111 破棄、惨劇の夜
最後の言葉が空気に溶け切った頃。ようやっと知司は立ちあがった。竜弥はいつの間にかとっぷりと夜が更けていたことに気づく。ここからが、紬の記憶領域にはなかったシーンとなるのだろう。竜弥はぬいぐるみをしっかりと抱き直し、その時を待った。
ややあって軽い足音とともに凪が戻ってくる。紬は、と短く問うのに、知司がこくりと一つ頷いた。
『あの子のことは、約束ごと忘れさせた……これで紬は大丈夫なはずだ。あの子に引っ張られて死ぬことはない』
「死ぬ……?」
唐突なその単語を思わず繰り返す。紬の容態はそんなにも悪かったのか。だとして、今は大丈夫というのはどういうことなのか。
二人に尋ねたくなる疑問を何とか呑み込む。これは既に起こったことだ。美姫のサイコメトリーは過去を覗く能力であり、当然干渉することは出来ない。どこか歯がゆい気持ちを抱えながらも、ことが起こるのを待つしかないのだ。
『状況は皆に伝えました。何も知らない者には早急に暇を出しています』
『後はあの子……ナリがどう出るか、だな』
『ナリって……まさか』
凪が思わずといった様子で口元を覆った。知司が苦い顔で頷く。
『紬はあの子に名前を与えてしまった……君が言うには、外の世界についても紬が教えたんだろう?』
今度は凪がこくりと頷き、端末の画面を知司に向ける。竜弥も覗き込んだその画面には、南城高校の資料室で見つかったページが表示されていた。
『あの子はもう、お稲荷様ではなくなってしまった……もはや――』
続く言葉を、轟音が呑み込んでしまった。地面が揺れるような感覚に、近くの柱に掴まろうとした手が空をかく。それにはっと我に返った竜弥はぬいぐるみを強く抱きしめた。意味があるのかはわからないが、黒いビーズの目を片腕で覆うようにして隠す。
『……こっちに、来ているな』
びりびりと空気が触れるのすら感じていた。竜弥にはこれが何なのかわからない。だが、そうだ。おおよそ普通の人間の出来ることではないことだけは理解できた。
『宮司様!』
神社の神職と思しき男が二人の元に走ってくる。ぐうじとは何だったか、と竜弥が記憶を探る前に、知司が一歩前に進み出た。
『例の彼がこちらに向かっているようです。私たちでは……駄目でした』
ぐっと男が拳を握り込む。竜弥はその袴の裾が赤く汚れているのに気づいた。昔捜査一課でさんざん閲覧したあの大虐殺が既に始まっているのだ。ごくりと唾を呑む。揺れる空気がひたひたと近づいてきている。
『……元々、長く放っておかれた問題だ。しかし、私の代でこんなことになるとは……君たちにも申し訳ない』
『これは宮司様一人の問題ではありません……長く見て見ぬふりをしてきた私たち全員の問題なのですから』
男は苦しそうに、それでも薄く微笑んだ。そうして知司に深く頭を下げると、その場を走り去っていった――血の臭いの方向へと。
それを見送り、知司と凪は視線を合わせる。そうしてその視線は遠く、森の方角へと向いた。
『虫のいい話だろうが、せめて紬だけは……』
『霑斐@縺ヲ繧』
「――ッ!」
唐突に鼓膜を粗いノイズが撫でた。咄嗟に目を閉じてしまったせいで過敏になった鼻が、鉄の芳香を捉える。
『……っが、はッ』
ぼたぼたと命の色が古い木目に垂れ落ちていく。竜弥が目を閉じたのは一瞬のはずだ。だというのに、知司の肩口から袈裟懸けに赤く深い傷が開いていた。ごぶ、と知司の口から同じ色が零れ落ちていく。
竜弥は目を見張って辺りを見回す。崩れ落ちた知司とそれを支える凪以外に人影はない。そんな馬鹿なと視線をあちこちに走らせるが、犯人の姿はどこにも見えない。
再び轟音が鳴り響く。今度はもっと近い位置だ。同時に少し離れた地面が砂煙を上げて抉り取られる。その音に紛れるように、かたりと障子の木枠が鳴いた。
『――開けるな!!』
咄嗟のことだったのだろう、叫んだ知司が障子戸を押さえて鋭く叫んだ。障子の向こうから、怯えた声が知司を呼ぶ。
『お父さん、おケガしてるの……?』
『大丈夫……だから、開けるんじゃ、ない……』
粗い息と湿った咳。絶え絶えの息が、それでも声を振り絞って紬に問う。
『紬、ナリのことを覚えているか?』
『ナリ……? ……だれ? しらない、と思う……』
知司が大きく安堵の息を吐いた。力が抜けたのか、障子戸に縋り付いていた身体がずるりと床に滑り落ちていく。
『すまない、紬。私たちでは、お前を護ってやれない……!』
『あなた!』
とうとう崩れ落ちた知司を凪が近くの柱を背にして座らせた。ぐっと拳を握る凪を、紬が弱弱しく呼ぶ。凪はそれに応えるようにとんとんと優しく障子戸を叩いた。
『紬。愛しているわ、私たちの可愛い子――大丈夫、絶対に連れてなんか行かせない』
『お母さん……? なにが――』
紬の困惑の声をかき消すように、空気が唸る。離れのほど近くの植え込みが一瞬にして刈り取られるのが竜弥の目に映った。強い風が吹き抜け、ぐらぐらと地面が揺れる。
相変わらず犯人は姿を見せていない。だが、知司と凪はそれが何なのかを知っているのだろう。顔を上げた知司と凪の視線が交わる。
『凪、』
『……えぇ、あなた』
凪は知司の傷に障らないようにぎゅっと抱きしめた。そうしてまた障子戸を叩く。彼女はひどく優しい顔で、微笑んでいた。
『紬、大丈夫よ。でも、全部終わったらもうここに来たらあかんからね』
凪はそう言い残すと森の方へと走っていった。彼女が発見されたのは、確かその入口の近くだったはずだ。竜弥は拳を握りしめてその方角から目を逸らした。
『お父さん、お母さん、は……?』
知司が応えるよりも早く、その視線の先で鳥居が斜めに滑り落ちていった。根本をすっぱりと斬られたらしく、自重で崩れ落ちていく。近くの灯篭と人が巻き込まれ、赤が散った。
あぁ……、と肺の息全てを吐き出すように知司が呻く。それが怒りなのか後悔なのか、竜弥には判別がつかなかった。ただ、諦めではなかったのだろう。知司は扉を己の身で封じるように背を向けて座り込んだ。
『わ、たし……わたし、が、なにかしちゃったの……?』
『それは違う』
不安と恐怖に震える声を知司は力強く切り捨てる。そうして宝物にそうするように障子戸を撫でた。
『紬は何も悪いことはしていないよ……ずっと、ずーっと昔に、大人が間違えてしまったんだ』
悲しそうに、知司はそう言った。遠くを見つめるその瞳には、近づいてくる破滅が見えていることだろう。知司は大きく息を吐き、片手をつきながらも立ち上がった。よろける度、床に落ちた赤がこすれて滲んでいく。
『紬、お前は優しい子だ。困っている人に手を差し伸べられる、温かい子だ。きっと沢山の人がお前の助けになってくれる。私たちは先送りにするしか出来なかったが……いつかきっと、』
声が途切れる。見開かれた琥珀の瞳の中で、知司の身体が二つに分かたれた。半ば叩きつけられるように落ちた上半身が白い和紙を赤くふやかしながらずれ落ちて、薄く戸を開いた。
「――ッ、」
竜弥はこみ上げてくるものを何とか飲み下した。目の前の光景への衝撃もさることながら、美姫がこれをいつも体感していることを再認識してしまったのだ。見たのが己で良かったとすら思ってしまう――肝心なところは、相変わらず見えないままなのだが。
『……っ、ぅえ、はっ』
小さくえづく声が聞こえ、竜弥はハッとして意識を戻した。薄く開かれた障子戸の内側で、紬がうずくまっていた。ぼたぼたと吐き出したものを追うように涙が零れ落ちていく。
――ちりん、と。涼やかな鈴の音が聞こえた。
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