とにかくみんな死ねばいい。
今までに此方のアカウントで投稿した全ての小説が繋がるお話です。
僕が所属させていただいているギャラリー「世田谷233」(東京都世田谷区若林1-11-10)で公開した小説もお読みの方は、更に楽しんで頂ける内容になっております。
此方は、アルファポリスにて連載していた作品の転載です。
(あらすじ)
「探偵社アネモネ」には三人の探偵がいる。
ツンデレ気質の水樹。紳士的な理人。そしてシャムネコのように気紛れな陽希。
彼らが様々な謎を解決していくミステリー。
ある日、其処に白い陶器の義足の青年が現れる。
その依頼は、「殺人犯だけを狙う殺人鬼」を見つけることだった。
二〇二六年一月四日。海老原水樹は「探偵社アネモネ」のドアの前にいた。
曇り空のような色のビルの二階。実は、此処に到着してから、かれこれ三十分ほどこうしている。時々ドアノブに手を掛けたり、下がったりを繰り返し、じっと考え込み――そして、一時間ほど経ってやっと、ドアを開けた。
「水樹、お疲れ様でした」
次の瞬間、ぱぁんと派手にクラッカーを鳴らされ、水樹はぎゅっと目を瞑る。上品な茶色のスーツにオーボエのような声を携えた黒髪の彼は、橘理人。水樹と同じ「探偵社アネモネ」の職員だ。
「……理人。その言い方はやめてくれませんか」
「何故です? 事実に即していると思いますが」
水樹は、二〇二四年の夏に、とある事件を起こした。怪我人は一人も出さなかったが、豪華客船の船員たちを困らせてしまった。
そのため、一時逮捕され、裁判などを経て、今、此処に帰って来ている。勿論、これほど早く解放された裏には、理人や、もう一人の職員である光岡陽希の尽力があったことは分かっている。
「今までの水樹の探偵としての功績が認められたのですよ」
と、面会の際に理人は言っていたが、気を遣わせないためだろう。
こうして、水樹は杖の音を響かせながら、約一年半ぶりに「探偵社アネモネ」に足を踏み入れた。
内装は何も変わっていなかった。事務所のソファはマリンブルー。グレーの机が三つ、その一つは理人の整頓されたスペースで、もう一つは陽希のもの。書類の類が散乱しているからすぐ分かる。そして、愛用していたパソコンが埃一つなく置かれている最後の一つの机が、水樹の場所だ。
この事務所の状況が、気持ちを落ち着かせてくれる。水樹は思わず頬を綻ばせた。
「何も変わっていませんよ。私たちも――嗚呼、陽希のピアスが二つ増えましたが」
理人は、水樹の様子を見ながらコーヒーを淹れつつ、そんな風に笑う。
「二つも!? 僕がいた当時から、右耳に三つも着けていませんでしたっけ」
「水樹がいなくて、退屈で。ついつい増やしてしまったそうです」
「そんなやつがあるか」
水樹はため息を吐き、常に皆がたむろしているソファに座る。そして、理人がコーヒーを淹れる背中を眺めた。
モカ豆をミルに入れる。ミルのスイッチを入れると、豆が粉になる音が部屋に響いた。理人が、その音に耳を傾けているのが水樹にも分かる。ミルが止まると、理人は粉をドリップポットに移し、沸騰したお湯を注いだ。すると、チョコレートだったりスパイスだったりするような甘く刺激的な香りが立ち上った。理人は、その香りに鼻を近づけて深呼吸した。
コーヒーが落ちる音がポタポタとリズムを刻む。理人は、ポットの上からコーヒーの色を見た。深い茶色の液体がゆっくりとカップに満たされていることだろう。
そして、その白いカップを水樹の前とその隣にもう一杯分置いて、理人も水樹の隣に座った。
「それで、陽希は何処へ?」
「さぁ……昨日、『水樹ちゃんが久々に来るから絶対サボらなーい』と宣言していましたが、いつもの通りに重役出勤でしょうか」
「本当に変わりませんね」
水樹が呆れて溜息を吐いた、その時だった。事務所のドアのすぐ外から、「あーけーて!」と元気いっぱいの声がした。
水樹と理人でハッとなって目を見合わせる。すると、もう一度、「俺だよー! あーけーて!」と声が響いた。
理人が慌てた様子で立ち上がり、小走りで行ってドアを開ける。其処に、マーマレードジャムのような髪が覗く。陽希だ。
「陽希、遅いじゃないですか、僕が久々に出勤する日に一体どこで何を……」
その陽希が、何故か金髪の青年を負ぶっているので、ぎょっとする。
「事務所の下で困ってるみたいだったからさぁ、負ぶってきた!」
金色の髪の青年を、思わず水樹はじっと見る。両足が美しい陶器の義足で、何か絵が描いてあるようだったが、何の絵なのかは、ズボンに隠れて見えなかった。次に青年の顔に視線を動かす。色合いや輝きからピンクダイヤモンドのようだった。
「……この方は?」
理人は、水樹よりも更に警戒していたようで、声がほんの少し尖っている。しかし、陽希は無邪気な笑みを浮かべて、「彼は依頼人だってさ!」と元気に答えるのだった。
早速、スカイブルーのソファに金髪の青年を座らせると、陽希もその空いたスペースに座った。
「うちの事務所のビル、階段しかないじゃん? この依頼人さんが、事務所の下で困ってるみたいだったからさぁ、負ぶって連れて来たんだー」
金髪の青年は、爽やかな笑顔で「お世話になりました」と小さく頭を下げた。水樹と理人は、彼と陽希の向かいの椅子に座って、同時に小首を傾げる。
「依頼人とは知らず、失礼いたしました。お名前を伺っても?」
「鹿野祐太郎と申します」
祐太郎は、物珍しそうに事務室を一瞥し、水樹をまっすぐ見て「素敵な事務所ですね」と言った。
「どうぞ、鹿野さん、コーヒー、召し上がってください」
「ありがとうございます」
再び祐太郎は笑みを見せるが、理人が出し、勧めているコーヒーには手をつける気配がない。笑みを仮面のように使い、警戒している様子が見て取れた。
「所長の海老原水樹です。それで、鹿野さんの御依頼というのは……」
水樹が名刺を出しながら静かに口火を切ると、鹿野はそれを受け取り、黒いツイードのジャケットの内ポケットにしまった後、笑みを失くして言った。
「……最近、この辺りで沢山の人間が首を切り落とされ、海に放られているのを御存じですか」
「首を?」
水樹は、自身の裁判等で、この一年の世相には疎くなっていた。理人に視線を送る。しかし、かなり情報通であるはずの理人も、不思議そうに眉を顰めるばかりだった。陽希も、ぽかんとするばかりだ。
「何それ。やべー事件っぽいね」
「ええ。ちょっとした事情があってね、警察も殆ど追っていない、連続殺人事件だ。俺は、アンタたちに、その犯人を見つけて欲しい」
「いや、鹿野さん、警察は何故、そんな大きい事件を追っていないのでしょうか?」
理人は一段と警戒を強めたようで、口元まで強張らせる。
「その事情に依っては、私たちも依頼を請けるわけにはいかないかもしれません」
首を横に振る理人を見ると、祐太郎はジャケットの内ポケットにまた、手を入れた。手を入れた、と思っている間に、理人に拳銃が向けられている。
拳銃。
取り急ぎ店名で検索して、水樹たち「探偵社アネモネ」のメンバーがその地図どおりに向かうと、狭い路地にひっそりと佇む喫茶店に辿り着いた。小さな看板に、店名として「まんまる白うさぎ堂」と書かれていた。その文字は、白いウサギのシルエットに囲まれている。店の外観は、古びた木造の建物で、屋根に敷かれているのは瓦。窓には、色とりどりの花が飾られて、和紙のカーテンが垂れ下がっている。
その扉の前に一人の青年が立っていた。何より目立つのは、陽光を反射する銀色の髪だ。次に、ストロベリークォーツを眼窩にはめ込んだような双眸。グレーのタートルネックにネイビーのチェック柄のパンツを合わせて、黒い革靴を履いている。
元より細身の水樹よりも痩せっぽちで、とても強そうには見えないが、彼がカノープスの同業者なのだろうか。警戒を怠らない方が良いだろう、と思った時には、陽希が声をかけていた。
「こんにちはー。貴方がアルネブさん? 俺、『探偵社アネモネ』の陽希って言います」
マーマレードジャムのような色の髪を掻きながら、銀髪の青年に寄っていく姿は無防備そのものだ。陽希自体の運動神経が抜群だから、余裕があるという理由もあるだろうが、先にカノープスを招き入れた反省はないらしい。
銀髪の青年は、きょとんとした後、にこりとして胸に手を当て、頭を下げた。
「陽希様。お世話になっております。私は確かにアルネブです。カノープス様から大抵のお話は伺っております。私も、『殺人犯のみを狙った連続殺人鬼』に関しては情報を持っておりますので、貴方たちにお伝えしようと思いまして。ほかに、私に協力出来ることならさせていただきますので、何なりとお申し付けください」
「本当? アルネブさんは優しそうな人で良かったなぁ。カノープスって人、ヤバかったからさ」
「ふふ。カノープス様は少々血気盛ん過ぎるところがありますからね。私はプロです。むやみやたらに攻撃を仕掛ける方が、逮捕されたり、返り討ちに遭ったりする可能性が上がる。故に、依頼のない殺しはしませんから御安心を」
「矢張り、逮捕されたり殺されたりしたくはないのですね」
「この世界に、逮捕されたり殺されたりしたい人間なんていませんでしょう?」
アルネブは、理人の質問に、正気を疑っているような顔をして、それから笑みを作り直した。
「陽希様たちにおかれましては、今日、此処まで御足労いただき申し訳ございません。実は、このお店に入ってみたかったんですよ」
如何にも怪しいが、水樹と理人も自己紹介をした。
アルネブが店の扉を開けると、扉には鈴がついており、優しい音が響いた。水出しコーヒーの香りと、和菓子の甘い匂いが混ざり合って、落ち着いた空気を醸している。カウンターには、ウサギの形をしたクッキーやマフィンが並んでおり、壁には、ウサギに関する絵本や雑誌が飾られている。テーブルや椅子は、すべて木製で、シンプルだが温かみのある雰囲気を作り出していた。
アルネブは、喫茶店のカウンターに座って、メニューを開く。隣に座った水樹の目にも飛び込んで来るくらい大きく書かれているのは、抹茶と白玉のウサギパフェという文字だった。
「水樹様も、何か御注文なさいませんか」
「僕は……アルネブさんと同じものにします」
正直、たいして食欲も湧かなかった。
「責任重大ですね。しかし、大船に乗ったつもりでいらしてください。私は、自分の好きなものに対しては、一切の妥協を許さないのです」
と、宣言すると、そのパフェを注文した。アルネブは、甘いものが大好きな青年のようだ。鼻歌交じりにパフェが運ばれてくるのを待っていた。そして、ポニーテールの女性店員によってそれが届くと、目を爛々と輝かせて小さく拍手する。
「私の想像を超えています。美しくて、可愛らしい」
パフェは、抹茶のアイスクリームやゼリー、白玉やあんこなどの和風の素材で作られていた。そして、白玉をウサギの形にして、チョコレートで顔や耳を作っていた。更に、フルーツとして、イチゴとブルーベリーが添えられている。
アルネブは、さっそくソーダスプーンでそれをひと匙すくって、口元に運んだ。直後、目をまん丸くする。
「美味しいです。イチゴは真っ赤で甘酸っぱいですし、ブルーベリーは深紫で、それぞれ色も味も、抹茶の風味と相性抜群。抹茶のほろ苦さと白玉のもちもち感のコンビネーションも感動しました」
アルネブは無邪気に声を弾ませた。本当に、犯罪で金を得ているのか判断がつかないほど、無垢に見える。
しかし、理人だけがずっと動かない恵比須顔のまま、アルネブが口を拭き終わるのを待って、冷静に問うた。
「それで、アルネブさんは、『殺人犯のみを狙った連続殺人鬼』に関して、何か情報をお持ちだ取り急ぎ店名で検索して、水樹たち「探偵社アネモネ」のメンバーがその地図どおりに向かうと、狭い路地にひっそりと佇む喫茶店に辿り着いた。小さな看板に、店名として「まんまる白うさぎ堂」と書かれていた。その文字は、白いウサギのシルエットに囲まれている。店の外観は、古びた木造の建物で、屋根に敷かれているのは瓦。窓には、色とりどりの花が飾られて、和紙のカーテンが垂れ下がっている。
その扉の前に一人の青年が立っていた。何より目立つのは、陽光を反射する銀色の髪だ。次に、ストロベリークォーツを眼窩にはめ込んだような双眸。グレーのタートルネックにネイビーのチェック柄のパンツを合わせて、黒い革靴を履いている。
元より細身の水樹よりも痩せっぽちで、とても強そうには見えないが、彼がカノープスの同業者なのだろうか。警戒を怠らない方が良いだろう、と思った時には、陽希が声をかけていた。
「こんにちはー。貴方がアルネブさん? 俺、『探偵社アネモネ』の陽希って言います」
マーマレードジャムのような色の髪を掻きながら、銀髪の青年に寄っていく姿は無防備そのものだ。陽希自体の運動神経が抜群だから、余裕があるという理由もあるだろうが、先にカノープスを招き入れた反省はないらしい。
銀髪の青年は、きょとんとした後、にこりとして胸に手を当て、頭を下げた。
「陽希様。お世話になっております。私は確かにアルネブです。カノープス様から大抵のお話は伺っております。私も、『殺人犯のみを狙った連続殺人鬼』に関しては情報を持っておりますので、貴方たちにお伝えしようと思いまして。ほかに、私に協力出来ることならさせていただきますので、何なりとお申し付けください」
「本当? アルネブさんは優しそうな人で良かったなぁ。カノープスって人、ヤバかったからさ」
「ふふ。カノープス様は少々血気盛ん過ぎるところがありますからね。私はプロです。むやみやたらに攻撃を仕掛ける方が、逮捕されたり、返り討ちに遭ったりする可能性が上がる。故に、依頼のない殺しはしませんから御安心を」
「矢張り、逮捕されたり殺されたりしたくはないのですね」
「この世界に、逮捕されたり殺されたりしたい人間なんていませんでしょう?」
アルネブは、理人の質問に、正気を疑っているような顔をして、それから笑みを作り直した。
「陽希様たちにおかれましては、今日、此処まで御足労いただき申し訳ございません。実は、このお店に入ってみたかったんですよ」
如何にも怪しいが、水樹と理人も自己紹介をした。
アルネブが店の扉を開けると、扉には鈴がついており、優しい音が響いた。水出しコーヒーの香りと、和菓子の甘い匂いが混ざり合って、落ち着いた空気を醸している。カウンターには、ウサギの形をしたクッキーやマフィンが並んでおり、壁には、ウサギに関する絵本や雑誌が飾られている。テーブルや椅子は、すべて木製で、シンプルだが温かみのある雰囲気を作り出していた。
アルネブは、喫茶店のカウンターに座って、メニューを開く。隣に座った水樹の目にも飛び込んで来るくらい大きく書かれているのは、抹茶と白玉のウサギパフェという文字だった。
「水樹様も、何か御注文なさいませんか」
「僕は……アルネブさんと同じものにします」
正直、たいして食欲も湧かなかった。
「責任重大ですね。しかし、大船に乗ったつもりでいらしてください。私は、自分の好きなものに対しては、一切の妥協を許さないのです」
と、宣言すると、そのパフェを注文した。アルネブは、甘いものが大好きな青年のようだ。鼻歌交じりにパフェが運ばれてくるのを待っていた。そして、ポニーテールの女性店員によってそれが届くと、目を爛々と輝かせて小さく拍手する。
「私の想像を超えています。美しくて、可愛らしい」
パフェは、抹茶のアイスクリームやゼリー、白玉やあんこなどの和風の素材で作られていた。そして、白玉をウサギの形にして、チョコレートで顔や耳を作っていた。更に、フルーツとして、イチゴとブルーベリーが添えられている。
アルネブは、さっそくソーダスプーンでそれをひと匙すくって、口元に運んだ。直後、目をまん丸くする。
「美味しいです。イチゴは真っ赤で甘酸っぱいですし、ブルーベリーは深紫で、それぞれ色も味も、抹茶の風味と相性抜群。抹茶のほろ苦さと白玉のもちもち感のコンビネーションも感動しました」
アルネブは無邪気に声を弾ませた。本当に、犯罪で金を得ているのか判断がつかないほど、無垢に見える。
しかし、理人だけがずっと動かない恵比須顔のまま、アルネブが口を拭き終わるのを待って、冷静に問うた。
ということですが、どのようなものなのです?」
「理人様、随分と余裕がないようにお見受けします。物事を成し遂げるには心身のゆとりが必要でしょうに。そんなに緊張なさらず、リラックス、リラックス。慌てなくても、私はちゃんと情報をお渡ししますよ」
アルネブは赤い目を三日月形にして、ズボンのポケットから、何枚か写真を取り出した。そこには、いずれも、深夜の海辺の風景が写っている。またいずれにも何人かの影がある。水樹は身を乗り出し、そのうちの一人の不審人物を指さした。
「この、燕尾服と、ウサギの耳が着いたシルクハットを身に着けている人物は誰なのでしょう。『不思議の国のアリス』の白ウサギみたいで、こんな深夜にこんなところに立っているなんて、非常に怪しいですね」
「それは私です、水樹様」
アルネブが、ちょっとムッとした顔をしたので、水樹は慌てて頭を下げる。
「すみません、アルネブさん……」
「構いませんが、この燕尾服の男は、仕事着の時の私ですよ。それと、『不思議の国のアリス』の白ウサギではなく、かちかち山のウサギです」
「すみません、アルネブさん……」
「まぁ、素直に謝ってくださったので許します。それよりも、御覧になっていただきたいのは、もっと波打ち際の方です」
水樹、理人、陽希は三人とも写真に顔を近寄せた。確かに、波打ち際に、二つの影がある。
「私の仕事は、出た死体を海や湖に自ら捨てることで、芸術として完結します。ですが、『殺人犯のみを狙った連続殺人鬼』も海などに死体を捨てるそうで、完全にネタが被っているのです。私が一生懸命考えた方法ですのに、軽い気持ちで模倣されては困ります」
「芸術、ねぇ」
理人は険しい顔をしたが、アルネブは聞き流した。
「ですから、『殺人犯のみを狙った連続殺人鬼』を自力で見つけて、始末してやろうと、このあたりの海辺に定点カメラを仕掛けてしばらく撮影していたのですよ。人のアイデアをパクるやつは、許せませんからね」
「さっき、アルネブさん、言ってなかったっけ? 依頼のない相手は、手に掛けないって」
「いいえ、陽希さん、パクり魔は万死に値します。めぼしいものが写ったのは、この時だけですが」
「この二つの人影の何方かが、今回探してる犯人ってコト?」
「そう思いますよ、私はね。しかし……――」
アルネブは腕組みして考え込んでいる。水樹はもう一度写真を覗き込んだ。
「アルネブさん、何か思うところがあるなら教えてください。どんな小さなこともヒントになるかもしれませんから」
「ああ、そうですね……改めて見ると、この二人のうちの片方の人、私の知り合いのような気がするのですよ。此方の、やたらひらひらした洋服を着ているお方。デルフィヌス様とおっしゃる方に似ているなぁ、と」
「デルフィヌス……?」
「デルフィヌス様は、私の同業者です。いや、デルフィヌス様ではない、かもしれませんけれど。かつては一緒に仕事をしたこともありましたが、今は敵対勢力に近い感じなので、しばらくの間、会っておりませんし、見た目も変わっている可能性が高いでしょう」
アルネブに更に質問しようと思ったが、其処でアルネブのポケットから端末の着信音がした。
「失礼」「どうぞ」のやり取りを挟んで、アルネブはそのメッセージを眺める。そして、白い眉をハの字にし、困った笑みを見せた。
「少々遠方で仕事の依頼が入ってしまいました。この辺りで私はお暇させていただきます。お三方、お体に気を付けてお仕事頑張ってください」
アルネブが小さく手を振る。何と愛らしい仕草か、これから人の命を奪いに行く人の姿とは思えない。引き留めることも出来ず、水樹たちは彼を見送った。
その後、水樹たちは一度事務所に戻った。一階でカノープスたちが控えていると思うと、気もそぞろだったが、家に帰って後をつけられる方が危険だというので、暫く三人とも事務所に泊まることにする。
陽希が、昔ちょっとワルだった頃の人脈を使い、「デルフィヌス」とやらの行方を追った。すると、今は会員制バー「Jardin avec chats noirs」を経営している店主が、情報を持っていることが分かった。
と言っても、その店主も直接連絡を取れるほどデルフィヌスと親しい訳でもなく、バーの客からの噂話程度で、今、大体どこで出没するのか、ということと、「金さえ払えばどんな依頼も請ける人だ」という曖昧な証言が得られただけだった。
***
探偵は体力勝負だと思う。
水樹たち三人は、ローテーションで、デルフィヌスが出没するらしい地点を見張ることにした。探偵社の社用車、ヴォクシーのスパークリングブラックパールクリスタルシャインの運転席と助手席に一人ずつ乗って、二十四時間体制で、デルフィヌスを探す。
デルフィヌスの外見的な特徴は、「黒髪に黒い目、片方に眼帯」に「アンデルセンの『人魚姫』の王子に似た服を着ている男装の麗人である」とのこと。かなり目立つだろうから、見落とすことはなさそうだが、此処に現れるかは定かではない。
寒い車内で、理人と陽希で肉まんを食べる。湯気と白い息が車内を満たすようだった。
「私は、どうしたらいいのか分からないのです」
理人が小さな声でつぶやくと、陽希は頭の後ろに両手をやって枕のようにして、理人の方を振り返った。
「どうしたの? 理人ちゃん」
「今回の事件を追っていくことが、危険なのではないかと……それに、これほどのリスクを冒してまで、遂行するべき捜査なのでしょうか?」
理人は整った眉根を寄せて、声を尖らせた。
「仮に、全てが成功して犯人を見つけることができたとしても、その犯人が標的としているのは、カノープスさんやアルネブさんのような悪党ばかりなのですよね。恐らく大勢の人を殺しているであろうアルネブさんが、平然とパフェを食べている様子に、違和感を覚えてしまって、どうしても……」
陽希は、その言葉を噛み締めるように暫くじっとしていたが、やがてハンドルに身を寄り掛からせるようにし、理人に歯を見せて笑った。
「でもさ、理人ちゃん。い悪党は悪党で反省するべきだけど、俺たちが追っている犯人は犯人で、やり方は明らかに間違ってるんだから、ちゃんと間違ってるよーって教えてあげたいよね」
陽希のこういう信念を持っているところが、理人は好きだった。
その時、フロントガラスの向こう側に、ひらひらとしたフリルのついたズボンを履いた人が、右から左へ通り抜けるのが見えた。
「あ、あの人じゃない!? デルフィヌスさん!」
陽希が慌てて、運転席から飛び降りる。
「陽希! 気を付けて!」
理人も猛然と走って陽希を追った。
「デルフィヌスさん! デルフィヌスさんですよね!」
デルフィヌスなのか分からないが、陽希がその人を呼びながら追いかけると、その人は振り返った。髪も目も深い黒で、オブシディアンのようだ。確かに眼帯もしている。
デルフィヌスらしき人物は、じっと陽希を見ているが、唇が動く気配はない。人違いだとも、そうです、とも言わなかった。
理人は、「デルフィヌスは、一言もしゃべらないのだ」と言っている人がいたのを、ふと思い出した。
「……あの、デルフィヌスさん」
陽希が確信を持った口調で、もう一度呼んだ。デルフィヌスは、未だじっと陽希を見ている。陽希は射すくめられたように暫し黙り込んだ。あの陽気な陽希が動けなくなる威圧感に、少し離れている理人もたじろいだが、放ってはおけない。
「デルフィヌスさん。私たちは、貴女に依頼があります」
デルフィヌスの黒い目が、理人と陽希の間、何もない空間に向かって動く。「何もしゃべらない人」というよりは、まるでマネキンのようだ。意志すらも感じられない。
「……報酬はお支払いします。このところ、『殺人犯を狙った殺人鬼』がいるらしい。私たちは、依頼を請けて、その人物を追っています。貴女が御存じのことがあれば伺いたい」
デルフィヌスは、なおも全くしゃべらないまま、黒いブーツの足を、くるりと動かした。
「デルフィヌスさん、待ってください、待っ……」
理人は大慌てで声を掛けた。だが、デルフィヌスが足を止める様子もない。一方で、追うように駆けだした陽希の足音が明らかに聞こえているはずなのに、逃げる風もない。理人と陽希は仕方なく、彼女の後をついていくことにした。
デルフィヌスが辿り着いたのは、一軒の小さな平屋だった。外観はかなり古びていて、屋根はトタンだ。デルフィヌスはその扉を開けて中に入っていく。理人たちが続けて入っても、追い出す素振りはなかった。
その最初の見開き、生徒たちが並んでいる「はず」の頁で、もう理人は息を呑んでしまった。
殆どの写真が、黒のサインペンで、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされているのだ。
残っているのは、一枚の写真だけだった。デルフィヌスが、自分の写真だけ綺麗な状態にしてあるのかと思ったが、今のメイクの分を差し引いてどう見積もっても、この写真はデルフィヌスではない。
陽希も、「どうしちゃったんだろう、これ」、と声を震わせた。
その時だ。ドアが激しく叩かれる音がして、理人も陽希も振り返る。激しいノックと思いきや、すぐドアが破壊された。
壊れたドアの向こうに、陽希より明るめの金髪に、黒いピアスを両耳に一つずつ着けた青年が、鬼のような形相で立っている。その青年の手には、バールが握られていた。
「だ……っ、誰、え?」
陽希が声を引っ繰り返しつつ、体は素早く異常事態を察知し、理人の前に立ってくれる。理人はフリーズ状態になっていた。頭は動いているのに、こういう事態に直面した途端、いつも体が動かなくなってしまうのは、本当に悔しい。
「デルフィヌスは何処だ」
その言葉を聞いた時、理人は、この意味不明だった事態の殆どを理解した。目の前にいる青年は、「殺人犯のみを狙った連続殺人鬼」。今、理人たち「探偵社アネモネ」が追っている、その人。そして、彼はデルフィヌスの命を狙っている。あのアルネブが出した写真は、この連続殺人鬼がデルフィヌスをつけているシーンを切り取ったものだったのだろう、と。
彼が、理人と陽希をすぐに始末する気がないようだったので、理人もやっと半歩前に出ることが出来た。
「もう、誰も殺さないでください。貴方に人を殺して欲しくないんです」
「お前は誰なんだよ。関係ないだろ。それともお前も人殺しか?」
青年の全身から、怨嗟が黒い炎となって見えるようだった。理人は首を左右に振る。陽希が、変わらず二人の間に立ってくれているから、倒れずにいられた。陽希の横顔を見る。身を切られるように悲しそうだった。
「俺の家族は、悪党に殺されたんだ。親父と、おふくろと、妹と俺、いたって普通の、幸せな家族だったのに。悪党さえいなければ、依頼する人だって諦めて、皆で折り合いをつけて生きていこうと考えたかもしれない。俺だけじゃない。悪党たちに人生を狂わされた人は少なくない。全部、全部悪党たちのせいなんだ。俺たちは大事なものを殺されてるのに、どうして殺しちゃいけない。どうして分かってくれないんだよ」
陽希が慌てて、運転席から飛び降りる。
「陽希! 気を付けて!」
理人も猛然と走って陽希を追った。
「デルフィヌスさん! デルフィヌスさんですよね!」
デルフィヌスなのか分からないが、陽希がその人を呼びながら追いかけると、その人は振り返った。髪も目も深い黒で、オブシディアンのようだ。確かに眼帯もしている。
デルフィヌスらしき人物は、じっと陽希を見ているが、唇が動く気配はない。人違いだとも、そうです、とも言わなかった。
理人は、「デルフィヌスは、一言もしゃべらないのだ」と言っている人がいたのを、ふと思い出した。
「……あの、デルフィヌスさん」
陽希が確信を持った口調で、もう一度呼んだ。デルフィヌスは、未だじっと陽希を見ている。陽希は射すくめられたように暫し黙り込んだ。あの陽気な陽希が動けなくなる威圧感に、少し離れている理人もたじろいだが、放ってはおけない。
「デルフィヌスさん。私たちは、貴女に依頼があります」
デルフィヌスの黒い目が、理人と陽希の間、何もない空間に向かって動く。「何もしゃべらない人」というよりは、まるでマネキンのようだ。意志すらも感じられない。
「……報酬はお支払いします。このところ、『殺人犯を狙った殺人鬼』がいるらしい。私たちは、依頼を請けて、その人物を追っています。貴女が御存じのことがあれば伺いたい」
デルフィヌスは、なおも全くしゃべらないまま、黒いブーツの足を、くるりと動かした。
「デルフィヌスさん、待ってください、待っ……」
理人は大慌てで声を掛けた。だが、デルフィヌスが足を止める様子もない。一方で、追うように駆けだした陽希の足音が明らかに聞こえているはずなのに、逃げる風もない。理人と陽希は仕方なく、彼女の後をついていくことにした。
デルフィヌスが辿り着いたのは、一軒の小さな平屋だった。外観はかなり古びていて、屋根はトタンだ。デルフィヌスはその扉を開けて中に入っていく。理人たちが続けて入っても、追い出す素振りはなかった。
建物の内部は、暗闇の中に浮かぶ白い月のように、周囲とは異なる世界を作り出していた。
壁は深い紫色に塗られ、天井には銀色のシャンデリアがぶら下がっている。窓には重厚な黒いカーテンがかかり、外からの光を遮っていた。部屋の中央には、白いレースとフリルで飾られた大きなベッドがあり、その上には黒いウサギのぬいぐるみが寝ている。ベッドの横には、黒い木製のドレッサー。その上には彼女のコレクションの一部であろう、様々な色や形の服が掛けられていた。いずれも、まさに人魚姫の王子様を彷彿とさせる、繊細なビーズの刺繍やレースなどがあしらわれている。僅かに開いたままのドレッサーの引き出しには、リボンやレース、パールなどのアクセサリーがたくさん入っていた。部屋の隅には、本棚があり、そこにはゴシック小説や詩集、絵本などが並んでいる。本棚の上には、黒い猫の人形が鎮座していた。その人形は、明らかに手作りという感じがする。
理人は確信した。此処はデルフィヌスの部屋だ。彼女はこの部屋で、自分の好きなものに囲まれて、自分の好きなことをしているのだ。彼女はこの部屋が、自分の心の中の世界の反映だと思っているに違いない。そういうメッセージが伝わってくる部屋だった。
デルフィヌスは、無言のままに棚を開け、テーブルの上に幾つかの洋菓子を出すと、そのまま椅子に座って食べ始めた。椅子が一脚しかないので、必然的に理人たちは立っていることになる。
彼女は、「お金を払えば何でもしてくれる」――と聞いている。それと「しゃべらない」というある種のこだわりであろう条件と、何方が優先されるのか、理人は分からない。とにかく待つしかないだろう。
しかし、ずっと待っていたら、一度も目が合うことなく、デルフィヌスはゆっくりと立ち上がり奥の扉を開けて、何処へなりと消えてしまった。
「……え? どこか出かけたのかな……?」
と、陽希が不安そうに身を小さくして呟いた直後、シャワーの音が聞こえて来たのでほっとする。
本当に長丁場になりそうだ。心を開いてくれる予感すら全くしない。水樹へ現状報告のメールを送る。その隙に陽希がいなくなっていたことに、メールを打ってから気付く。陽希が置いて行ったとは少しも思わなかった。陽希を信頼している。ただ、何処かに幽閉されたのか、と頭の中で咄嗟に思い、きょろきょろすると、陽希は理人に背を向けて、本棚をじっと見ているだけだった。
「理人ちゃん。こんなところにアルバムがあったよ」
陽希は無邪気に声を弾ませ、黒い表紙の卒業アルバムを抱えて持ってくる。勝手に見て良いものか、と思ったが、シャワーの音は未だしているので、そんなにすぐは来ないだろうと踏んで、すぐ戻せるように本棚のすぐそばに屈んで、アルバムを眺めることにする。
表紙には、聞いたことのない小学校の名前が金色の文字で書かれていた。
ゆっくりとアルバムを開く。
その最初の見開き、生徒たちが並んでいる「はず」の頁で、もう理人は息を呑んでしまった。
殆どの写真が、黒のサインペンで、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされているのだ。
残っているのは、一枚の写真だけだった。デルフィヌスが、自分の写真だけ綺麗な状態にしてあるのかと思ったが、今のメイクの分を差し引いてどう見積もっても、この写真はデルフィヌスではない。
陽希も、「どうしちゃったんだろう、これ」、と声を震わせた。
その時だ。ドアが激しく叩かれる音がして、理人も陽希も振り返る。激しいノックと思いきや、すぐドアが破壊された。
壊れたドアの向こうに、陽希より明るめの金髪に、黒いピアスを両耳に一つずつ着けた青年が、鬼のような形相で立っている。その青年の手には、バールが握られていた。
「だ……っ、誰、え?」
陽希が声を引っ繰り返しつつ、体は素早く異常事態を察知し、理人の前に立ってくれる。理人はフリーズ状態になっていた。頭は動いているのに、こういう事態に直面した途端、いつも体が動かなくなってしまうのは、本当に悔しい。
「デルフィヌスは何処だ」
その言葉を聞いた時、理人は、この意味不明だった事態の殆どを理解した。目の前にいる青年は、「殺人犯のみを狙った連続殺人鬼」。今、理人たち「探偵社アネモネ」が追っている、その人。そして、彼はデルフィヌスの命を狙っている。あのアルネブが出した写真は、この連続殺人鬼がデルフィヌスをつけているシーンを切り取ったものだったのだろう、と。
彼が、理人と陽希をすぐに始末する気がないようだったので、理人もやっと半歩前に出ることが出来た。
「もう、誰も殺さないでください。貴方に人を殺して欲しくないんです」
「お前は誰なんだよ。関係ないだろ。それともお前も人殺しか?」
青年の全身から、怨嗟が黒い炎となって見えるようだった。理人は首を左右に振る。陽希が、変わらず二人の間に立ってくれているから、倒れずにいられた。陽希の横顔を見る。身を切られるように悲しそうだった。
「俺の家族は、悪党に殺されたんだ。親父と、おふくろと、妹と俺、いたって普通の、幸せな家族だったのに。悪党さえいなければ、依頼する人だって諦めて、皆で折り合いをつけて生きていこうと考えたかもしれない。俺だけじゃない。悪党たちに人生を狂わされた人は少なくない。全部、全部悪党たちのせいなんだ。俺たちは大事なものを殺されてるのに、どうして殺しちゃいけない。どうして分かってくれないんだよ」
青年は左目から涙を落とし、悲痛な叫び声を上げる。
「デルフィヌス。この辺りで有名な犯罪者だって聞いたよ。それからずっと追ってたんだ。何度も逃げられたが、今日こそデルフィヌスを見つけてやる!」
青年が、そう喚き声を出す。だが、「やる」の「る」、その「R」までが発音されたあたりで、急にぴたりと、動きと呼吸を止めた。理人と陽希も呆然と立ち尽くす。
青年の後頭部に、デルフィヌスが立っていた。
本当に、何の音も表情もなく、そこに立っている。そして、その手には銃。銃口はぴったりと青年の後頭部に当てられている。
青年が、ゆっくりと眼球だけ後ろに振り返った。
「……デルフィヌスか」
デルフィヌスが、引き金に指を掛ける音が、理人にも聞こえた。
「待……待てよ! 待ってくれ!」
そのまま銃が火を噴くかと思い、理人は目を閉じたが、青年の言葉に、デルフィヌスは指を止めたようだ。相変わらず表情どころか、瞬きすらしていないが。
青年の唇がみるみる青くなって、閊えながら声を絞り出す。
「デルフィヌス。俺は、自分がただの鬼畜にならないように、ちゃんと標的について調べている。お前の過去も調べたんだよ。学芸会なんて些細なことで、お前の同級生はいじめられて、自殺した。そのきっかけがデルフィヌス、お前のせいってことにされた。だが、俺はね、デルフィヌスはちっとも悪くなんてなかったって思う。そう! 一番悪いのは虐めたやつらだ。お前は、一番大切なものを失って、更にその責任をなすりつけられてる。この部屋だって、その時自殺しちゃった友達の部屋に、ちょっと似ているじゃないか。弔いなんだろ? そんな辛い過去があったから、こんな最低の職に就いちゃったんだろ?」
デルフィヌスは、未だ眉の一つも動かさない。銃口はずっと青年の後頭部にある。
「俺は一度だってデルフィヌスを絶対に殺そうと思ってない。今日も探していたのは、デルフィヌス、お前を見つけて対話しようと思ったからじゃないか。俺は、デルフィヌスの気持ちが分かるよ。苦しいよな。俺も家族の中で俺だけが生き残って、俺が犯人なんじゃないかとか、色々疑われて、親戚は関わり合いになりたくないって俺を捨てた。俺たち分かり合えるんじゃないか」
青年の必死の訴えに、理人はじっと聞き入ってしまった。
その演説が終わると、遂にデルフィヌスの唇が、驚くほどゆっくりと開く。そして、喉が上下し、声が、出た。
「違う」
余りの迦陵頻伽に、再び理人は息を呑む。しかし、青年は別の意味で、唖然としているようだった。
「『違う』? 『違う』ってどういう……」
「違う。全く違う。ここは、お前に殺された、別の犯罪者のものだったのを、買い上げた。内装も外観も全てその当時のまま。家具はその犯罪者の趣味だ。お前を呼び込んで、お前を殺して、そうしたら売り払う予定でいる。何の思い入れもない」
「そんな、嘘だろ……」
「お前が此処に来るように仕向けた。お前を殺すよう依頼があったからだ。依頼をした人間は、同業者だ。自分が殺されたくないから、先にお前を殺せと言われた。お前は作戦のとおりに此処に来た。浴室には外に出られるドアを用意しておいた。そうじゃなかったら、今、背面からお前に銃を向けられないだろう? 過去の影響がどうのこうのというのは、全て、お前の幻想だ」
デルフィヌスは、唇だけを動かしており、矢張りずっと表情はないままだ。
「人間に過去は関係ない。過去が恵まれていても悪に堕ちるものはいる。この世にいる誰も、分かり合うことなんてできない」
次の瞬間、銃声が鳴り響いて、理人は恐怖と緊張の限界を迎え、そのまま目の前が真っ白になった。
***
次の瞬間、陽希は、デルフィヌスに銃口を向けられた。心臓が口から出そうになりながらも、目を背けたら負けだと思い、陽希はじっとデルフィヌスを睨む。理人の前に立ちふさがったまま。
デルフィヌスは、変わらぬ平坦な美声で言った。
「人は他人を助けたりしない」
引き金に掛った指に、ゆっくりと力が入るのが見て取れる。だが、陽希は絶対に身動ぎしなかった。
「俺は理人を守る。そんなことを言うなんて、デルフィヌスさんは、悲しい人だね」
瞬きの間に、首に鈍い痛みが走り、眩暈がした。此処で、陽希の意識もすっかり途切れてしまった。
---
二〇二六年一月三〇日。水樹は「探偵社アネモネ」でカノープス及びアルネブと向き合って座っていた。今し方コーヒーを出して、昨日、依頼された「殺人犯のみを狙った連続殺人鬼」が、デルフィヌスに殺害されたという事実を、きちんと報告したところである。
「嗚呼、誰かに先越されちまったか」
怒られるか、何をされるのか、と警戒していたが、カノープスは仰け反って腹を抱えて笑い出した。アルネブも、「最近の『かちかち山』では、たぬきは死なない、と知った時くらいショックです」と言ったが、その顔が微笑んでいる。
「仕方がない。脅威は去ったんだから、よしとするか。何、物事は思い通りに行かないこともある。ポジティブに捉えようぜ」
カノープスは水樹の頭をわしゃわしゃと撫でて、札束を握らせてくる。受け取れない、と返そうとしたが、
「俺の渡したものを受け取れないってことはないだろう」
と、強引に笑顔で押し戻されたので、ジャケットのポケットにしまう。
「理人って言ったっけ、精神的なショックで何日か休みなんだろう? 直ぐに復帰できるとは言え、入院って言ったら心配だ。それで見舞いの品でも買ってやってくれ」
「カノープス様も丸くなられましたね」
「うるせぇな、アルネブ」
「まぁ私たち、もう大御所ですから、余裕を持って行かなくては」
と、アルネブは両手でカップを持ってコーヒーを飲み、「コーヒーを出してくださるなら、欲を言うならお菓子も欲しかったですね……カヌレ、マカロン、ラングドシャ――」などと指を折っている。
「うるせぇな、アルネブ」
「……つかぬことを伺うのですが、どうしてお二人は、その、犯罪で金を稼ごうと?」
水樹が問いかけると、カノープスは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。
「殺されたいと思う人間がいるか?」
アルネブも、しらっとして続ける。
「正しいことをしていても、殺されることはありますからね。水樹様もお気をつけになってください。案外、どこでも、振り返れば私たちのような悪党が、立っているかもしれませんね」
先の質問の答えになっているのか、いないのかすら、問い直してはいけない雰囲気だ。
「次にお会いする時は、二人でメロンパンサイダーを飲みましょう」
そう頭を下げると、アルネブとカノープスは――カノープスは、また部下に背負われて――この事務所を後にするのだった。