第一話4 カンザキ キリュウ
霧生の声は不思議だ。簡単に「いい声」とか表現できるようなものではない。魅了する声、と言っても異性を堕とせるような声ではないし、威圧、と言っても聞くものに恐怖を与えるものではない。彼の声が与えられるものはせいぜい、良い感情に過ぎないのだが、如何せんそれが、幼馴染の立場からすると不快だ。俺が彼を嫌う理由の一番がこの声、二番がその思想、三番がその野蛮さであり、イヌの嫌う理由にもその声は第三位でランクインしている。この声は、どれだけ聞いても聞き慣れることができない。
そんな霧生の声かけにより、輩二人の動きが止まった。路地裏の明るい方に立つ霧生はさっきの子供を連れてきていた。それを見たイヌの目が怒りに満ちる。俺は俺で何やってんだこいつ、と混乱する。
「ほら、その子供ってこの子やろ?もうやめよーやー?子供も戻ってきたことだし、もうええんちゃう?」
霧生は飄々と意味のわからないことを連ねる。何がええんちゃう?なんだ。理論がこいつの中で完結していて気持ち悪い。毎度毎度思うがこいつ、どうしようもない馬鹿なのか?あるいは……
「……お前も異端者じゃねぇか」
輩は小さな声でそう呟く。気圧されていた。こいつらにとって異端者とは、歪な見た目をして社会から弾かれた弱者であって、今目の前で強者の威圧を掛けているような男は当てはまらなかった。彼らには、こんな自信満々な男に痣があることが信じられないのだろう。いまさきの呟きはどうやら、信じられない、そんなわけないというような気持ちから来るカマかけのようなものだったらしい。霧生はそんな輩の性根を見透かしたように笑い、その呟きに肯定した。
「そうそう。だから君達は、異端者である俺とこの子を裁く必要があるんでしょ?君達こそ正義なんだから」
「……そう、だよ。異端者は大人しく死ねばいいんだよ!」
輩が声を荒げる。調子は戻っていない。怯え、迷い。一方反対に、地べたのイヌは怒りに満ちた目で霧生を睨んでいる。睨んだまま、口は出せない。
「ほら、異端者のチビ。そのガキ……よこせ。そしたらお前はなんもしないでやるから」
「へー優しーねー。……でも、一貫してもらわないと困るかな」
その声に、俺たちでさえ悪寒が走る。ああ、やはり声が、異質すぎる。思わず耳を塞ぎたくなるほどに、その声は精神を蝕む。精神汚染に近い、と冗談交じりに俺は考え、今度は俺がイヌに睨まれた。
霧生はそんな観衆のことなど気にせず続ける。
「俺とこの子の両方を殺すか、どちらにも手を出さずに今すぐ帰るか、どっちかだよ」
「……は?」
「もし殺すって言うんなら、この子は知らないけど俺は抵抗するからね?でもどっちかだけってのはダメ。片方のみを選択したら、有無を言わさず殺すから」
めちゃくちゃなことを言っている割に、その言葉が一切冗談に聞こえない程、声には殺意が含まれていた。
「……なん、だよ……おっさんも正義のヒーローごっこか?」
「違うとも、君達と同じさ。
俺は歪んだ偽善だけはぶち壊す主義なんだ。俺は俺のしたいようにする。文句なら受け付けるで?茶でも飲みながら議論でもする?」
濁った赤色がじっと男二人を見つめた。男二人は最初こそ戦いていたものの、見るからに小柄な霧生を見て、ようやく自分たちが実は有利なんじゃないかと気づいた。
「じゃあ遠慮なく、殺させてもらうからな?後悔するんじゃねえぞ」
一人の男がイヌの元を離れて霧生に近づく。そして拳を振り上げる。
霧生じゃ勝てないだろう、普通。イヌより小さいし。三十過ぎのおっさんだし。でも先程言ったように、イヌと霧生は真逆だ。
霧生は拳を流して、男の首を蹴りあげた。変な音がする。男は倒れた。……絶対死んだ。
「ひゃーやめてよ霧生ー」
首が変な方向に曲がった男を見て俺はテキトーにそう言っておく。気色悪い。またこいつは目の前で……気色悪いなぁ。
「……え?」
もう一人が数歩下がる。何が起こったか分からず、思考が停止したようだ。
「……お前は?」
ゆっくりと霧生はそう言った。
「……」
残った男が血相を変え、走って逃げた。イヌが気まずそうな顔をしている。そしてゆっくりと立ち上がった。……かと思えば霧生に掴みかかる。
「お前なんでこの子連れてきた!?あいつらがお前じゃなくてこの子を先に殺してたらどうするつもりだったんや、言って見ろ!」
「別えぇやん。俺はこの子を助けたかったんじゃなくて、あいつらの偽善に一貫性があるかどうか見たかっただけだから」
イヌが霧生を嫌う一番の理由がこれだった。イヌも別に、全ての人間を救いたいタイプの人間ではないが、他でもない『死』を嫌っている。一方霧生は命を軽んじすぎている。自分の命から他人の命まで、思想のための駒でしかない。このちぐはぐは昔から互いに分かっているはずなのに、どちらかが折れる兆しはない。思想が違うとかそういう問題じゃない、相手の思想に合わせるという思考がまず無いのだ。いや、どちらかというと……
「それに大丈夫!この男死んでない。変な風になってるように見えるけど、全然大丈夫だよ。救急車も呼んどいた」
「事前に……?最初から殺る気やん」
「そういう話はしてない!てめぇ、俺がなんのためにこんな怪我したと思っとんねん!」
「いやー見事な偽善だよ。筋が通ってて俺は好きだ。ほら、これやるよ」
霧生が金を差し出す。うーん、やっぱりわざと地雷踏みに行ってる……
「金に困ってるだろ?ほら、お前の意志を無視してこの子を連れて戻った謝罪の意を込めて」
イヌが金を地面に叩きつける。
「いらん、俺は金に困ってない」
「嘘つけ」
「いらん言うてんねん!お前どんだけ俺を怒らせたいんや!」
「イヌ、こいつはその事知らんねん」
「知るか!」
「待て待て。まぁ落ち着こうじゃないか」
「落ち着けるか!……っ、ごほっごほっ……」
怪我しているのに大声を出したせいかイヌが咳き込む。
「……翔、帰ろうぜ」
「……」
こいつなんか放っておいて、というか、仮にも助けて貰ったわけなのだからこれ以上突っかかるのもやめようぜ、という意味も込めてそう言った。
「……結果的に、やろ」
イヌは俺の言葉の意を捉えてか、小さくそう呟き、霧生を掴む手を離した。
「……君」
「!?」
さっきから震えていた子供がイヌに呼びかけられて更に肩を震わせた。
「……なんで戻ってきてもうたん?」
「……この人に……連れて来られて……」
「そうか。怖い目に遭わせてもうて、ごめんなぁ……一人で帰れるか?」
「……かえ、る?」
「ん?」
イヌが優しく聞き返す。
「……帰ったら」
あぁ、と俺は思わず声をこぼす。イヌも顔をこわばらせる。
そうだ。異端者にとっては、真冬のように、ちゃんと帰る家がある方が珍しい。
あいつは帰る家があったのに。そういった考えが一瞬過った。それはどうやらイヌも同じだったようで、少し逡巡したあと、優しく慰めるように続けた。
「……そっか。じゃあどうしよっか。……家、どうしても怖いなら、俺らのとこに……」
「おいおい待て待てイヌ、お前そんな金無いやろ?」
「……お金は、そうだけど……」
「それに、そんな何でもかんでも重ね合わせるのはよくないで」
そう言えば、少し傷ついたような顔をされる。そんな顔されても。
「……はぁ。俺んとこの孤児院連れてくか」
霧生がため息をついてそう言った。どうやら落ち着いたらしい。先程の興奮は失せて、本来の彼に近づいた。慈悲深くて、冷静で、高尚な彼に。毎度思うが一貫性どこ行ってんねん。
「えぇんか霧生」
「その子が良かったらやで」
「あのな、君、この人な、情緒不安定だから、さっきみたいにたまに変になってまうねんな。でも、今のこの人は安心してえぇで。
この人な、孤児院出身なんよ。そんで今はその経営にも関わってる。……なぁ、君はどうしたい?」
「……僕、は……」
少年は俯いて黙ってしまう。しばらく何も言わずに待っていると、子供は涙をポロポロと流した。
「……帰り、ます」
「……そっか。辛くなったら助けを求めてえぇんやで」
「……」
「……家出したん?追い出されたん?」
「……追い出され、て……もう、戻ってくるなって。……怖、くて」
イヌが眉を顰める。こいつの頭後ろからぶん殴ってやろうかな。
「そっか。……死んでもいいとか考えたらあかんで?ほんまに苦しいって思ったら、また逃げてえぇんやからな」
「アホ抜かせイヌ、その子は逃げたけどあぁなったんやろ?」
甘いことを言うイヌに俺が口を挟む。
「どんなに逃げたってこの社会に逃げ場なんてあらへん。異端者じゃなくても、普通の俺らでさえ逃げ場ないのに、そんなちっさい子供が、さらには異端者が安全に生きられる場所見つけるとか無理や、わかっとるやろ?
この社会はそれだけ残酷やねん。さっきのが異端者殺しじゃなかっただけ、幸運やと思った方がいい。せやろ?」
厳しくそう言えば、イヌは少し黙ったあと、俺の言葉を無視して口を開く。
「……こんなこと言うの勝手やって分かっとるんやけど、もし何かあったら俺ら頼ってえぇからな。……いや、まぁ、[[rb:霧生 > コイツ]]は時期によってはあかんか……[[rb:クズ > お前]]も……いや、こいつは大丈夫か」
「何押付けてきとんねん。お前だけで対処せえ」
「飯沼、俺は次この子に会うたら孤児院連れてくからな。……もし家に本当に居場所がなければ、学校の先生に相談するとか、警察に相談するとか……それも出来なかったら、またおいで」
「……えっと……」
「あ、俺は神崎霧生やで。あそこに大きな白い家が建っとるやろ?あれが俺の家。なんかあったらおいで」
「俺は飯沼カケル、この辺うろうろしてるから……家無いねんな。でも、俺見かけたら頼ってえぇからな」
都合のいい時にしか助けない偽善者の鑑。二人が、いや三人がこっちを見てきた。
「俺関係ないやろ。自己紹介してどうすんねん」
「九頭龍カナウや」
「違いますが?ほんでなんで勝手に自己紹介されなあかんの」
「君は?」
「……ツキノ、です」
「……そっか」
「翔お前えぇ加減にせぇ今日変やぞ。いつもそんなんやあらへんのに」
「……ほんまになぁ、なんでなんやろ。まぁええわ。
ツキノくん、絶対死んだらあかんからな」
そう言うと、ツキノは躊躇うように、でもこくこくと頷いた。イヌはその頭をガシガシと撫でる。あーあ、ちょっと怖がってもうたやんけ。デリカシーのないやつ。虐待受けてる子が、その気がなくても手を上げられることがどれだけ怖いか、こいつはよく分かってるはずなのに……それとも、自分がよく分かっているから、と驕っているのだろうか。こいつは実際の体験者じゃないのに。自分のやり方はこういう子供にとって救いになるはずだと、信じて疑わない。軽い吐き気。そう言う驕りが俺は嫌いだった。
それを言うなら霧生もだ。見ず知らずの子供に名前だけじゃなく住所まで教えて。この社会で個人情報を軽く流すことは自殺行為に近いのに。……殊に異端者のこいつは。自分が異端者では珍しくこの歳まで生きてることに驕っているのだろうか。異端者は虐待や異端者殺しの為に死んでまうのに、こいつは、こいつだけは生きているから。傲慢な人間は全員、足元掬われればいいのに。
「お気楽様でえぇな」
「は?」
イヌが怪訝そうに睨んできた。霧生に思ったことだったのだが、思わず漏れた上に勘違いされたらしい。怒られるかな……と思っていたが、イヌは一度睨んだだけで、特に何も言ってこなかった。誰に言ったのか分かったのかもしれない。
「帰ろか、イヌ」
「……せやな」
とぼとぼと歩いていく子供の背を見送って、俺はそう言った。イヌも返事をしてついてくる。
「ほな、また明日な」
「もう会わんでえぇやろ」
そう言って別れる。これ以上巻き込むな、とか、絡むな、とは言わないが、関係の無いことに俺を引きずり込むのは控えて欲しいなとは思う。
「……じゃあな二人とも」
すっかり興奮の冷めた一般人霧生もそう言って、家の方へと歩いていく。多分この後他人のフリして通報もするんだろうな。或いはもう通報してあるか。俺はタバコに火をつけ、帰路を辿るのであった。