記憶喪失の束縛溺愛皇子に婚約破棄されたので、これからは自由に生きられると思った侯爵令嬢は
「婚約を破棄しよう」
「あら、まあ……」
皇宮の一室、皇太子の部屋。そこで放たれた部屋の主の一言で、周りは騒然とした空気に包まれる。
部屋にいるのは私、今し方婚約破棄を言い渡された侯爵家の娘アフェット・スーヴニール。部屋の持ち主であり、「元」になるかも知れない皇太子であるハイル・レクエルド。他にも、彼の側近や、宮廷医師達がいたが皆顔面蒼白といった感じに驚愕に目を見開く中、私は落ち着いていた。
先日、帰国中に襲撃を受け意識不明だったハイルは目を覚まし、記憶喪失だと診断された。そこまではよかった。仮にも婚約者が命を落す、しかも皇太子が命を落すと言うことになったらそれはもう大問題だが、それでも彼が無事に戻って来てくれたことは喜ばしいことだから。
けれど……、彼は私のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。そして、婚約者だと継げた次の言葉が「婚約を破棄しよう」だったのだ。
目覚めたばかりの彼は混乱していたのかも知れない。けれど、いたって冷静な顔で言うものだから、私は少しあっけにとられてしまっていた。
でも、好都合――――
周りが皇帝陛下をよんでくるべきか。と慌てている最中、私はポンと手を叩いて笑顔を顔に貼り付ける。
「そうね、婚約破棄しちゃいましょう」
◇◇◇
「アフェット様、聞きましたよ! 婚約破棄されたんですって!」
「アフェット様どうか、気を病まないで下さい。アフェット様をフッた殿下が悪いんですから」
「落ち着いて。誰かに聞かれたらどうするの?」
前のめりになって、男爵令嬢と子爵令嬢の二人が言うので私は彼女たちを宥めながら紅茶を飲むように促す。
あれから数日経った後、私はひっきりなしにお茶会に呼ばれた。以前は、いけなかったためこの機会にととある令嬢の家に訪れたらこの有様だった。
皇太子であるハイルが記憶喪失になったことよりも、ハイルが私との婚約を破棄したことの方が騒がれていたのだ。
二人は、私が婚約破棄されたことを聞きつけて心配してくれているようだった。彼女たちと話すのは数えるほどだったが二人の名前はしっかりと覚えている。
二人は、口を慌てて押さえて着席する。
そんな様子を見ながら、私はミルクを入れた紅茶を眺めていた。
「私も、やっと解放されたって感じがして気が楽よ」
「アフェット様……」
二人はしんみりとこちらを見る。私はそれに苦笑を浮かべる。
二人が驚いているのも無理ない。
「だって、ハイル殿下あれだけアフェット様、アフェット様ってご執心で、言い方があれかも知れませんが束縛の激しい方だったじゃないですか、政務が滞るぐらい」
「なのに、どうして記憶喪失になった途端に婚約破棄って……アフェット様何も悪くないじゃないですか。アフェット様がそれでいいのなら、いいんですけど」
「私も、理由は分からないわ」
ハイルとは半分政略結婚のようなものだったけれど、ハイル自身自惚れるわけじゃないけれど私にべったりだった。彼の補佐官が何度も泣きついて彼を私から引き剥がした光景が今でも忘れられない。これからは、みることはできないかも知れないけれど。
ハイルの父、つまり皇帝陛下と私の父は昔から仲が良くて、父は戦場で皇帝陛下の命を救った恩人でもある。そのため、私が生まれたとき、皇帝陛下は自分事のようにとても喜んでくれたそうだ。父と皇帝陛下の仲は異常であったため、皇帝陛下は私が生れてすぐ私とハイルの婚約を決めたのだ。政略結婚と言ってしまうと聞こえが悪いが、あちら側にもこちら側にも不利益が一切ないということで、生れてすぐに私とハイルは婚約者になった。
それからだ。私の人生が狂いだしたのは。
眩い金髪に澄んだ碧眼を持つハイルは、私が物心つく前に私と交流があったらしく彼もまだ言葉が話せない年頃だったのに、私を見るなり「すき」といったそうだ。それが、彼が覚えた一番最初の言葉。
彼はその言葉を覚えてからと言うもの、私に会うたびに口にするようになった。他の人に対しては、皇帝陛下や皇紀にさえ言わないのに私にだけ言い続けた。
初めて聞いたときは嬉しかったけれど、次第にそれは重荷になっていった。
会うたびに、好きだと言われ、年齢を重ねる毎に好きから愛しているに、会うたびに強烈なハグと熱烈なキスを受けるようになってから、私は少しずつ彼から離れて……いけたらよかったのだが、私が何処かへ行こうとするたびに行き先を聞き、他の令嬢達とお茶会に行くこともよしとせず、社交界にも殆ど行かせて貰えなかった。
所謂束縛婚約者という奴だった。
溺愛されている自覚はあったが、束縛されたいとは思っていなかった為、どうしたものかと悩んでいた。悩みの種だった。
だが、先日記憶喪失になった彼に婚約破棄を言い渡されたため、このチャンスを逃すものかと私はそれを受け入れた。皇帝陛下には泣きつかれたけれど、彼が言ったのだからと、彼の記憶が戻るまでは。ということで一応婚約者ではなくなったというわけだ。
「まあ、今は新しい婚約者候補もいるし……新しい恋でも探そうと思っているわ」
「アフェット様なら、すぐ見つかりますって!」
「何なら、私がアフェット様の婚約者になりたいぐらいですから!」
と、二人は興奮気味に言う。
社交界にも茶会にも顔を出していないというのに、皆私のことを嫌ってなどいなかった。皆、私のことを高嶺の花と言うけれど、私は全然そんなつもりはないし、寧ろ嫌われているものだと思っていた。
ハイルは、あの束縛を抜きにすれば誰もがうらやむ完璧皇子であり今でも狙っている令嬢は多いのではないだろうか。
それが、恋なのか、政略的なものなのかは抜きにして。
「ありがとう」
私は、そう言って紅茶を口に含む。甘いミルクティーの味が口の中に広がっていく。こんな風に落ち着いて紅茶を飲める日が来るとは想わなかった。如何に、ハイルに時間を取られていたか分かった瞬間でもあった。
今日から、自由の身。
そんなことを思っていると、令嬢の家の使用人が私を迎えに来ている人がいると伝えてくれた。帰りの馬車などよんでいない。と言うことは、別の――――
「ごめんなさい、婚約者になるかも知れない人を待たせているみたいで」
「え!?」
「婚約者になるかも知れない人ですか!?」
二人はこれでもかというくらい目を丸くして立ち上がった。私は立ち上がってドレスを伸し二人に手を振る。
「そう、公爵家の公子エーデルワイス・ヘリンヌリング様よ」
私は、そう二人に告げると、二人は顔を見合わせた後「お似合いです」と息ぴったりに言った。
そんな二人の様子に笑みを浮かべながら、私は立ち上がると庭園を後にした。
「こんにちは、エーデル。お迎えなんて珍しいわね」
「ああ、君の顔が見たかったからね」
「面白くない冗談」
庭園を抜けると、艶やかな黒髪の男性と目が合った。
エーデルワイス・ヘリンヌリング。
公爵家の公子で、私とは幼い頃から顔を合わせる仲。
記憶喪失になったハイルの婚約破棄宣言から数日後、私は正式に婚約破棄され、私は沢山の貴族から婚約を申し込まれた。政略的なものもあれば、恋愛感情のあるものまで様々。でも、申し込まれるより自分で恋を探したいと思ったため、取り敢えずは虫除けにとエーデルワイスに頼んだのだ。彼はそれを快く引き受けてくれた。
私は彼の手を取りつつ、馬車に乗り込み、窓の外を眺めた。
「殿下の記憶は?」
「まだ、殿下の事を気にしているのかい?」
「別に、そんなんじゃないわ。ただ、妙な動きがあるから……利用されないか心配なだけ」
「国家転覆を狙う、貴族派の人間に?」
と、エーデルワイスはアメジストの瞳を細めて言う。
私は黙って頷き、ため息をついた。
(まあ、ハイルがそんなのに騙されるわけはないでしょうけど)
彼のことなら、彼よりも知っている自信がある。そう思いながら、私は彼に侯爵家まで送ってもらった。
◇◇◇
「あら、何のようです?」
「父上が、お前に会えといった。俺は会いたくもなかったんだが」
「なら、会わなければいい話じゃないですか。さっ、お帰り下さい」
次の日、目を覚ますと侯爵家の前に皇太子を乗せた馬車が止まっていた。
私は、優雅な朝食をとるはずだったのに、すぐに身支度を調え、下まで降りることになった。
正直、この男に構っている暇などないのに。もう、終わったはずなのに。
私は、彼を睨んでから踵を返そうとしたのだが、彼は何故か私の腕を掴んだ。
私はその手を払い、彼と距離を取る。
「皇太子に対して失礼だとは思わないのか?」
「連絡もなしに尋ねてくる方が、失礼だと思いますが」
そういえば、はあ……とあからさまに嫌そうなため息をつかれ、私は思わずムッとしてしまう。
いや、連絡は入れたのだろうが、会いたくもない人間に無理して会う必要などないだろうと、私は思ってしまったのだ。例え、皇帝陛下の機嫌取りでも。
「私と殿下の縁は切れたと思いますが。もう、婚約者ではないですし」
「ああ、そうだな。俺も今、新しい婚約者がいるからな」
「え……?」
たった一瞬だけ、胸に冷たい何かが突き刺さる感覚に陥った。
何故、こんな気持ちになるか分からない。
確かに、私は婚約を破棄された。それを受け入れた。何のためらいもなくそれがいいと、自分でも納得していた。
だが、心の何処かで期待していたのかもしれない。彼が、記憶を取り戻したときにもう一度婚約したいと言ってくれることを。
私は小さく首を横に振った。
記憶が戻っていない今、彼に何を言っても意味がない。聞くところによると、私の記憶だけ抜けているらしいから。
(記憶喪失というのは自己防衛らしいですし……何か、ハイルが記憶を失う前に……)
そんな風に考え込んでいると、「おい」と低い声で呼ばれ、私は我に返り顔を上げた。
すると、目の前には不愉快そうに顔を歪めたハイルが立っていた。
ああ、これは怒られるやつだ。
そう思った私は、咄嵯に謝ろうとしたのだが、それより先にハイルは私の髪をそっとすくいあげた。
「何……を?」
「髪にゴミがついていた。気になって仕方がない」
「は、はい……ありがとうございます」
たったそれだけ。髪についたゴミを取ってくれただけだというのに、私は胸の鼓動を抑えられなかった。顔に熱が集まっていくのを感じる。
そんな私の様子を、じっと無表情で見つめているハイルが怖い。
記憶喪失になる前だったら、もっとこうベタベタと触ってきたはずなのに。ただゴミがついていた、触れる、離れる。こんなことって……
「先ほどから、何を考えている」
「ええ、何でもないです。本当に何でも」
考えないようにと、私は首を振る。
彼とはもう終わった。彼の記憶が戻ったところでどうという話でもない。
ハイルが私のことを好きでいてくれるのは痛いぐらいに知っていた。それが当たり前になってしまっていて、冷たく当たられるだけでも違和感が残る。
私にとってハイルは――――
(束縛が激しい彼だったけど、私は別に……周りが思うほど嫌ってはいなかったのよね)
そんなことをあの時口にしていたら、どうなっていたか分からない。彼の束縛がもっと激しくなっていただろう。だから、言えなかったけれど。
私は息を吐いて、ゆっくりと吸う。
「私は、嫌いじゃなかったですよ。ハイルのこと」
「……冗談は寝て言え。お前にも新しい婚約者がいるそうじゃないか。俺にもいるわけだ。今更言い寄られても、そもそもお前もあの時承諾したではないか」
「ええ、そうでしたわね。所で、新しい婚約者とは誰のことですか?」
「伯爵家の令嬢、ベイル・エンヴィアスだ」
「……エンヴィアス家の」
「文句でもあるのか?」
「いえ、こっけ……お似合いだと思いまして」
思わず出てしまった言葉を呑み込んで、私は笑って誤魔化した。
(そう、やっぱりそうなのね……)
エーデルワイスと話したとおり、父と話したとおりの流れになった。これで、ピースははまったはず。
(けれど、可笑しいわ。凄く、胸が痛い)
彼が誰と婚約しようが今は関係無いのに、私は何故かショックを受けていた。
それはきっと、彼が私にだけ執着していると思っていたからだろう。
それを記憶を失ったからと簡単に……
「顔も合わせたことだし、俺は帰る」
「あら、お茶ぐらい出しますけど?」
「これからベイルとの約束があるからな」
「あらあら、もう、名前で呼んでいるんですね」
「何が可笑しい?」
私は口元を押さえながら、くすりと笑う。
記憶を失った彼は、もはや別人だ。今までの彼であれば、私以外名前で、しかも呼び捨てで呼ぶことなどなかったのに、今の彼は違うようだ。
私を見る目も冷たくて、言葉にもとげがあって。元からこんな人だったのだろうかと、疑わしくなるぐらいには。
「殿下、記憶の方は?」
「まだ、戻っていない。俺の記憶が戻れば、また婚約者に戻れると思っているのか?」
「いいえ、そういうわけではありません。ですが、以前の殿下と全く違う……まるで別人のようで、少し驚いているだけです。まあ、殿下が記憶が戻らなければいいと思うのであれば、それでもいいのではないでしょうか。抜けているのは私の記憶だけ見たいですし」
殿下もその方が都合がいいでしょ?
そう言えば、ハイルはピクリと眉を動かした。そこは、肯定するのかと思っていたため意外だった。少し期待してしまう。
「まあ、待たせているのなら早く行ってあげて下さい。私は、貴方の『元』婚約者ですから」
「ああ、そうさせてもらう」
と、ハイルは身を翻し馬車に乗り込もうとしたが、すぐに立ち止まってこちらを振り返った。
何事かと思い首を傾げると、ハイルはじっと私を見つめてきた。その視線にどぎまぎしながらも、平静を装って何ですかと尋ねようとしたのだが、彼は少し苛立ったような表情で一言。
「仕方ないから、また来る」
それだけ言って、颯爽と馬車に乗り込み行ってしまった。
「仕方ないからって何よ!? そんなの願い下げだわ」
そう思いつつも、また来てくれるのかとほんの少しだけ嬉しくて私の頬は緩んでいた。
◇◇◇
「エーデル、付き添いありがとうね」
「いえ、一人じゃ危険だと思いまして」
あの日以降、一回だけハイルは尋ねてきてくれたが、お茶をするでもなく本当に「顔を見に来ただけだ」と帰っていった。
そして、今日、気分転換にと王都の街へと繰り出していた。普段なら、メイドと護衛騎士を連れて行くのだが、今日はエーデルワイスに付き添ってもらうことにした。彼は信頼できるし、単純に頼もしいから。他にも理由があるが……
そんな風にエーデルワイスと話していると、とある店から見慣れた金髪の男性が出てくるのが見えた。彼は、こちらに気がつくとその澄んだ碧眼で私を見つめる。
「殿下……」
私は、咄嗟に頭を下げ挨拶をする。
すると、彼は一瞬顔を歪めたが、すぐにいつもの表情に戻り、私の方へ歩み寄ってきた。
何を言われるのだろうと身構えていると、彼を引き止めるように甲高い女性の声が響く。
「殿下ー! 今は、私だけに集中して下さいよぉ」
聞き慣れない声、だが顔を上げれば見慣れた顔に今度は私とエーデルワイスが顔を歪めた。クリクリとした赤い瞳に、鮮やかなピンク色の髪をした女性がハイルの腕をつかんで、その大きな胸を押し当てていたのだ。見ててゾッとする。
「これはこれは、ハイル殿下、ベイル・エンヴィアス嬢、こんにちは」
私は、もう一度二人に挨拶をした。ハイルはいいとしてベイル嬢に挨拶などしたくもなかった。この子は苦手だ。
あまり人に好き嫌いという感情を抱いてはいけないような気もするし、そもそも誰かを嫌ったことはないのだが、どうもこの子は苦手だった。腐っても貴族の令嬢であるのに、そんな男受けを狙っているような胸元の開いたドレスを着るなど信じられなかった。
しかも、胸元だけではなく足も出ているし、お世辞にもお淑やかとは言えない。
(それに、さっきからずっとベタベタとくっついているわね)
胸が大きいのは認めるが、私だってそれなりにあるし……ここで張り合っても意味ないのだが、何故か負けた気がして嫌だった。
「お前も、買い物か?」
「ええ、まあ」
「そうか」
と、ハイルはベイルの手を振り払い、私の隣にいるエーデルワイスの方を見た。仮にも婚約者なのだろうと、見ていれば、ハイルは嫉妬の目をエーデルワイスに向けていた。
「ヘリンヌリング卿がお前の新たな婚約者か?」
「ええ、そういう……こと、ですよね? エーデル」
「そうです。ですが、殿下には関係無いのでは?」
私とエーデルワイスは如何にも仲良いアピールをして、笑顔でハイルに言った。すると、彼は小さく舌打ちをしてそっぽを向いてしまう。
(あらあらあら?)
どうも、ハイルの様子が可笑しくて、ついニヤけてしまう。それを誤魔化すために、慌てて口元を押さえると、隣にいたベイルが私を見て笑っていた。
それはもう、可笑しそうに。
「殿下は、今私にメロメロなんですー。ね? 殿下」
「………………ああ、そうだな」
とても長い間の後、ハイルはそう小さく呟いて、私達に背を向けた。
私は、その様子に引っかかりを覚えて、ハイルの背中に向かって叫ぶ。
「今度の、皇宮主催のパーティー出席しますからね――! 勿論、エーデルと一緒に」
ハイルは一瞬立ち止まったが、振返ることなくその場を立ち去ってしまった。最後に見た、ベイルの顔が憎たらしそうで、私にガンガン嫉妬の視線を送ってきたことに、少し呆れてしまったが、何か企んでいるような含みのある笑顔を見ていると、こちらも少し対策が必要だと思った。
「エーデル、今度のパーティーお願いしますね」
「勿論、任せていて下さい」
私達は、用事も済んだことだしと帰路につくことにした。
◇◇◇
「あら、殿下、珍しいじゃないですね。また尋ねてくるなんて」
「…………」
「それも、連絡なしで」
パーティーの前日、連絡もなしに尋ねてきたハイルを一応客室に案内したが、彼は終始不機嫌そうな顔で黙ったままだった。
いつもなら、もう少し愛想良く接してくれるのだが、今日は本当におかしい。何があったのかと心配になるが、それを聞く勇気はなかった。
とりあえず、お茶でも出すべきだろうかと席を立とうとすると、それよりも先に彼が口を開いた。
やっと喋ってくれたことに安堵しつつ、彼の言葉を待つ。
しかし、その口から発せられたのは予想外のものだった。彼は、私を見つめながらこう言ったのだ。
「お前は、彼奴と結婚するのか?」
その瞬間、私の思考は完全に停止した。
そして、彼は捨てられた子犬のような目で私を見てきたのだ。
「彼奴……とは、エーデル、エーデルワイス・ヘリンヌリング様のことですか?」
「ああ、そうだ。仲良くしていたじゃないか……」
「でも、殿下には関係無いですよね?」
「は?」
「ですから、殿下には関係無いですよね。私達は『元』婚約者という関係ですから。私が誰と婚約しようが……」
そう言いかけた時、ダンッと机に思いっきり拳をぶつけるハイルの姿が見えた。
「関係ないわけないだろ!? 俺は、俺はお前の事――――」
「待って下さい、殿下。記憶が戻ったのですか?」
私がそう聞くと、ハイルは怒りを抑えるように大きな手で顔を一掃した後、呼吸を整えた。そして、首を横に振った。
「いいや、思い出せない。お前の事、俺にとってどんな存在だったのか」
「……なら、忘れた方がいいです」
「何だと?」
「忘れた方がいいと思いますよ。思い出そうとするだけ辛いですから」
私は静かにそう言った。
しかし、ハイルは慌てて私の方に来て肩を掴むと手に力を込めた。ミシッと骨が軋む音がする。
「何でそんなことを言うんだ」
「だって、思い出したところで殿下には婚約者がいるわけですし。私にはもう関係無いことですから」
「思い出して欲しくないと?」
「そういうわけではありませんが、思い出したら殿下がおつらいのでは? 罪悪感で一杯になられても困りますし」
「……それは、俺がお前を好きだったという話か?」
「聞いていらっしゃったのですね」
私は、ハイルに手を離すように言って肩を押さえた。
ハイルはどうやら、私との関係を側近や皇帝陛下に聞いたらしく、それが信じられないとふさぎ込んでいたようだが、今になってその関係がしっくりきていたのではないかと、私のことを思い出そうとしているのだ。
だが、全て遅いのではないか。
記憶喪失になったからといって、その日に婚約破棄した男が、今更よりを戻そうなど虫が良すぎるのではないか。
「貴方は、人の話を聞かず、あの日私に婚約破棄を言い渡しました。一度言ったことを取り消すなど虫が良すぎるのではないでしょうか」
「……分かっている」
「私、少し傷つきましたよ?」
そう言うと、ハイルは大きく目を見開いて、その瞳孔を震えさせた。信じられないとでも言うように。
こうして話しているのも時間が無駄だと、私はお引き取り願うことにした。
すると、ハイルは「分かった……」と名残惜しそうに部屋を出て行ってしまった。あのまま、何か言ってくれたら揺らいだかも知れないのに、何も言ってくれなかった彼に、寂しさを覚えてしまった。
「……彼を思うだけ、無駄なのかも知れないわね」
今になって、彼が恋しいとか、私からよりを戻したいとか……言うのもおこがましいと思った。
◇◇◇
皇宮主催のパーティー当日、会場は華やかなドレスに身を包んだ淑女達で溢れかえっていた。
そんな中、私はエーデルワイスと共にパーティーに参加していた。
いつものように美しく着飾っているエーデルワイスは、いつも以上に輝いて見える。まあ、でも見慣れた顔の人物が着飾っているだけだと私は遠くを見ていた。
「どうしたんだい? ぼぅっとして」
「あまり、パーティーに参加しないから疲れちゃって……」
「てっきり、ハイル殿下の事を考えていたのかと」
「そんなんじゃないわ……はあ、貴方には何もかもお見通しなのね」
「そりゃあ、ね? 幼い頃から一緒にいたから。君の癖とか、君が気づいていない殿下への思いとか」
と、エーデルワイスは笑っていた。
私は、それを言われると恥ずかしくなって、つい俯いてしまう。
確かに、私はハイルの事が好きだ。でも、この気持ちを伝えるつもりはない。伝えたところで、今の彼には響かないだろうから。
そう思っていると、不意に後ろから声をかけられた。
「殿下?」
「何だ、その幽霊が出たみたいな顔は。失礼じゃないか」
「……お、お久しぶりです。殿下……何故ここに?」
「俺がいるのが不満なのか? そもそも今回の主催は……はあ、まあ、いい」
シャンデリアの光を受けて輝くその黄金の髪は相変わらず綺麗で、身に纏っている白い衣装も一弾と彼の格好良さを引き立てていた。
だが、そんな彼に見惚れている暇もなく、彼の腕にあの女性がしがみついた。ベイル……ベイルは、ハイルのことを愛おしそうに見つめ、自分のものだと言わんばかりに胸と腕を密着させていた。まるで渡さないとでも言うように。
「殿下ー、私のことだけ見てくださいよ」
「今は、彼女と話しているんだ」
「元婚約者のアフェット様に何の用なんです?今は、私が殿下の婚約者でしょう?」
そう言って、彼女はハイルの腕に更に抱きつく。
しかし、ハイルはそれを鬱陶しく思ったのか、彼女の手を振り払った。
それを見た私は、何故かほっとしていた。
だが、ベイルはそれを良く思わなかったのか私を睨み付けた。何だか嫌な予感がする。
「エーデル、いきましょう。殿下、ベイル嬢とごゆっくり」
「いや、俺はお前に用があって――――!」
そうハイルが言いかけた時、ドンッと私の胸を誰かが強く押した。
ここが、階段の上であることを思いだし、宙に身体が浮いた瞬間、私はハッと階段の上を見上げた。してやったりと言った感じに令嬢とは思えない邪悪な笑みを浮べるベイルの姿が見えた。
私はここから落ちるだろうが、これで色々と証拠も集まったし、どうにかしてくれるだろうと、私は目を閉じた。
未だ、彼の記憶も戻っていないようだし、このまま私が消えたら、完全に彼の記憶の中から私はいなくなるだろうと。
そう思っていたのに。
「アフェット!」
私は次の衝撃に備えて身構えていたが、いつまで経ってもその痛みはやってこなかった。
私の名前を必死に呼ぶ声。ふわりと誰かに抱きかかえられる感覚。目を開けると、そこには今にも泣きそうな顔をしているハイルがいた。
そして、その横にはエーデルワイスがいて、こちらに向かって手を振っている。彼が魔法を使って私達が床にたたきつけられる前にどうにかしてくれたのだと瞬時に悟った。
ハイルは、私を庇うようにぎゅっと抱きしめてくれていて、私は思わず彼を押し退けようとした。だが、彼は離そうとはしてくれなかった。それどころか、私を守るように抱きしめた後、階段の上にいるベイルに向かって言ったのだ。
「ベイル・エンヴィアス嬢、貴様をアフェット・スーヴニール侯爵令嬢殺人未遂および、国家反逆罪で逮捕する」
ハイルの言葉が会場に響き、会場はざわめきだした。元々知らなかった者や、知っていてようやくこの時が来たかと察しの良い者もいた。そうしているうちに、会場の扉が開き、ベイルの父親を捕らえたという知らせが入ってきた。ベイルは近衛騎士に捕らえられ会場から退場させられた。その後どうなるかは想像に難くない。
元々、エーデルワイスと婚約者のフリをしていたのはベイルをおびき出すためで、彼の家や私の家は国家転覆を狙い敵国と繋がっているエンヴィアス家を捕らえるために動いていたのだ。まあ、色々あってハイルが記憶喪失にはなっていたが。その原因を作った襲撃犯も彼女たちの家の者だった。
一連の騒動が収まり、ようやく私はハイルの腕の中から解放される。
「怪我はないか?」
「はい……殿下、もしかして記憶が戻っているのではないですか?」
「ああ」
「いつから? 今、ということではないですよね、その様子からして」
そう聞けば、ハイルは目線を逸らした。
「いつです?」
「結構前だ」
「だから、いつです?」
「王都で出会った時には既に……二回目の訪問の時には殆ど記憶が戻っていたんだ」
「何故黙っていたのですか?」
「その方が、ベイル嬢やエンヴィアス家を引きずり出せるからな」
「……はあ」
その言葉を聞いて、彼も大凡今回の騒動のことは把握しているようだった。多分自分が襲撃されたときのことも思い出して、このようなことにいたったと。
それはいいとして、何故黙っていたのかと気になって私は問い詰めた。彼は、言い渋ったが、降参というように手を挙げた。
「お前が……アフェットが俺の事を好きかどうか、知りたかったからだ」
「だから、冷たくしたと?」
「それは、お前だって…………俺が、どれだけお前を好きか知らないだろう」
「知ってます。貴方のせいで、どれだけ私が迷惑したと思っているんですか」
「……迷惑はかけていない。だが、お前の気持ちを知れて良かった」
「私は、別に好きと言っていませんが? 貴方が記憶をなくしていたときに……」
「いいや、言ってはいないが、寂しそうな目をしていた。俺がいなくて寂しいみたいな目をしていたんだ」
とんだ自惚れ。
そう言えれば良かったが、思い当たる点が多すぎて言い返す事は出来なかった。
確かに、記憶を失う前の彼にはうんざりしていてそういう態度を取ってしまっていたかも知れないけれど、彼の記憶が失われて、私も自覚できたのだ。
束縛が激しかったけれど、それが当たり前で、彼が好きだと愛していると言ってくれることが嬉しかったと。私も彼のことが好きだったと。
「アフェット」
「何ですか、殿下」
「もう一度、俺の婚約者になってくれないだろうか」
「私には、婚約者がいます」
「だが、フリだったのだろう?」
「……ですが、殿下は私に冷たくしました。婚約破棄と言ったのは貴方です」
「それはすまなかったと思っている。でも、俺にはお前しかいないんだ。アフェット」
そう言って、ハイルは私の手を握った。
そんな風に言われたら、もう断れないではないか。
私は小さく溜息をついて、ハイルを見上げた。愛おしそうに私を見るハイルにようやく、記憶が戻ったのだと安心する。けれど、またあの束縛の日々に戻るのかと少し億劫ではある。
けれど、それでもいいと思えた。
「アフェット、愛している。俺にはお前しかいない。ずっと大切にする。何処にも行かないでくれ」
「記憶が戻ってすぐそれですね。何処にも行かないでくれって、私をまた束縛する気でしょう?」
「束縛とは何だ? 俺はただアフェットが心配で」
「それが束縛だって言うんです……はあ、でもハイルらしい」
私は、彼の手を握り返した。
「いいですよ。ちゃんと私のこと捕まえていてくださいね。それこそ、ずっと」
「ああ、大切にする。好きだ、好きだアフェット」
「分かってます…………私も、好きですよ。ハイル」
会場にはまだ人がいたが、ここは私達だけの世界だと錯覚するように私達は見つめ合って、口づけを交わした。




