19 朝日、お出掛け
――次の日。目を覚ました人志はいつもと違う眩しさで目を覚ました。ぼんやりと横たわったまま間仕切りの方を見ていると、紬が窓の方のカーテンを開けているようだった。
部屋に差し込んでくる太陽光が間仕切りにシルエットを投影する。もぞもぞとベッドの上で身じろぎしている彼女は着替えているらしい。
仕事以外では警視庁の地下の自室にこもりがちな人志にとって陽光で目覚めると言うのはなかなかに新鮮なことだった。一応、要辺りが申請したのかデザイナーベビーたちが過ごす地下空間には窓があり、外と同じ天候が投影されてはいる。おかげで時間の感覚が狂うことはないのだ。
間仕切り越しにでもぬくぬくと温かさを感じる陽光に、意識がまた夢の中へと迷い込みそうになる。
「人志君? 起きてる?」
が、間仕切り越しに声をかけられ、仕方なしにのそのそと布団から這い出た。開けるよ? と続いたのであくびをしながら生返事をする。
「おはよ……ふふ、人志君寝ぐせひどいねぇ」
挨拶の後に思わずといった様子で零れた言葉に人志はくしゃくしゃと頭を掻いた。直毛故にあっちへこっちへと跳ねやすいのだ。対して紬の髪は昨夜の風呂上がりと同じようにシュシュで緩く束ねられている。
「朝ごはんの前に顔洗いに……あ、でも雄利おじさん多分人志君の分は用意してないよね」
昨夜は人志を認識している紬が作ったために彼の分も用意できていたのだ。朝食は雄利が食事当番なので、当然用意される食事は二人分だけ。
「明日からはなるべく私が準備しようかな……」
「あー……そう、サンキュ」
頼めば冷食の弁当支給されるぞ、と言いかけたのをなんとなく飲み込んだ。材料費や手間賃は要に頼んで自分の口座から引き出してもらえばいい。
目の前で。知っている誰かの手で。作られたものを口にするのは暖かかった。支給される食事に不満を持ったことなど一度たりともなかったし、これからもそうだ。
ただ比較対象が出来て、こちらの方がいいと選んだけの話だった。
結局その日の朝食は近くのコンビニで購入して二人分の食卓に並べた。後片付けを終えれば、紬はスケッチの続きの為に部屋へと戻る。
人志も昨日と同じようにベッドにうつぶせに寝転がって本を読んでいた。
「終わりそ?」
「うん、思ったより早く終わりそう」
肩越しに覗き込んだノートには、数匹の虫のスケッチが描かれている。蝶、蟻、蜘蛛、飛蝗。どれも体表は黒く、白い隈取のような模様が乗せられていた。
まるで神の使いであるかのような凛としたその姿に、人志は顔をしかめて見せる。
「なんか割とかっけぇのムカつくな……補正とか入れてねぇ?」
「い、入れてないよ。ちゃんと見たまま描いてるもん」
見たままと言われたところで今のところそれが事実であると確認する術はないのだが。一匹描き終えた紬は次に移ろうと端末の画面をスワイプする。
「あれ……?」
「どした?」
不意に声を上げた紬に人志は画面を見下ろした。先ほどまで紬が蜻蛉を描いていた画面と大枠変わりないように見える。背景が違うので違う場所で撮られた写真なのだろうと分かる程度だ。
「いや、これ……ただの靄にしか見えなくて」
「……そうだな?」
今までの写真全てがただの靄にしか見えない人志は首を傾げるしかない。御部さんのテストとかかな、と呟いた紬は写真の番号をノートに書くとそのページを塗りつぶすように線を引いた。
これが最後だったらしく、紬は鉛筆を置いて大きく伸びをする。
「終わったか?」
待ちきれないとばかりにそう尋ねてくる人志に紬はくすくすと笑う。ノートをパタンと閉じて彼を見上げれば、そわそわと落ち着かない様子を隠しきれていない。
「そうだねぇ……ちょっと早いけど出かけようか。昨日言ってた本屋さんの近くにパン屋さんあるからそこでお昼買お」
無人レジなら大丈夫なんだよね? と尋ねる紬は人志の扱いを徐々に心得てきていた。対人となる喫茶店だとカトラリーが用意されなかったり、二人分の料理が連れの前に置かれたりする。サイバースペースを通すだけの処理であれば人志でも個人の買い物が出来るのだ。
紬は雄利に出かける旨を告げ、人志と外へ出る。最寄りの駅までは歩いて十分ほどだ。
「人志君って電車乗ったことあるの?」
「あー……出張の時に何回か。ま、基本は車だけどな」
手慣れた様子で改札に端末を当てる。タイミングよく来た電車は日曜日だが昼前ということもあってかそれなりに空いていた。
並んで座って窓の外を眺める。ふと紬が前を指差した。
「あそこのビルらへんで飛んでたことあったよね?」
「あぁ。あの辺ビルが入り組んでてちょっと面白いんだよな」
パルクールでは着地地点の見極めは重要だ。一歩間違うと重篤な怪我を負いかねない。が、人志に落ちるという概念はないのだ。
それでも高所から飛び降りた時のふわっとしたスリリングな感覚はなかなか癖になる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ひゅう、と耳の傍で風が唸る。反対の耳元ではヤナギがきゃらきゃらと笑っていた。
村を囲う大きな塀は、飛んでみればひどくちっぽけなもので。それでも飛んでくる怒号は風に薄められて随分と小さい。
重さを奪わずとも軽いヤナギを抱えて、塀の天辺に登る。瓦屋根の天井は素足には冷たい。それでもどくどくと血潮が巡る身体から体温が奪われることはないのだ。
ひどく高揚している。どこへ行く、戻れ、と大人たちが怒鳴っている。捕まれば、これまでと同じ扱いはされないだろう。
そもそも、奴らはオレたちを疎んでいたんじゃないのか。何故戻ることを望むのだろう。
いや、理由などわかり切っていた。オレたちがいないと、この村に起こるすべての不幸の原因がわからなくなるのだ。
――だが、そんなこと知ったことか!
未来永劫、お前たちを困らせてやろう。化け物がヒトの都合など鑑みる訳がないのだから。
それらしく振る舞うことに文句などないだろう。化け物であれと望んだのは他でもないお前たちなのだから!
「行くぞ!」
「うん!」
跳ねる声としがみついてくる体温。踏み出した足元から屋根が消える。ひゅう、とみぞおちの辺りに感じる快感。
――死ぬかもしれないと思うのは、生きているからだ。オレたちが、今! 生きているからだ!
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ビル群が目の前から通り過ぎ、電車がゆっくりと速度を落とす。人志はうかがうように紬を見た。こくりと頷いた彼女は立ち上がってドアへと向かう。
「じゃ、行こっか」
「おー」
さて、地面から見るこの街はどんなものだろうか。
生きていると死んでいないの差とは。




