく飲み、母に叱られていた。さいだーの冷たい、刺激が見知らぬ地で生きる覚悟を覚えさせ、滝に打たれる思いを持ちながら味わっていた。それでいて、寒がりでもあるので雪の降った日などは火鉢から離れることはなく、姉の毛布を借りながら、火鉢が友達と笑わせ、寒い地に温かみをもたらそうとしていた。
そして妹を持ち、人前に出た時、男は初代を待ちかねたように、頬に髭を僅かに生やし、皺も幾らか出たようになり、安堵の表情を見て、初代はその時ばかりはこの人だけに尽くそうと思わせた。
ある秋の夜に、男といる際に、初代は秋の月が色づき出し、それを見て
「私は貴方の故郷を訪ねてみたいわ」
「僕の家など行ってもつまらない」
「いいえ、家じゃなくていいの。故郷を見てみたいだけ。貴方だけ故郷を訪ねて、私にはさせないなんてひどいわ」
男の考え込む顔を初代はじっと見つめていた。理性的に思え、二人を結びつけているのは思い出だけでは無くなったような気がした。
「僕の出身は青森だけど」
「青森でもいいわ。是非今度連れてってちょうだい」
初代は声を大きくして言った。その瞬間に怯むような心の裁きがあり、その声はみるみるうちにしょぼくれたように小さくなった。
初代は男の前だけは花言葉を使用しないのである。それは男との馴染みの関係を表しているからであった。
初代の目に古都の街並を据えるものを男は感じた。
その夜はひどく、暖かく清々しいような虚空があり、それがとてつもなく心地良かった。
暗い中に聳える木が夜の風に揺られ、どこからともなく音を立てる。その自然の動きが男自身を意思なくさせた。