28 夕焼け、透明
目の前が文字通り真っ暗になる。純恋は咄嗟に張り巡らされたパイプを順々に蹴って舞い上がり、外階段の踊り場に降り立った。
どくどくと鼓動が激しく耳の中で鳴る。バグに襲われた人がどうなるのか、彼女は知っているのだ。
心臓はうるさいほどに動いている。思考もちゃんと回っている。手足の動きに違和感もない。何が、狂ったのか。わからない状態に焦りがこみ上げてくる。
それでも優秀な思考回路はバグの消去を優先した。眼下で獲物を見失いゆらゆらと揺れている霞に気づかれないように手すりを蹴って空中に踊り上がる。
「はぁああッ!」
そのまま真上から強襲し、特殊警棒で地面に叩きつける。アスファルトに火花が散るほどの威力を持った一撃を受けて、バグは空気に溶けるように掻き消えた。
着地と同時に詰めていた息を吐きだす。バグが完全に消滅したのを確認して、踵を返した。
「終わりまし、た……?」
路地裏から逃げ出していた男を追って、通りへ出る。止められていた車に彼が乗り込むのが見えて、純恋は足早にそちらへと駆け寄った。
しかし――。
「え、わぁっ!」
目の前で発進した車が純恋を避け、走り去っていく。呆然とそれを見送っていたが、直ぐに我に返る。
「置いてかれちゃった……」
良い感情を抱かれていないのはわかっていたつもりだったが、ここまでとは。幸い純恋は少し疲れていただけで怪我はしていなかったので、電車で戻ることにした。
知識として教えてもらっていた方法で切符を買い、車両に乗り込む。空いている席に腰かけて窓の外を眺めた。流れる景色は夕焼けに包まれて美しく、少し気分が上向いた。
男の勝手な判断とは言え、今回のことは純恋の功績だ。報告書の方がどうなるかはわからないが、初めての成功体験は彼女に少しばかりの自信をもたらしていた。
男が否定してきた彼女の努力は事実として報われたのだ。
「人志君に戦闘のコツとか聞いてみようかな……」
年上で、既に立派に任務をこなしている人志は彼女のコンプレックスであると同時によい手本でもある。立ち振る舞いに関してはあまり参考にしないようにとはよく言われているが。
電車に揺られ、ゆるゆると眠気が這い寄ってくる。疲れていたのもあってか、純恋はいつの間にか深く、深く眠ってしまった。
次に彼女が目を覚ました時、外は暗闇に包まれていた。随分と長いこと眠っていたらしい。しぱしぱと瞬きして目を擦る。手首の端末を見れば、四桁の数字は夜更けを示していた。
「嘘!」
慌てて立ち上がったが、暗くて周りが見えない。純恋は知らないことだったが、彼女が乗っていた車両は少し前に回送列車として車両基地にしまわれていたのだ。
車掌はおらず、扉も開かない。仕方なく純恋は窓を開けて車両から抜け出した。暗い線路を歩くのは、最近見た映画のワンシーンのようで少しドキドキする。とは言え、普段から車移動の多い純恋に土地勘というものはあまりない。
「マフィン、ナビお願い」
端末に向かって呼びかけると、画面に小さなハムスターが表示された。くしくしと茶色の毛並みをつくろっている。
ちち、と小さく鳴いたロボロフスキーは画面外から地図を引っ張ってきて広げる。そうしてその上をてちてちと走り回った。その軌跡が赤く表示されると現在地へと戻って純恋を見上げてくる。幸いにもそう遠くはないようだ。
ありがと、と小さな頭を指先で撫でたところで、違和感に気づいた。
「ねぇ、マフィン。御部さんとかから連絡来てない?」
出かける前に口を酸っぱくして言われた定期連絡をすっかり忘れていたのだ。しかも、不可抗力とは言えバディと離れて結構な時間が経っている。
特に要はデザイナーベビーに対してはやや過保護なきらいがあった。同情か、打算か。その辺りのことはわからないが、とにかく彼は純恋には優しい。
心配をかけてしまっただろうとそう尋ねれば、マフィンはぷるぷると頭を横に振った。
『メッセージ、来てないよー』
「……そう?」
拙い否定の言葉にそわりと何かが背筋を撫でていき、振り払うように足を速めた。
優秀なAIの計算通り、二十分ほどで警視庁本部に到着した。ちょっとした大冒険を成した気分のまま、ゲートに端末をかざす。
――ゲートは沈黙したまま、何の反応も示さなかった。
接触が悪かったのかと何度か角度を変えて押し付ける。が、微かな電子音すら鳴らさない。鼓動が嫌に大きく響いて、背中に冷たい汗が滲む。
「マフィン?」
『登録されてないよー』
困った顔のハムスターがそう告げる。血の気が引く音が聞こえる気がした。
警視庁を出入りする人間は厳重に管理されている。デザイナーベビーともなれば、より一層厳密に。しかし、機械はエラーすら吐かない。
純恋には、思い当たる節が一つある。
黒い霧が、頭の中を覆いつくしていく。純恋を置いていったバディ。誰からも来ない連絡。
「マフィン、今直ぐボクのマイクロチップを調べて! 隅から隅まで全部!」
『わかったよー』
のんびりとした口調と裏腹に小さな身体は俊敏に画面を駆け回った。が、その動きに時折ラグが生じる。流れるような動きがわずかに途切れる。ふわふわと茶色い毛並みにノイズが走る。
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優秀なAIが発音すらできない文字の羅列が画面に流れていく。くりくりとした黒い目が生気を失い、濁っていく。
「っありがと、マフィン。もういいよ」
『あい!』
何とかそう告げれば、マフィンは元気よく両手を上げた。画面を覆うノイズが引いていく。くしくしと毛並みを整えるのを少しだけ眺めて、端末をスリープにした。
だらん、と力なく腕が下がる。
「……どうしよう」
彼女は、透明人間になってしまったのだ。
文字化けテスターを使用しました。
更にそのあといろいろいじったので修復はほぼ不可能。
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