29 希望、嫌悪
もう一度、どうしようと誰にも聞こえない声で呟いて、その場に座り込んだ。夜も遅く、地面に近づいた身体からじわじわと体温が奪われていく。
血の気の引いた身体は元々冷たかっただろうが、それでも夜風が吹き抜ければ寒さを覚えた。
夜とは言え、警視庁の前は大通りだ。多くの人が彼女の前を通りすぎていく。声をかけてくる人はいない。
身寄りのない凍えそうな少女など彼らの世界には存在しないのだから。
これからどうしようとそればかりが頭の中をぐるぐると回る。涙が滲んだ目の奥に、不意に一つのビジョンが浮かび上がった。
見覚えのある路地裏。高校生くらいの黒髪の女の子。純恋の目の前で息を切らしてしゃがみ込んでいる。彼女は中身が半分ほど減ったペットボトルを手にしていた。そのペットボトルを差し出したのは純恋だ。
彼女はその藍色の瞳に純恋を映して、口を開いた。
『ありがとう……えっ、と』
ぷつっとテレビの電源が切れるようにビジョンが途切れた。潮が引くように涙が消えた目を大きく見開いて、純恋は硬直する。
認識されていた? 彼女は誰? あれは何日、何か月、何年先の未来?
ボクは透明人間じゃなくなるの? それとも彼女が特別?
純恋の未来視は見たいときに見たいものが見られるわけではない。そのビジョンが未来のことであることは確定しているが、それがいつになるのかはわからないことが多い。風景や会話などから推測するしかないのだ。
差し出していた己の手の大きさは今とそれほど変わってはいなかった。彼女も小さい子に話すような口調だった気がする。少なくとも大人への対応ではなかった。年下か、もしくは同い年への反応。
――なら、近い未来。見てもらえる。声をかけてもらえる。見つけてもらえる!
希望的観測かもしれないが、この状態が永遠ではないことがわかり気持ちは少し落ち着いた。とは言え、根本的な問題は解決していない。
「あ、でも切符は買えたんだっけ……決済機能は生きてるのかな」
他に何ができるだろう、と眠らせたばかりのマフィンを呼ぶ。ぷあ、と大きく欠伸をする小動物はどんな状況でもかわいい。
「マフィン、私の資産調べてくれる?」
ちぃ! と敬礼するように短い手を小さな額に当てたマフィンは、画面外から次々降ってきて背後に積みあがっていく金貨袋をちょこまかと走り回って数えていく。その様子を眺めつつも純恋は少し困惑していた。
彼女は今回が初任務なのだ。未来予知による功績で同い年の子供よりは稼いでいるとは言え、彼女の資産自体はさほど多い訳ではなかった。積極的に任務をこなしている人志やサイコメトリーで捜査協力している美姫の方がよほど高収入だ。
『これで全部だよー』
「わ、え」
画面に表示された数字はしばらく生きていくには困らないような金額だった。任務の報酬が先んじて振り込まれていたのか、あるいはこれもバグの影響なのか。しかしバグの影響にしてはマフィンの様子は平常だ。
先ほどの様子を思い出して、純恋はふるりと身を震わせた。その震えが恐怖によるものだけでないと気づいたのは、続けてくしゃみが一つ飛び出したからだ。
「取り敢えず今日はホテルか何かに泊まって……ゆっくり考えよう」
すん、と赤くなった鼻をすすり、純恋は独り街を歩きだした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから数日。純恋は無人受付のカプセルホテルを拠点に生活していた。デザイナーベビーとしての認識阻害が消えていない以上、一般人とやり取りすることは出来ない。それでもほとんどの買い物が端末のみでも可能なお陰で衣食住は何とか満たせていた。
その日も純恋はスーパーの無人レジに商品を通していた。一般人が彼女の使用している機械をどのように認識しているのかはわからないが、少なくとも割り込まれることはない。
ちゃりん、とコインの落ちる音がして残高が僅かに減る。食事とちょっとした生活雑貨を抱えて、純恋は近くの公園のベンチに腰掛けた。平日の昼間の公園は、彼女と同じように昼食を取っている人が多い。
人の目に映らなくとも、会話できずとも、人の気配がする場所は酷く安心するのだ。それに彼女の手がかりがつかめるかもしれない。
道行く人の顔を眺めながらもそもそとパンを口にする。人の気配は多いが、彼女の周りだけは酷く静かだった。
あの地下室から離れて初めて、孤独というものを実感している。外の世界は確かに広いし自由だ。だが、彼女の傍には誰もいない。
こうしてみると、CS対策課の大人たちは純恋のことをとても大事にしていたのだとしみじみ感じた。あの場所は人こそ少ないが、常に誰かが傍にいたのだ。
真緒と一緒に雑誌を読んで盛り上がったこともあるし、少し前には美姫と楽しくぬいぐるみ遊びだってしていた。人志はいつだってぶっきらぼうだが、暴言を吐かれたことはないし無視されたことだってない。……そんなことを思い返す度、彼女のバディは良い大人ではなかったことを痛感した。
「…………」
じわ、と目の前が滲んだ。甘いパンがしょっぱくなるのが嫌で、咄嗟に上を向く。その視界の隅を、見覚えのある顔がかすめた。
「……あ」
ぽろりと落としそうになったパンは優秀な反射神経が握り潰していた。強張る身体と視線が、一点から逸らせずにいる。二人組の男が何か言い争っているようだ。いや、言い争うというよりは片方が酷く言いがかりをつけられているらしい。周りの視線もそちらへと向いていた。
何せ成人男性の怒鳴り声だ。注目が集まるのも無理はない。
「いい加減にしろ! お前は本っ当に役立たずだな!!」
自分に言われているわけではないのだ――少なくとも今は。それでも身体が震える。息が詰まる。自分自身を責めてしまいそうになる。
「……大丈夫」
純恋は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。潰してしまったパンを膝の上に置いて、道端で怒鳴る見苦しい男を見つめる。
彼の目にはもう、純恋の姿は映らないのだ――元バディの、彼の目には。
「あの人はああいう人なのかな……」
自分一人にあの厳しい態度なら純恋にも幾ばくかの責はあったのかもしれないが、彼女のことが脳内からすっかり消えた状態でああなら元々そう言う性格なのだろう。
目の前ではなく、少し離れたところで。周りの人が眉をひそめているのを見ていると、純恋も同じように嫌悪を感じた。ふつふつと、怒りすら湧き上がってくる。
元はと言えば、あの男のせいで。純恋は全てを失ったのに、あの男はのうのうと。そんな仄暗い思いがじわりと胸中に広がった。
今、ここで。純恋があの男を害したとしたら、どうなるのだろう。純恋にはその権利があるはずだ。理不尽に虐げられてきた彼女になら。
ぎゅう、と握り締めた手のひらを、切るのをすっかり忘れていた爪が食い破った。
誰かと一緒に外側から見て初めてわかるパワハラ。
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