12 白炎、名前
思わず身をすくめた紬の遥か下で、炸裂した青白い炎が蟻を呑み込んだ。炎から逃れようと暴れる蟻が、勢いに押されて後ろへと滑っていく。
それは方向を変え、ふわりと浮かび上がった。熱によって上昇気流が生み出されたのだ。
成すすべなく上空へと押し上げられた蟻が、人志らと同じくらいの高さに昇ってくる。怖々と視線を向けた先で、炎の中蒸発するように消えていく。
――不意に、黒々とした瞳がこちらを向いた。ゴーグルをつけていない人志はそれに気づかない。
「加冶君、危ない!」
「あ?」
紬が指差した炎の中。半分ほど消えかかっていた蟻が炎を振り切る勢いで暴れだしたのだ。
向かってくる火の粉に人志が目を見開く。慌ててゴーグルを装着して姿を捉えると、後ろへ下がりながら片手をポケットに突っ込んだ。
「んだよ、しぶてぇな!」
取り出した黒い玉を空中にばらまく。指先を下へと向ければ、途端に過大な重力を得た玉は残渣のような霞を次々貫いて落ちていった。
昨日と同じくノイズのような音が響き渡り、波が引くように静かになる。
「消えた……か?」
「多、分……」
重く息を吐いた人志がゆっくりと高度を下げていく。地面に足が着くころには、要と司狼がこちらに駆け寄ってきていた。
「悪ぃ、人志! 大丈夫だったか!? 紬ちゃんも火傷してねぇか!?」
「よゆー」
眉を下げた司狼に軽口で応える人志。紬も大丈夫です、と返せば安心したように胸をなでおろしていた。
「最後何が起きたの?」
要の問いに人志は紬へと視線をスライドさせる。それを受け取った紬はこくりと頷いた。
「消えかけのバグとその、目が合ってしまって……急にすごい勢いで暴れだしたんです」
「オレはゴーグルしてなかったから、コイツに反応したんだろうな……まぁ、見えててもアレの目がどこかなんてわかんねーけど」
人志はそう言って肩をすくめた。それを聞いた要は考え込むように顎に手を当てた。
「認識度の差かな……? バグも人工物だと仮定すると、よりはっきりと見える者を襲うようにプログラムされてるのかも」
「さっき鷹彦がちらっと言ってたが、バグの発生と紬ちゃんの目の移植がほぼ同時期の可能性もあるんだよな?」
司狼が投げた疑問に同じことを思ったのか、要が少し険しい表情を浮かべた。が、紬の方を振り向くと顔の前でぱしんと両手を合わせて頭を下げた。
「本当にごめんね。安全は保障するとか言っといてこんな……」
「あ、いえ、私だって全然役には立ってないですし……」
あわあわと両手を振る紬に要は顔を上げた。眉は下がったままだったが、表情は和らいでいる。
「そんなことないよ。はっきり見えるってだけで随分助かってるんだ……動きもおおよそ予測出来るしね」
「そ、今までは本当に行き当たりばったりだったからな。飛ぶ奴もいりゃあ飛ばねぇ奴もいるし、早いのも遅いのも全然区別つかなかったんだよ」
たまに大きさ違うなーって分かるくらい、と補足した要は紬の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「君にとってはわけわかんないし怖いだろうけど、僕らはすごく助かってるんだよ――虫のいい話だけど、これからもよろしくね」
「が、頑張ります」
何とかそう返した紬に、要と司狼は穏やかに笑っていた。人志は既に話に飽きていたのか、その辺りに落ちていた石ころをジャグリングして遊んでいる。
かと思えば、片手でキャッチしたそれを明後日の方向へと投げ捨てた。重力を失った石ころは真っ直ぐと飛んでいき、雨どいのパイプに当たって鈍い音を鳴らす。
「アイツ誰?」
静かな問いから逃げるように足音が駆けていく。刹那、銃声が響き渡りパイプの一部をえぐり取った。
押し殺したような悲鳴が一瞬止まって、また走り去っていく。間髪入れずにエンジン音が鳴り、瞬く間に遠ざかっていった。
銃を下ろした要が舌打ちをこぼす。司狼も手のひらに湛えていた炎を握り消していた。
「クソッ、逃がしたか」
「つーか今のって……」
交錯した視線が紬の方を向く。彼女は銃声に驚いて固まっていた。人志はそんな紬の腕を握っている。一応護衛の役割は果たそうとしていたらしい。
「気づいたんなら先に僕に声かけてね……」
「あー……ワリ、次からそうする」
本気で肩を落とす要に人志もきまり悪そうに頬を掻いた。遺伝子的に優秀とはいえ年齢的にはまだまだ学生なのだ。
「まぁ、対人は初めてだしこんなもんだろうね。むしろ上手に手加減出来てたよ、エライエライ」
「ヤメロ」
フォローのつもりなのかなんなのか。ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわしてくるのを嫌って人志が地面を蹴った。腕を掴まれたままの紬も一緒に宙に浮く。わ、わ、とバランスを崩して足をばたつかせ、人志にしがみついた。
「こーら、紬ちゃん巻き込むんじゃないよ」
斜め下から呆れたような声が飛んでくるが、どこ吹く風だ。ひゅうひゅうと耳元で笛を吹く風が真っ黒な髪を揺らしている。
「そういや今更だけど、紬って高いとこ平気なの?」
「え? あ、う、うん。大丈夫、です」
こてりと人志が首を傾げる。紬が若干挙動不審になっている理由に思い当たることはないようだ。
「さっきはタメ語だったじゃん」
「あ……や、さっきは咄嗟で……」
じっと灰色の目が藍色を覗き込んでくる。浮かぶ雲の色が、宵の空と混ざりそうなほどに近い。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「名前、何てーの?」
出会ってから数日。初めてそう尋ねられ、一瞬時間が止まった気がした。
えっとね、えっと。時間稼ぎのように繰り返せば、彼はあぁ、と小さく声を上げた。
「お前名無しなんだ?」
「……うん」
ぎゅっと膝の上で拳を握り締める。他の家の子たちが当然のように呼ばれている名すら、僕には与えてもらえなかった。
それが恥ずかしくて、苦しくて、うつむく。
「えっと……君は?」
「オレぇ? オレは『ユウキ』とか『ヤナギノシタ』とか呼ばれるけど」
彼が名だと思っていたものが幽鬼と柳の下だったと知ったのは、これよりもずっと先のことで。その時はただただうらやましいな、と思っていた。
押し黙っていた頭の上に、ぽんと手のひらが乗せられる。物から重さを無くす手のひら。でも今は何も浮かばない。
「じゃあ、オレの名前片っぽやるよ」
「え……?」
「ヤナギノシタは長いから、ヤナギでいいか?」
あんまりにも簡単に分け与えられた名前。十年近く憧れていたそれに、二の句が継げなかった。
「な、ヤナギ……オレの名前も呼んで?」
「ユ、ユウキ……?」
くすぐったそうに、嬉しそうに、花が開くように笑う顔。この瞬間、僕らは確かにこの世に存在を許されたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「それに、同い年くらいの奴らって名前で呼び合うんだろ。加冶じゃなくて人志でいーぜ」
「え、ええと、その……」
相変わらず紬が戸惑うことに心当たりがないのか、人志は再び首を傾げる。空中に静止したまま、離すこともできない距離感に紬の耳がじわりと熱くなった。
降りてきなー、と要と司狼が呼ぶのが聞こえてくる。
「えっと……人志、君?」
「ん」
どこか満足気な表情に、少し心が浮ついた。
ようやく地面へと戻ってきた人志と紬を連れて、四人は車へと戻る。待っていた鷹彦は調べ物をしていたらしく、タブレットの光を反射して白く光る眼鏡がこちらを向いた。
「お疲れ。大事ないか?」
「誰も怪我はしてねぇが、ちょっかいかけてきた人間がいたぜ」
「ほう?」
逃がしたけど、と続いた報告に呆れた顔が真緒と揃った。が、直ぐに表情を引き締める。
「なら近隣カメラに映っていることを祈るとしよう」
「取り敢えず一旦任務完了ってことで、本部戻ろっか……真緒、運転お願いしていい?」
快諾した真緒は全員乗車したのを確認して、ゆっくりとアクセルを踏む。静かに動き出した車は、何事もなかったかのようにいつも通りの児童館に背を向けて走り出した。
紬の小説の主人公ズのお名前判明。




