知らないはず
あたしが見た彼…昨日出会ったばかりの学生服の彼。
廊下の手摺にもたれ、グラウンドをぼんやりと眺めていた。
あたしはただ…突っ立てるだけ。
なぜか柔らかな風が吹いていた。
あたしの前髪が、気持ちよさそうに靡いているのを感じていた。
なのに、あたしの心だけが、止まっている。
心臓の音も聞こえずに、ただ…彼の横顔だけが目に映っていた。
「シュート!」
グラウンドの方から、メグのはしゃぐ声が聞こえてきた。近くで、サッカー部の練習を見ているのだろう。
その声がやっと、あたしの心の緊張を解してくれた。
少し息を吐き…やっと足を動かそうとした時…。
「もう来ないかと思っていたよ」
彼がグラウンドを見つめたまま、口を開いた。
再び、あたしの動きが止まったが、目だけは冷静に周りを見て、あたし1人しかいないことを確認した。
つまり、独り言でもないかぎり、あたしに話しかけているということになる。そうかもしれない事実に、ドキッとして、また緊張してしまう。
「…でも、サッカーが好きなんだね。あなたは…ずっとずっと…」
彼はやっと、あたしの方に顔を向けた。その表情はとてもとても、素敵な笑顔だった。
「部活っていいよね。俺もそんな経験をしたかった」
彼は再びグラウンドの方に、顔を向けた。
メグのはしゃぐ声が、また聞こえてきた。
それに混じって、グラウンドを走る足音がいっそう強く響いてきた。
「1人…上手いやつがいるね。動きが違う。素人の俺でもわかる」
彼は、あたしの顔を見て、微笑んだ。
「あの子が、好きな人なの?」
「え!」
あたしは彼から顔をそらすと、グラウンドに目を走らせた。
ゴール前で囲まれながらも、ドリブルで駆け抜ける高橋がいた。砂を切る足音が聞こえてきそうな程のスライディングを、軽く飛び避けた。
と、そのままゴールに向かって、シュート。
「ゴール!」
メグの赤い声とともに、ボールがゴールネットに突き刺さった。
ゴールを決めた歓声に、あたしははっとして思わず、言い返した。
「ち、違います!高橋くんが好きなのは、メグの方です」
「メグって?」
「あ、あたしの…親友です」
「そう…違うんだ…」
呟くように言うと、彼は少し考え込んだ後、またあたしを見た。
どうして、こんなに一生懸命になってまで、あたしが否定しなくちゃならないんだろうと、心の隅で思いながらもまだ、思い切り首を横に振っていた。
そんなあたしをじっと彼は見つめ、そしてまた笑顔になった。
なんて、笑顔なんだろう。
どうしてこんな素敵に、あたしに微笑むんだろう。
あたしは、息を飲んだ。
今度は逆に、あたしがじっと彼を見つめるもんだから、彼は少し照れたように視線を外した。
「こ、この前はゴメン!き、君に迷惑をかけた。ちゃんと名前も告げずに、あんなことをするなんて…」
「え?」
迷惑って何だろう。ただこの前、校門のそばで会っただけなのに。
「僕の名前は…タ……勇気」
名字が聞こえなかった。
「勇気と呼び捨てでいいよ」
彼はそう告げると、笑いかけてきた。
その笑顔が、夕陽と重なって、とても素敵に見えた。
「あ、あたしの名前は…」
なぜか慌てて、あたしは自分の名前を彼に告げようとすると、彼は軽く手で制して、こう言った。
「睦美さん…時祭睦美さん…」
あたしは、自分の名前が告げられたことに驚いたけど…名字が違う。
「あたしは、睦美ですけど…竹内睦美です」
彼は驚いたようにあたしを見――やがて、軽く苦笑した。
「ゴメン、間違えてた。そうか…まだだよね。でも、睦美さんは、睦美さんだよね」
「そうですけど…」
「よかった…」
何がよかったのか…。彼は胸を撫で下ろすと、再び視線をグラウンドに向けた。
そのまま、しばらく時は流れた。
どれくらいかはわからないし、そんなことに意味はない。
「あのお…」
あたしは思いきって、沈黙と言う刻から一歩前に出た。
だけど、その一歩がとても重く感じられた。
彼の目線は、変わらない。
あたしはゆっくりと息を飲み込むと、口を開いた。
「あなたは、この学校の生徒じゃないですよね。なのに、どうしてここにいるんですか?」
あたしの質問に、彼は振り向き、ゆっくりと微笑んだ。
「君がいるからさ」
彼は当然のように、そう言った。
「!」
少しだけ、強く風が吹き抜けた。
あたしの髪が軽く舞い上がり…あたしの心まで、舞い上がりそうになった。
風が止むと、静けさがあたしと彼を包み込んだ。
何も言えなくなったあたしを、彼はただただ見つめていた。
そして、おもむろに歩きだした。あたしに向かって。
彼が近づいて来る。それだけで、なぜか心がざわついた。
もう少し、もう少し、あたしの心のどこかが、こう叫んでいた。
「あ…」
やっと出た声が、全然言葉にならない。
彼は…あたしに向けて、そっと手を差し伸べた。
「いこう…」
彼の囁きに、あたしは心の中でこたえた。
(どこへ?)
遠くの方で、夕陽が沈んでいく。その最後の輝きがあたしを照らし、影が大きく、細くなっていく。
「やっと…君と話す勇気ができたから…」
勇気…。
彼の名前と同じ…言葉。
その意味するものもわからずに、あたしは彼の手を受け入れようとしていた。そうしなければいけないように、そうしなければ…。
「ずっと決断できなかった…」
彼は微笑みながら、呟いた。
彼の目に涙が滲む。
(どうして?)
彼はまるで、あたしを昔から知っているような感じだった。
その言葉も温かい。
知っていた。いや、違う。
あたしは、昨日まで彼を知らなかった。
もしかしたら、彼はあたしの知らないとこで、あたしをずっと見ていたの…。そのことに、やっと…あたしが気づいただけのだろうか。
手と手が、触れる。
たったそれだけのことなのに、今のあたしにはそれがとてもこわくって、恐ろしくって、ドキドキしている。
彼の顔が見れない。
「睦美!」
元気で、とても張りのあるメグの声がした。
その声も、どこか遠くの方から聞こえてきて、今のあたしには現実味がない。
「睦美!睦美!睦美ー!」
予想してなかった方向から、手が伸びてきて、あたしの肩を掴んだ。
「ゴメン!ゴメン!ちょっと遅くなっちゃった」
メグの声が、近くに来た。
「だからって、無視はないでしょ!無視は」
「え?」
あたしは驚いて、後ろを振り返った。
少し息を切らした…いつものメグの顔があった。
あたしははっとすると、急いで顔を前に向けた。
誰もいない。そこには、誰もいない。
「どうしたの?睦美」
メグの不思議そうな声が聞こえた。
あたしはそれを無視して、走り出した。
渡り廊下の端の階段をかけ下り、正門までの道に立った。
もう誰もいない。
後ろから、メグのあたしを呼ぶ声が聞こえてきてきた。
辺りはもう…真っ暗だ。
いつのまにか…。
そう…夕陽もいなくなっていた。




