婚約破棄すると毎日会いに来られないけど、かまわない?
マーガレットの前には今年十歳になったばかりの小さな王子がいた。ここは王宮の彼の部屋で、彼は国で唯一の王子でありその将来を次の王にと約束されている王太子であった。
そしてマーガレットもまた、将来の決まっている令嬢であり、王太子ノエルの婚約者であった。ゆくゆくは結婚をしてこの国の王妃となる立場である。
しかし彼は、使用人に淹れてもらった紅茶をこくりと飲んで口の中を潤してから、マーガレットの事をじっと見据えて、それから潤んだグレイの瞳で、真剣に口を開いた。
「マーガレット、お願いがあるんだ」
「あら、急に改まってどうしたの? 何かあった?」
マーガレットが問いかけるが、ノエルはふるふるとふんわりとした白髪を靡かせて頭を振る。
その仕草だけで、子供らしい可愛さが爆発していて、マーガレットは可愛いということで頭のなかがいっぱいになっていた。
しかし、真剣な様子は大人らしく振る舞おうとする姿勢が見受けられる、まだこの歳ならば無邪気であるのが当然なのだが、そこは王太子としての教育のたまものだろう。
「……何にもない。ただ、私と、婚約を破棄してほしい」
「……それはまたどうして」
「どうしてもだ。私は、君の事なんてこれっぽっちだって好きではない」
「……」
彼はそういって睨むように顎を引いてマーガレットを見た。しかし、彼からすれば睨んでいるつもりでも、マーガレットから見るとかわいい上目遣いに見える。
くりくりとした瞳はまるで宝石のように美しく、肌だって白雪のようだ。王族は大体みんなこんな感じの容姿をしているが、こんなまっしろな子供となるともはや天使のようである。
この彼が、将来きちんとした男性に成長するのか多少なりとも疑問であるのだが、今の王のように健やかに育ってほしいものである。
「き、君は、優しいし、素敵だし、いろんなことを教えてくれるけど、そんなのどうでもいいぐらい婚約破棄したいんだ」
……優しくて、素敵か。そんな風に見えてたなら良かったよ。……本当、可愛い。
半分だけ話を聞いて、マーガレットはまた頭のなかが可愛いという言葉で支配された。
しかし、そんなことではいつまで経っても話は進まないだろうということでやっとノエルが言っていることについて考えた。
どう考えても不自然な主張をしているノエルだったが、実際問題、ノエルとマーガレットの了承があれば婚約破棄できない事もない。それどころか、マーガレットが強く望み、たとえノエルが嫌がっていたとしてもできる。
マーガレットの出身の家系であるヒースコートは代々、王族の傍系に当たる一族だ。
その中でも多くの魔力を持ち、風の魔法を操るマーガレットは何をとっても最上位、今のところ王女よりも重要視されている存在だ。
だからマーガレットが母親が側室であったノエルなど王の器ではない、彼と国を治めるのには協力できないといえば、その通りになったりする。
そんなマーガレットと婚約破棄を望むなど、幸運の青い鳥をみすみす逃すようなものだ。つまりはありえない。
どうしてそんなことになったのか聞きたくて、ノエルを見つめてマーガレットは真顔で返した。
「ノエル、誰かに何か言われたの? 婚約破棄はそれほど簡単に口にしていい言葉ではないんだけど」
「っ、違う。私がそうしたいと望んでるんだ」
「望むにしても理由という物があるでしょう? なにもなく急に思い立ったというだけでするものでもないし、そんなことをしていたら周りに迷惑になるよ」
「それも、そうだが」
「じゃあこの話は終わりでいい?」
冷静に常識を説くがノエルは煮え切らない態度を返していて、マーガレットが話を終わらせようとすると、必死に駄目だと首を振って、それからむくれるように頬を膨らませた。
「……うーん。どうしたらいいかな」
考えつつも彼のほうからもう少し何かを言ってくれないだろうかと思い、むくれた状態のノエルを見つめる。
可愛く膨らんだほっぺたをつんつんとしたい衝動に駆られるけれども、そんなことをしてさらに機嫌を損ねるのは困る。
堪えていると、ノエルは今思い立ったという様子で、ぱっと表情を明るくしてから、また真剣な顔になった、
「理由があったら真面目に聞いてくれるんだったな」
「……まぁ」
物にもよるが、理由があれば納得のいく解決策が見つかる可能性もある。だから聞いているだけだ。婚約破棄などまったくする気はなかった。
「……じゃ、あ、その……私は、マーガレットが……好きではないから」
「さっきも聞いたけど……それに好きじゃなくても結婚はできるものだよ」
「っ、す、きじゃない……ではなく、嫌いならどうだ」
「……」
「マーガレットが嫌いだから、婚約破棄したい」
マーガレットが答えられずにいるとノエルは続けていった。その言葉にマーガレットは流石にずきっと心が痛んだ。
自分の方が年上で、子供の気まぐれな言葉に傷つくほど子供じみていないとは思っているのだが、はっきり言われると悲しいものがある。
「お願いマーガレット、私は……マーガレットが嫌いなんだ」
……二回も……。
確かに、ノエルがどういう風に思うのかは彼の自由だ。
マーガレットがどれほど献身的にノエルに尽くしていても、どんな感想を持ってもいい。
しかし、マーガレットはそれでもノエルが大好きなので、あまり後先の事を考えられていなさそうな彼に、将来の為を思って言う。
「じゃあ……婚約破棄をしたとして、というお話をするね」
彼のような身分ではない子供ならば、まだまだ必要のない建設的な思考だと思うが、彼の場合には何かを言うだけで多くの人が動く。
何度もその経験をして、自分の行動にどんな結果が伴うのか考えるための思考力は必要だ。
「したとして?」
「うん。まず、ノエルは、私と会う数がずっと減る」
「え……なんでだ?」
「婚約者だから、会いに来ているけれど、そうじゃなければパーティーの時に挨拶するだけの関係になるんだよ」
「……ずっと毎日、会いに来てくれているのに?」
「うん」
半分冗談のつもりで言ったが、彼は何故かそれを疑問に思ったらしく、丁寧に答えるとものすごく寂しそうな顔をした。
しかし、親の顔よりマーガレットの顔を見ているかもしれない彼なのだ。こんな反応も当たり前だった。
「後は、王位継承権を他の王子と争うことになって家族仲が悪くなる」
「それはいい。今でも悪いし」
「うん?」
本命として彼が嫌がりそうなことを言った。しかし、ノエルは冷めた顔で冷めたことを言う。その反応に首をかしげて返しつつさらに言った。
「それから、私はノエルと呼び捨てできなくなる」
「してもいいって言っても?」
「うん。ノエル王太子殿下、ごきげんよう、しか喋らない」
「それじゃあ、他の貴族たちと同じだ。そんなの嫌だ」
「……」
……嫌だと言われても、ノエルが私の事嫌いだからそうなるという話なのに。
考えつつも、マーガレットは言った。
「あと、今してる後継者教育も無駄になるかもしれない」
「別に無駄になってもいい」
「……なるほど。他の貴族からも、王座から下ろされた王子として見下される」
「今だって、優しい顔ばかりして嫌な事ばかり言うじゃないか」
真面目なマーガレットの話には、ノエルはそっけなく答えて、マーガレットはこの子はあまり、執着しないタイプだと思っていたが想像以上に権力に興味がないな、と思った。
そうは思ったが、王位継承者としての忙しいスケジュールを難なくこなしている。きっと地頭がいいのだ。だからこそ普通だったら嫌がることもできる。
それでもノエルが、引っかかっている部分はマーガレットの事に関して。
マーガレットの事を嫌いだというのに、どうしてかマーガレットと離れたくないらしい。
できのいい子なので、婚約破棄がどういうことかなど理解していると思うのだが、きっとマーガレットだけは例外的にずっとノエルのそばにいるものだとでも思っていたのだろう。
「私は、婚約破棄をされたら普通に他の男と結婚するし、子もなす、婚約破棄をしたとして、そうなるのが当たり前であるし、必然だよ。もちろんノエルに構ってる暇はなくなる」
「……それは嫌だけど、婚約破棄、したいんだ」
「……どうして?」
「……」
嫌いという言葉は嘘だったのであろうと言うことは理解できる。しかしやはり婚約破棄をしたい理由は分からない。
優しく聞いてやると、ノエルは落ち込んだような表情をしながら重たい口を開いて、自分の手を手で触れて心細そうな顔をした。
「ノエル。私は怒ってないよ。どうして、婚約を破棄をしたいのか教えてほしいだけなんだ」
そして再度聞いた。嫌いだからという嘘はもう通じない。
その優しい声につられるようにして、ノエルは口を開いた。
「……一人で王宮を散歩していた時に聞いたんだ」
彼がひとりで出歩くことはないはずだ、必然的に大人の目をかいくぐって抜け出した時の事を言っているだろう。それを指摘しようかと思ったが、口には出さずに続けてほしいと彼を見つめた。
「アマンダ王女たちが、庭園でティーパーティーを開いていて、女の子たちはどんな会話をするのだろうと思ってこっそり近づいてみたんだ」
アマンダはノエルより二つ年下の腹違いの妹である。あまりいい話は聞かないが正妃の子供でノエルを嫌っているのは確かだ。
「そしたら……会話の流れでマーガレットの事になって、君がきっととても苦労していて、これからもするであろうのはすべて私と婚約しているからだと言っていたんだ」
言っているうちに悲しくなってしまったのか、ノエルはグレイの瞳にウルウルと涙を溜めて、慰めてほしそうにマーガレットを見やった。
それに手を伸ばしてやりたくなったけれども、ノエルはマーガレットが嫌いだと嘘をついたまま撤回していないので、そうしてやることは出来ない。
「そして、私のお母さんにヒースコート公爵家が恩があるから、婚約破棄できないだけで、お母さんの子供の私が望めば大喜びで婚約を破棄してマーガレットは喜ぶはずだって言っていたんだ」
潤んだ瞳からはぽたぽたと涙がこぼれ、テーブルに小さなしずくが落ちる。
それを聞いた時のノエルの気持ちを思うとマーガレットも胸が苦しくなった。
「だから、君には喜んでほしいし、婚約に縛られて私を嫌いになってほしくないし、お母さんが何をしたのか知らないけど、そんなのは気にしなくていいから、だから……っ」
頬が赤くなって、呼吸が荒い、言い淀んでからそれでもノエルは泣き出して止まらなくなるようなことは無く、きちんと深呼吸をして自分を落ち着けてから言うのだった。
「婚約を破棄してほしいんだ」
「……」
……きっとそんな話を聞いて、不安だったでしょうに。
それでも、マーガレットの事を考えて、喜んでほしいと思ってくれる彼になんだかジンと胸が熱くなってイスを少し引いて彼に視線を向けた。
「ノエル……おいで」
それから手招きすると彼は、ぱっとイスから降りてトテトテと歩いてやってくる。それからイスに座ったまま横を向いてノエルの事を抱きしめた。
「不安にさせたでしょ。ごめんね」
「き、気にしてない。私はただ……マーガレットに喜んでほしくて」
体は小さくまだ、少し舌足らずで子供っぽい。
しかし、それでも務めて大人らしく振る舞う姿に成長を感じる。
本来ならすべてを話して甘えて、そんなはずない自分は愛されてるはずだと思ってもおかしくないのに、きちんと悲しい事実を受け止めて現実を見ている。
それに素晴らしいと思いながらも、マーガレットの事だけは盲目的に信じていてもいいと思う。
なんせ、そうして支える役目を買って出たいと思うほどマーガレットはノエルの事を愛しているからだ。
「ねぇ、ノエル」
「な、なに?」
「……私はね。婚約破棄なんてされても喜ばないよ。たしかに貴方のお母さまには恩がある、でもそれは家の事情であって私の意志とは無関係」
椅子に座った状態で抱きしめていたので、立っているときよりもノエルの顔が近くで見える。
こうして自分より頭が上にあると、どうしても大きくなったように感じるが、守るべき子供だということに変わりはない。
「じゃあ、どうしたら、君は私の事を嫌いにならない? 言ってたんだ、アマンダ王女もその友達もマーガレットはきっと私を疎ましく思っていると」
「疎ましくも思ってない」
「どうして? 私はマーガレットには釣り合わないような人間だと皆が言う」
「……」
「マーガレット、君は私の事をどう思ってるんだ?」
マーガレットがノエルに優しく言っても彼は不安そうにするばかりで、その質問にマーガレットは少し考えてから答えた。
「ノエル、貴方と同じだよ」
「……私と?」
「うん。会えないのは寂しくて、他の人と結婚するなんて考えられないって思ってる」
そう言ってから、思い至った。
そういえばまだ彼はマーガレットを嫌いだと言っていたのを撤回していない。このままではまたいらぬ誤解を生んでしまう。
「ノエルはまだ私の事が嫌い?」
今度こそ素直に答えてくれるかなと考えて、マーガレットは少し眉を困らせて聞いた。するとノエルは、フルフルと頭を振ってそれから、少し恥ずかしそうに笑いながらも言う。
「好きだ。大好きだ。マーガレット。本当はずっと一緒にいたい」
「うん。私も」
同意すると、ノエルはとても安心した様子で、いつものように輝くような笑みを見せてくれる。それに安心してマーガレットもホッとした。
その成長途中の体を抱きしめて、何かと敵の多い彼の心も体も守るのだとマーガレットは決意を固めて、強く抱きしめる。
そんなマーガレットに今はまだ守られているけれど、いつかきっと、釣り合わないなんて言わせない立派な王になる、と同じくノエルも口に出さず決意するのだった。