第一話1 金借り犬と女好き屑
-red record-
「クズ!おるか!開けろ!」
黒い扉の向こうから、うるさい怒鳴り声がする。無視され続けると、今度は殴りつけるような激しいノック。アパートの一室、汚れた敷布団の上に寝そべっていた男がいやいや起き上がり、着替えもせず髪も整えず、いかにも渋々といった感じで扉を開けた。
「うるさいなぁ、ご近所さんに聞かれてしもたらどうすんねん」
「クズ、金貸して」
寝起きでだいぶな男の様子を一瞥すると、来訪者はそう間を空けずにそう言った。クズ、と呼ばれた男は大きなため息をつく。
「いや……あのなぁイヌ?」
「なんや」
「俺見ての通り今機嫌悪いねん」
「お、何でや?悩みあるんやったら俺が聞くで?」
「あぁほんま?聞いてくれる?あんなぁ、俺今の今までぐっすり寝とったんやけど、突然うるさい怒号で起きてもうてんな?」
「もう14時やで」
「久しぶりに9時間も寝れてたんやで、快眠やった」
「ほぉ、可哀想に」
「やろ?せめて美女の吐息とか、いや、そうやのうても美女の丁寧なモーニングコールで起きるんやったらまだえぇねん」
「美女を強調してくんな」
「当然やろ前提条件や。それをな?髭生やして毛もろくに剃らんおっさんが朝っぱっから金貸せ!言うてドア叩いてんくねんで?」
「ほぉ、同情するわ。金借りる立場なのに何を偉そうにしとるんやろな」
「やろ?そいつはーもう何べんも金借りに来とるくせに全く返す素振りを見せへんねん」
「はえ〜多分そいつもういくら借りたか覚えてへんで」
「返す気ないから?」
「知らん」
「んでな?酒臭いまま服も汚したままろくに身嗜みもちゃんとせんで堂々と部屋入ろうとしてくんねん」
「あーそれは嫌やなぁ。俺意外と潔癖やねん」
「そうなん?」
「そう」
「それは知らんかったわぁ認識改めとくね」
「おう。ちゃんと時代に合わせてアップデートしていかなあかんよ?
そうそうそれに、金借りに来るんやったらきちんと誠意見せてもらわんとなぁ?」
「やろ?ほんでな、金を借りる立場の癖に俺の事クズ呼ばわりしてくんねん」
「ほぉ……俺やな、それ」
「せや。だから帰ってくれ」
「いやー金貸してくれへん?」
「話聞いとった?」
クズが不服にそう訊くと、イヌは聞いてた聞いてた!と笑って返す。
「聞いたったやろ?だから相談料金ちょうだい」
「うせやろお前……これじゃどっちがクズかわからんわ……」
クズが再び大きなため息をつきながらそう言うと、イヌは大声で笑った。
「よし、立ち話もなんだし、邪魔するで?」
「邪魔するなら帰ってー?」
「あいよー……いや帰らんわ。ちょちょちょ待って!閉めないで!」
イヌはクズが閉めようとする扉にしがみつき、さらに大声で騒ぐ。クズは、部屋の前での騒ぎが近隣住民の迷惑になる、とでも思ったのか、また渋々了承し、イヌを家に上げた。
「はーぁ、部屋に男上げんのいつぶりかな?最近女しかあげてへんわ」
「こんな散らかった部屋にか?」
「ん?これはねぇ、昨日……一昨日かな?連れ込んだ女がほかの女の下着見つけて、騒ぎ立てて帰ってって。その後始末まだしてないだけやで」
「ほんま、懲りひんやつやなぁ……」
イヌはやや引きした目でクズを見つめる。どっこいどっこいやと思うけどな、などとクズは思いつつ口には出さない。口に出さずともそれは伝わったようで、イヌはムッと眉を顰める。何か言いたげだが、相手が口に出していないので何も言えないといった顔だった。クズはそこまで察してほくそ笑む。
「なんか飲む?」
「お、ええの?」
「下水とトイレの水と生ゴミ絞った時に出てきたヤツ、どれがいい?」
「全部下水やないかい。お前客に何飲ませようとしてんねん」
「誰が客じゃいおら帰れ」
「帰ってもえぇけど金貸せ」
「だから今度は俺の金……もとい、俺の女の金を何に使おうとしてんねん!」
「酒」
「帰れ!」
ついにクズがそう叫ぶと、イヌはやれやれと言ったように首を振り、はーあ、とわざとらしいため息をついて続ける。
「昔お前が女に騙されて金を根こそぎ持ってかれたとき、俺は金貸したったのになぁ……」
「あれは騙されてたんちゃう、愛情の裏返しや」
「お前が金無いけどどうしてもタバコ吸いたいって言った時に買ってやったんは誰やったかなぁ……」
「タバコはありがと。でももう充分借りは返したと思うで?」
「ほんまに?」
「うん」
「言うてみ?」
「もう何回もお金貸してる」
「足りん足りん」
「借金取りに追われるお前と一緒に夜逃げした」
「……それは……………………あれや、お前が女に恨まれて殺されかけた時に、俺も一緒に逃げたったやん」
「んあー……難しいところやな。うーん……。
……わかった、今日が最後やで」
「わーいかなうくんありがとー!」
空色の目をキラッキラさせながらイヌはお礼を言った。互いに「思ってないこと言うなあ」、と思いつつもテンポを大事に喋っていくこの会話に、クズはすっかり慣れてしまっていた。クズとイヌは小学校からの腐れ縁。7つから33歳の今まで、そのほとんどを共に過ごしてきた。言わなくてもある程度の意思疎通をしつつ、口に出すこと出さないことの区別をつけている、といった関係。実際、クズはイヌの言葉を聞いて、多分最後にならないんだろうな、と察しつつも、半分諦めたような気持ちで一万円札を数枚渡していた。
「働けお前」
「うん」
「あーれー上の空?」
お札をポケットに突っ込むイヌに、クズの言葉はどうやら届いていないようで、イヌはふんふんと上機嫌に鼻歌を歌いながら、部屋のゴミを拾い出した。クズは眉を顰め、一応咎める。
「おいおいやめろ、あんま触んじゃねぇ」
「どうする?片付け手伝おうか?」
「あ、えぇの?でもあれやで、いろんな下着とか使用済みと混ざったゴムとか出てくるで?」
「いやもう慣れた」
そう言ってイヌは部屋の整理をし始めた。クズの評価では、イヌは記憶力だけは良いやつ、であった。実際、イヌは三週間前に来た時の物の配置をしっかり覚えているようで、なんでもないように淡々と片付けを始めた。というか『もう慣れた』ではない。クズは今更になってイヌの行動に引いた。
クズは片付けるイヌを監視しながら、床に腰かけてタバコに火をつける。イヌと違ってクズは仕事に就いており、今日はちょうど休日だった。クズの休日と言えば、こうして家でダラダラしているか、女を家に呼んでるかのどちらかである。掃除をあまりしないので、寝具は生臭いまま、数字の書かれた箱も散らかりっぱなし。それでも寝室以外は基本的に綺麗な方だった。どちらかといえば、生活感がない、と言ったところか。料理もでき、ある程度のことはこなせ、面倒くさがりとはいっても合理的な判断が下せるためその場の労働を面倒くさがって物事を後回しにしたりはしないタイプのクズは、一般的に言えば生活力があるほうであったが、生活意欲に欠けていた。言い換えれば、生存意欲。
九頭龍結叶とは、大して女好きでもなく、他人に興味もないくせに、ただモテるからというきっかけから来る破滅願望で女好きのポーズを取っているタイプのクズであった。元は「九頭龍」からとって「クズ」であったが、今の彼はその名に違わず正真正銘のクズであり、面倒ではないがどうでもいいという理由で生存を放棄するようなどうしようもない、どうしようもできない人間である。
クズもイヌも今年で三十三歳。九頭龍からとってクズ、飯沼からとってイヌ、と互いに呼び合うのは、名前の読みが同じだからであった。結叶も唯翔もユイト。この名前繋がりで、小1クラスで若干いじられる、という流れが無ければ、彼らはこうして腐れ縁をこじらせて最悪のクズとカスの縁を続かせることもなかったかもしれない。それぞれが独自路線でそれぞれクズカスする分には、まだ見栄えがよかったかもしれない、と思わせるほどに、三十路幼馴染組の二人はどうしようもなかった。
クズがヘビースモーカーなのに対し、イヌは酒飲みで、クズにその他の趣味が女くらいしかないのに対しイヌは読書を趣味としている。イヌがカスなところは、第一に働いていないこと。第二に必要でない金を借りて酒に費やしていることである。しかし現在、クズの友人に代わって部屋の掃除を引き受けているイヌのほうが、いくらか見栄えがよかった。まず顔がいい。クズに言わせてみれば、イケメンなのが鼻につく、との評価。定職にも就かず、ダラダラとほっつき歩いてるイヌのサマは、クズからしてみても自身に似ていると言っても間違いではないほどであり、しかしイヌには自身と決定的に違うことがあるということを、彼は理解していた。
イヌには、意志がある。理念がある。クズに言わせてみればどうでもいいこと、あるいは自分では決して手に入れることができないものを、イヌはそんじょそこらの人間とは比べ物にならないほど抱えている。イヌは自分の欲望に従って生きているのだ。クズには、それが無い。
ちょうどクズはそんなことを考えていた。身近に感じるイヌの気配に、社会的に見て恥ずかしすぎて友とは呼び難い犬畜生の持つ、得難い「生きる意志」について。
いつからだったか、クズ自身も思い出せないほど昔に、クズは意欲という意欲を全て失ってしまった。生きたいとか、何がしたいとか、そんなものは消失して。ただ息をするためにタバコを吸い、イヌの真似をして、自分の性欲に従って行為をする。それでも、何かが満たされることは無い。代わる代わるやってくる女性は、クズに何かを求めてやってくるが、そのたびにクズは、何も感じない自分が何も持っておらず、何も与えることがないことを考えていた。ずっと、誰かに手を引かれて生きてきただけで、自分から生きようと根本では思っていない。そのポーズだけ保って、社会で人間を、大人を演じている怪物であった。クズはため息をつき、思考する。
「(人は生きるままに生き、死ぬときは死ぬ。それに介入することも、なく。俺は……自分がどうしたいのか分からず、ただ……『善い人生』を模索している。
それだけを頼りに、俺は……)」
「クズ、聞いてる?……おーい、クズー?
……叶?おい、大丈夫か?死んだんか?叶?」
「…………ん、何や?」
クズが重い瞼を開くと、そこには空色の目があり、じっとクズを見つめていた。美しいが視力の悪い目が、クズの姿をそのまま映している。透き通った鏡のようだ、などとクズの麻痺した頭は考える。
「いや、また寝てんのかなって」
「寝てはないけど……まぁ考え事しとったわ。で何?」
「邪魔」
「俺この部屋の主やねんけど」
「うん、邪魔」
イヌがなんでもないように淡々と言ってのけるので、クズは重い腰を上げて退く、ありがとーなんて言ってイヌはゴミ袋を持ってクズの脇を通る。その袋を、ちらとクズは盗み見る。見えたのは一瞬だけであったが、見えた中に、捨てられて困るようなものはなかったことをクズは確認した、確認できていた。
「お前欲情したことないやろ?」
「は?なんや急に」
戻ってきたイヌが突然そんなことを言い出すものだから、さすがのクズも不意を突かれ、思わず聞き返す。イヌは耳を小さく動かした。何かを考えている時の、彼の癖だった。
「ん?いや〜ほら、アッチの本いっぱいあったけど、適当に扱われとったし」
「お前よう触れんな?」
「ちゃんと手洗ってきたで。汚いもん」
後で洗えば大丈夫精神の人だ。クズにとっては理解できない人種だった。イヌの自称潔癖は疑いがあるな、などクズは考える。
「で今チラッと横通ったけど反応せんかったってことは思い入れもないんやろ?まぁーお前元々物に執着無いタイプではあるけれども」
「俺が今の一瞬で袋の中身全部見れるとでも思ってんのか?」
「お前反射的に見たものに対する感覚冴え渡っとるもん」
イヌはそのまま、クズの得意の話をしたが、クズはイヌが何を言ってるのかよく分からないようだった。イヌに補足の気がないのを悟り、
「……んー、まぁ、あれや、身体は欲情しとると思うで?正常に勃ってるし。病気とかではない、多分。でも……」
「お前自身の心はちゃうんやろ?この際どうや?合コンとか行ってみたら?」
「んー……」
「お店とか」
「んー」
「あ、薬やってみる?」
「この流れで何聞いてんお前」
「だってぇ、お前そんなんで人生楽しいんかな?って」
クズの視線と意識は、再び動いたイヌの耳に向いている。
「……楽しないで」
「やろうな」
「死にたいもん」
「お前死んだら俺も金銭面で死んでまうんやけど……せめて死んだ時の財産全部寄こして?」
「とんでもない野郎やなお前」
「あっはは、本気やで?」
いや本気なのだろうけども、とクズは心の中で突っ込む。
「せや、今のうちに俺に都合のいい遺書でも書いといてくれや」
「考えとくわ……」
おもんな、という顔をした後それを引っ込め、イヌは再び呑気に続ける。まるで、“こいつの前で素面で喋ってなるものか”、とでもいうような意地に似た何かを、クズは感じ取る。
「けど、それ嫌やなぁ……仮にもお前ダチやもん、楽しんで欲しいけどなぁ……」
「童貞で家族なし、友人もなしなお前のたった一人の知人やもんなぁダチになった覚えはねぇけど。てかダチやって思っとるんやったらもう金借りにこんといてや」
「えぇやだよ、俺が来る頻度減っちゃうじゃん」
「えぇやろ別に」
「ある日何気なしに来たら死んでました、とか嫌やで俺」
「いや、お前と違って俺働いてるから。ていうかお前なんや、生存確認のつもりやったんか?」
「いや?金借りに来とる」
だろうな、とクズは笑った。嘲笑に近かったが、単に友の相変わらずのカスっぷりに笑ってしまった、くらいのものであった。
イヌはタバコに火をつける。クズの吸ってる銘柄とは違うものだ。イヌは息をふうっと吐く。
「人生に楽しみはあって欲しいんやけどなぁ……」
「人生の尺度は人それぞれやで、介入してこんといて」
「するわ。今更やろ?」
クズがイヌの通っていた小学校に転入してきて、そこで彼らは出会った。それから中学、高校、大学と同じだった。一応。厄介な腐れ縁、というのが、クズの中でのイヌの位置づけだ。
「よし、まぁええわ。今日はサンキューな。また来るで?」
「もう来んといて〜」
「死ぬなよー」
そう言ってイヌは部屋を出て行った。静寂の中、クズは息を吐く。白い煙が静かに上がっている。クズが思い出していたのは、さきほどイヌが捨てに行った袋の中身。薬や縄、刃物が全部入ってたことも、クズは確認していた。全部捨てられた、とクズは再び乾いた笑いを漏らす。
何を思ってか、クズはまた、何かに思案に耽る。