32 羨望、略取
ずっと、考えていたことがあった。心にこびりついていた言葉があった。
――相波純恋には才能がない。
見上げた先に幾つも幾つも上がいる。這いつくばるには地面は遠い。高い位置での宙ぶらりんは怖いし、辛い。
上に手が届かないから、下に支えが必要なのだ。下にたくさん、積み上げないと安定しない。
だから、相波純恋はこれから人を踏みつけにする。地に伏せて、重ねて、その上に立つ。
要が教えてくれた倫理観が悪いことだと言っていても、それを無視して。眩暈がするほど未来が見えて身体が悲鳴を上げても利用する。
純恋の未来視は安定こそしないものの頻度と目の前の人や物への関連性が上がっていった。成長はしている。それでも空へ至るには足りない。
不幸を予知し、それを回避するすべを授ける先読みの神さま。
そんな存在を回帰同盟が公にすることはなかった。彼らはその奇跡を独占することで自分たちが選ばれた人間であると考えたかった。いつかの彼女のバディと同じように。
声だけの存在の純恋に拠り所として仏壇を与えた。天上の存在がそこへ引きずり降ろされ、留まることを望んだ。
純恋は衣食住を外部の手により確保したことで、研究に専念することができるようになる。マフィンの手を借りて件のヘルメットの内部を解明し、プログラムを抜き出して手を加えた。
この重いヘルメットは常時装備するには不便だ。それにどうせ姿は見えないのだから、必要なのは向こうの耳とこちらの喉だけ。
試行錯誤の末、純恋は自身の声を電子音に変換する装置と、聴覚に関する情報のみ書き換えを防ぐイヤホンを作り出した。そのイヤホンも数を限定すれば、純恋の希少性は更に高められる。
回帰同盟の中に純恋のお告げを受け取るお役目が発生するのだ。歴史を重んじる彼らは昔ながらの神に仕える宮司や巫女をそこに当てはめた。
このころになると先読みの力は噂となって広がり始めていた。むしろそれを利用して稼ぐようにと助言を受け、純恋は未来視の幅を着実に広げていった。
人の流れ。株の動き。果ては為替レートまで。更に安定した未来視は、回帰同盟に富と繁栄をもたらした。
犯罪に加担しているという意識は常にあった。見えた未来を、何度も捻じ曲げた。それでも進むしかない。
既に底なし沼のただ中にいるのだ。足を止めれば溺れるだけだ。救いの手が差し伸べられるのはわかっている。それまでひたすら耐えればいい。
重く重く、積み重なっていく自責の念を見つけてくれない要たちのせいにして心の片隅に押し込めた。目を逸らしても、なくなるわけではないのはわかっていた。
決定的な溝となったのは、未来視に従って百貨店に向かったあの日のことだった。
ビジョンと同じように人志と紬を心配して駆け寄る司狼と要を、回帰同盟の一人と一緒に建物の影に隠れて見ていた。回帰同盟の中でも上の地位についている男は司狼と人志の姿をしかと見て、呟いた。
「あんな化け物を、政府は隠しているのか……?」
怒りか、恐怖か。隠れていた雨どいを握り締める男に純恋は笑いそうになる。純恋のことを、神さまだなんだと崇めているくせに。
純恋の能力が直接攻撃に転じることはない。それでも彼女の未来視をきっかけに多くの人が傷ついていることだろう。そもそも回帰同盟はテロじみた行為を行うことがある。そのための助言をしたことがある純恋もきっと、同罪だろう。
ぎゅ、と握った拳に視線を落とすようにうつむいていると、ぎゃっと男が声を上げた。ほとんど同時に雨どいに当たった石ころが鈍い音を立てる。
『逃げて!』
咄嗟にそう叫べば、間髪入れずに銃声が響いた。男は一瞬息を詰めたが、本能的に純恋の声に従う。
思考をやめて、あの声に従いさえすれば、必ず良い結果がもたらされるのだから。
純恋は己の言葉に従ってバイクに跨り去っていく男を見送った。ゆっくりと、隠れていた建物の影から出る。要たちはすでに踵を返して車へと向かっていた。純恋に銃口を向けたその足で、安全な巣へと向かうのだ。
人志にエスコートされて車に乗り込む彼女が紬だ。純恋がこの世に戻るために必要な唯一。
――彼女と、私の、未来が見たい。
強くそう願えば、すぐにビジョンが浮かび上がる。くらりと揺れる視界も気にならないほどに。激しく乱れ、脈打つ心臓も無視して。
少し暗い店内。紬は本棚を見回しながら歩いていた。何かを探しているらしい。その後ろに人志が興味深げにきょろきょろしながら続いている。やがて紬は目当てのものを見つけたらしく、一つの本棚の前に立ち止まって手を伸ばした。
バチッと目の前に火花が散るような感覚とともに景色が戻ってくる。いつの間にか座り込んでいたらしく、ショートパンツからむき出しの脚に冷たいアスファルトが触れていた。
息を整えながら目を閉じて、先ほどのビジョンを反芻する。幸いなことに店の奥にあったアナログ時計が正確な日時を示していた。加えて紬の生活圏内に書店はそう多くはない。
回帰同盟の中にはそこを贔屓にしているものもいた。故に、人志の存在を彼らは許せなかったのだ。
だから、彼をダシにして回帰同盟を動かした。どうせ怪我なんかしないだろうと思った。少しくらい傷つけばいいとも思っていた。
当たり前に享受していたもの。自分を認識してくれるもの。純恋が失った総ての一端を、奪う。
タイミングを合わせて、紬のお目当ての本に手を伸ばす。重なった手に驚いた彼女が、こちらを見た。
こちらを、見たのだ。その瞳に! 純恋を映していた!
本当は声をかけるつもりだった。本の話をするつもりだった。しかし、用意していた台詞は一つ残らず溶けて目尻から流れ出していった。ひどく困らせてしまっただろうに、彼女は床にへたり込んだ純恋に目線を合わせるようにしゃがんでくれたのだ。
その後ろで人志は気分が悪いのか、なんて的外れなことを聞いていたけれど。
襲撃の合図を出した瞬間は、不思議な高揚感が罪悪感を覆っていた。紬を助けようと伸ばされた手からさらうように引き寄せた。
人志は自分を認識する襲撃者たちに驚いてはいたが、侮蔑の言葉に傷ついた様子はなかった。彼は爪を立てるには、あまりにも高く、遠い。
あの時、好き勝手醜い言葉をぶつけられていたのは人志だけではなかった。だから、紬が腹を立てているのを見て救われる思いだった。
純恋や人志を見られるのが紬のような優しい人で良かったと、心底そう思った。
その後のことはほとんど衝動に近い行動だった。紬を連れて逃げ回っているうちに未来視を思い出し、スポーツドリンクを買って渡した。
ビジョンをなぞるようにペットボトルを干す彼女に名乗り、謝罪をする。優しい紬はきっと許してくれる。
「……えっと、純恋ちゃんって呼んでもいいかな? 大丈夫? 怪我とかしてない?」
名前を、呼んでもらえた。AIの電子音ではなく、人の肉声で。感極まった喉はろくろくまともな言葉を返せなくて、ぼろぼろべそべそと泣いた。
目元にハンカチが押し当てられ、たまらなくなってしゃくりあげながら紬に抱き着く。
やっと見つけた光明を手放すまいと手繰り寄せた。
大して強くも弱くもない人が一番辛い。
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