72 疳の虫、外
「子どもに憑く蟲は、疳虫とか疳の虫とも呼ばれます」
絵本を読み聞かせるような口ぶりで、紬は語り出す。
「昔は赤ちゃんや子どもが特に理由もないのにぐずったり、体調を崩したりするのは蟲が憑りついたせいだとされていたんです」
「医学が未発達な時代にはありがちな話だな」
鷹彦がそう口を挟むと、紬はこくりと一つ頷いた。原因不明なことに何となく理由を付けて受け入れやすくしたり、落としどころを付けたりするのはよくあることである。
「そうですね。自然災害を神さまとか妖怪のせいにしたりとか、そう言うのの一つだったんだと思います。で、まぁ実際に身体の中に寄生虫とかがいるわけではないので、お医者さんじゃなくてお寺とか神社の管轄になるんですね」
「あー、だから『居る』とかじゃなくて『憑く』なんだ?」
なるほどね、と要が一人納得したように顎を撫でた。
「疳の虫を払う方法――蟲封じともいうんですが、これはお寺や神社によりけりです。うちだと手のひらに梵字でおまじないを書いて、塩水で洗うんです。そうやってしばらく置いておくと白い糸みたいなのが手のひらにつくんですよ」
「それが蟲?」
「はい。まぁ多分垢とかそういうものだとは思いますが……こういうのは身体から何かが出てくるのが目に見えるのが良いんだと思うんですよ」
こてん、と司狼が首を傾げる。一方鷹彦は少し納得したような面持ちだった。紬が解説を続ける。
「子どもや赤ちゃんが泣き止まないのは蟲のせいだから。お母さんやお父さんは悪くないですよ、一生懸命やってますよって。お寺や神社はそうやって誰かに相談したり、話を聞いてもらったりするための場所ですから」
紬はどこか懐かしむようにそう話を締めくくった。
「なるほど……この蟲は昆虫や寄生虫、そういった類のものとは感覚的に大きく違うわけだ」
「今だとほとんど聞かない文化ですよね。本当に社寺仏閣の関係者くらいしか知らない話だと思いますよ」
昨今だと疳の虫は小児五疳とも呼ばれ、ストレスによる自律神経の乱れが主な原因とされている。小児五疳薬などの薬も存在するほどだ。
そのストレスの原因は騒音等の外的刺激や成長に伴うホルモンバランスの乱れなどによるもの。古来より蟲封じひいては社寺仏閣の清閑な環境が疳の虫の解決に少なからず寄与していたのだろう。
「ただ、虫と表現されていたのもあって、うちの神社だと主神のお稲荷様の好物ともされてるんです。この場合のイメージは正直、その……」
「例のバグが近いと」
紬を引き継ぐようにそう言った要はタブレットを弄って空中にモニターを展開した。半透明の画面に汚れた紙きれが映し出される。拙い文字が綴られるそれに薄青い光を受けたはずの頬が僅かに赤く染まった。
「悪い虫、だもんねぇ……」
要が小さく呟く。どちらも人に憑りつく悪い虫だ。老若男女を問わない分、バグの方がよりたちが悪いのかもしれない。
「因みになんだけど、このノートに書いてた他の話とかは覚えてない?」
「すみません、詳細までは……あぁでも――」
何か言いかけた声がぷつりと途切れる。モニターを通した顔は先程までの血の気を失って白く見える。
「あ、の子が、主役の話、を」
言葉が喉につっかえては零れる。声以外が漏れないようにと紬は口元を両手で強く抑えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「うみ?」
「そう、海」
きょと、と赤い目が見上げてくる。説明するよりも見せた方が早いかと、小さな身体を小脇に抱えた。とん、と地面を蹴る。慣れ切ったへそに感じる浮遊感と、風の音。
屋根を超えて、雲に近づく。ぐんぐんと昇っていく景色にわぁ、と呑気な声が右斜め下から聞こえてくる。オレが手を離すとは微塵も考えてないのだろう、無邪気な子ども。
「向こう側、見えるか? あの、青――えー……きらきら、した、大きいの」
「! 見える!」
色をわからないコイツにどう説明しようかと少しまごつく。オレの気も知らずにヤナギはわぁあ、と歓声を上げ、触れようとでも思ったのか手を伸ばしてじたばたし出した。空中でぐらつきそうになり、腹に力を入れて踏ん張る。
「アレ全部塩水なんだと。人じゃ泳いで渡るのは無理だからでけぇ船を使うらしい……それも何日、何十日かかるくらい広いんだってよ」
全部この村に立ち寄った余所者に聞いたことだ。オレは見た目だけは普通だから、浮いてなければオレを知らない人間とは会話できる。
因みにヤナギは余所者が来ている間は納屋みたいなところに閉じ込められてると言っていた。道理でちょっとの間姿を見なかったわけだ。
「へぇ……ユウキなら、どのくらいで渡れる?」
「……オレ?」
うん、と海を見ていた目がこちらを見上げていた。続けてなんか変なこと言った? と聞いてきたが、オレはどんな表情をしていたんだろうか。
「ユウキなら海の上も飛んで渡れるでしょ? ……どこにでもいけるの、いいなぁ」
ひゅるりと風が吹き抜けた。ヤナギの興味は海の方へ戻ったらしく、じっと見つめていても視線は合わない。
――オレは、どこにでも行けるのか?
物心ついた時には独りだった。オレの親を名乗る大人はこの村にはいなかった。元々この村の出身なのかどうかも正直なところ、よくわからない。
石を投げられても、疎まれてもこの村に留まっていた。他に行き場などないと思っていた。ふらふらと、どこにも留まれなくなった身体を何となくこの村に、ヤナギに繋ぎとめていた。
喉が渇く。言っていいのか、オレは。小脇に抱えたままだった身体を少し揺らして、こちらを向かせた。じっと見つめたままでいると、ヤナギは心底不思議そうにこてんと首を傾げた。言葉がなかなか出てこない。
こんな、何も持っていない弱い子どもに拒絶されるのを恐れているのだ、オレは。
「行くか――一緒に」
血の色の瞳が少しばかり大きくなった。その顔に喜色が弾けたのを見て、大きく息を吐いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「あの子、あんまり外に出られないって、言ってて……そう、だからお話の中では色んなところに……」
「あのノートは彼のためのものだったの?」
こくりと紬が頷く。要は息を吐きながら前のめりになっていた身体をソファに沈めた。いつの間に移動してきたのか、鷹彦が紬の隣に座って彼女の脈を取っている。額に当てられた手がひやりと冷たい。
「少し熱を持っているな……多分脳に負荷がかかってる。あまり無理はするな――シロは寄るなよ」
片手間に釘を刺され、そわそわしていた司狼は悲しそうに両手で顔を覆っていた。
『諸説あります』は魔法の言葉。
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