59 現実、拒絶
廊下の角の向こう側から、殴打やノイズが聞こえてくる。紬は耳を塞ぎたいのをこらえ、瑠璃の手を握っていた。瑠璃も似たような状態だ。
ざらざらと鼓膜を荒く撫でるノイズ。生徒同士のちょっとした小競り合いでは鳴らないような戦闘音。音も景色も非日常だが、小説のようにわくわくしたりはしない。
これは作り物ではなく、紬の現実に他ならないからだ。
あの時のように、障子戸を隔てることすらなく、数歩を歩いたその先で起きている現実。
ぶわりと肌が粟立った。血の臭いが鼻をかすめた気がして、思わず口元を抑える。知らず乱れた呼吸に瑠璃が驚いた顔をして背中をさすってくれた。
『紬ちゃん、大丈夫?』
要も何かを察したのか、優しい声がかけられる。それを覆うように、虫の羽音に似たノイズが鼓膜を引っ掻く。
紬はこの音を知っていた。一人押し込められた障子戸の向こう側でこの音を聞いていたのだ。耳を覆いたくなるような悲鳴と一緒に。
ぐるり、と世界が回った。
平衡感覚を失った身体がその場にしゃがみこむ。瑠璃と要が声をかけてくれているようだが、何も聞こえない。耳鳴りの代わりを務めるように種々様々な虫が鳴いている。
田舎に住んでいた彼女にとっては懐かしい音のはずのそれが、思い出せないあの日の惨劇を想起させるのだ。
「紬ちゃん、大丈夫」
は、と忘れかけていた呼吸を再開する。背中を擦る手が、ポンポンと叩いて深く息を吸うようにと促してくる。
「加冶君も純恋ちゃんもいるから大丈夫だよ。いざとなったら、私が紬ちゃん引っ張って逃げるからね!」
むん、と小さな力こぶを作って瑠璃が笑う。つられたように紬も息を零した。そんな様子を見守っていた要は内心舌を巻いている。
やわらかで暖かな子供だ。紬への態度はこれまで積み上げてきた関係もあるのだろうが、彼女らは人の心に寄り添える子供だった。
視線は向けずに後ろの気配を探る。馬鹿を理解しようともしなかった子供の成れの果てがソファの上でか細く息をしていた。彼女のためにその背を擦ってくれる者はいないのだろう。
同じ暖かな場所から生まれたというのにこの違いは何なのだろうか。生まれ持った才か、あるいは育った環境か。
では、硬く冷たい場所から生まれてきた子供は?
要は静かに目を閉じた。再び姿を現したエメラルドに薄青いスクリーンが映り込む。
人志と純恋は変わらず黒の塊と対峙していた。戦闘開始から数分が経ったはずだが、その大きさは依然変わりないように見える。攻撃に反応してぶわりと広がっては一部がかき消えて、また集まってくるのだ。
現状要が紬に出来ることはない。端末を操作して紬から人志の端末へとインコを飛ばす。
「人志、純恋、手ごたえはどう?」
『スッカスカ!』
『殴れてる感じあんましねぇ』
似たような感想にも性格が出るものだ。じりりと下がった二人を追うように黒が手を伸ばしてくる。別モニターに映っている資料室内はこちらも変わらず真っ黒だ。
「……ん?」
真っ黒、に見えたはずだった。しかし今は、その黒の一部が揺らいでいるような気がする。
要はモニターを引き寄せて拡大していった。少しの糸口も見逃さないようにと目を凝らす。
ぐらり、と世界が揺れた。
「っ、あ……?」
崩れ落ちようとした身体を咄嗟に支えようと手をついた。ガタンッ、と派手な音が鳴って機材が幾つか倒れて床に落ちる。
『要?』
人志が気づかわし気に呼んでいる。声とは別に、ぽたぽたと何かが落ちる音が聞こえている。思わず顔に当てた手が熱く濡れた。ずず、と鼻から吸い込んだ息が錆臭い。
「あぁ……大丈夫、ちょっと手がぶつかっただけだから。うるさくしてごめんね」
『何かあったのか?』
要はハンカチを引っ張り出して鼻を抑えた。そうしてもう一度資料室を映すモニターに視線を向ける。途端にじわりと目が熱を持った。本能がこのままでは不味いと警笛を鳴らす。
だが要は見なくてはならない。この膠着状態から抜け出すためのヒントを、見つけなければならない。
「ん、ちょっとね。資料室の中、な、んだけ、ど……」
目を凝らす。目尻に何かが伝っていくのを感じながら、喉から上がってくる同じものを飲み下す。
「何、か、いる……? これ、は、何?」
何かが居るのだ。それだけはわかっている。しかしそれ以外のことが何もわからない。
しつこく垂れてくる鼻血を拭いながら、要ははたと気づいた。
紬は、これを見たのだろうか?
しかしだとしたら、要と同じように身体に異常が起きているはずだ。彼女は具合こそ悪そうだが、出血はしていなかった。
目の違いか、あるいは。そもそも身体への異常はどういうメカニズムなのか。
バグは人の身体機能を著しく侵す。だが、今までこういった身体そのものにダメージを与えるような事例は見られていない。要が初のケースだ。
そもそもあれはバグなのか。だとしたら、要に影響を及ぼしているのはおかしい。
「……」
要はもう一度深く息を吸い込んだ。鼻腔に舌に、鉄の臭いがしつこく残っている。
「紬ちゃん、聞こえる?」
はい、とか細い声が返事をした。
「僕はわからなかった……君はわかった?」
再び呼吸が乱れたのだろうか。紬ちゃん、と瑠璃が優しく声をかけているのが聞こえる。彼女の傍には立ち上がるのを助けてくれる子供がいた。
やがて、モニターの中でしゃがみこんでいた紬が顔を上げる。
『知って、ます……でも、思い出せない……』
揺れる宵の目が固く瞑られた。思い出したいのか、思い出したくないのか。要からは窺えない。
祝!一周年!!
因みにこの間人志と純恋はずーっとバグをべしべししてます。
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