11 距離感、蟻
沈黙が満ちる中、鳥の鳴き声が響き渡る。思わずびくりと肩をはねさせた紬が顔を上げれば、少し気まずそうに端末を取り出す要がいた。画面の中ではセキが機嫌よく、元気よく歌っている。
ごめんね、と一言断って画面をスワイプし、耳に当てる。
「はい、もしもし」
なんとなく再び静かになった空間に要の声だけが通り抜ける。口元を押さえてくぐもった声が段々と焦りと、僅かな怒りを帯びていった。
「まだ詳しい話とか全然してないんですが……いやだって、昨日の今日ですよ?」
当たり前でしょ? という強い言葉は呑み込んだのか、不自然に間が開く。時折ちらりと寄せられる視線に、紬はおそらく自分の話だろうと想像がついた。
同じく予想がついたらしい真緒は、紬に見えない位置で要の足を小突いている。何かわからないけど断れ、とでも言いたいのだろう。
紬と美姫を除く皆がやや険しい表情で見守る中、要はため息を吐いた。一言二言電話先の誰かに何かを告げて、通話を切る。真緒が柳眉を跳ね上げた。
何て? と人志がソファにそっくり返りながら訪ねる。要は片手で顔を覆ってぼそりとこぼした。
「えー、バグが発生しました。現場に急行せよとのことです」
昨日とほぼ全く同じ台詞を聞いた真緒が苛立たし気に踵を鳴らした。そのまま流れるように立ち上がる。
「なら、さっさと済ませよう。まだ調べなきゃいけないこと山ほどあるんだから」
「で、紬のこと連れてくの?」
ざっくりと核心に触れた人志に、大人たちが苦い顔になる。
「……はい、そうです。バグを観測させろとの御達しです」
「あのっ、私大丈夫です。昨日、お手伝いするって決めましたし……」
見え見えの強がりに、要の眉間のしわが深くなる。が、彼にも事情があるのだ。すっと表情を落とすと、司狼へと声をかける。
「人志が護衛に回んなきゃだから、シロも連れてって良いって。ごめんだけど、タカも一緒に来てくれる?」
構わない、と短く答えた鷹彦の頭につばの大きい帽子が被せられた。暗い赤色が怪訝そうに帽子を乗せてきた男――司狼を見上げている。
「非戦闘員でも出かける準備くらい自分で出来る」
「んー、あー……うん」
ちょっとだけしょんぼりした様子の司狼に要が薄く笑っていた。紬が首を傾げていると、肩に顎を乗せてきた人志が鷹彦を指差す。
「あいつ弱アルビノだから紫外線大敵なんだよ。身体もあんまり丈夫じゃないしな」
お前とまとめて面倒みなきゃなー、と軽口を叩く彼を真緒がべりっと引きはがした。じんわりと赤くなっていた耳に気づいてくれたのだろう。
「お前は距離感ってものを覚えな」
「なんだよそれ」
不服そうに唇を尖らせた人志は、何もわかってない顔をしていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
要が運転する車にて目的地へ向かう道すがら。助手席の鷹彦は要に無言で自分の端末の画面を見せる。
『目玉を取り出せと言った爺は何人いた?』
トン、トン、と指先でハンドルがその数だけ叩かれる。舌を打った鷹彦はそのメッセージを画面内で紙飛行機にしてスワイプで飛ばした。それを灰色の狼が嬉々として追いかけていき、びりびりに破く。
『バグの発生と彼女の記憶についてはもう報告したのか?』
トン、と一度だけ指先が動く。呆れたような表情になった鷹彦に、要も眉を寄せている。
「これだから短絡的な馬鹿は困る」
辛うじて聞こえるかどうかと言った呟きを拾った要は再びハンドルを一度だけ叩いた。
要に指示をする人間の意見は二つに割れていた。紬の目を調べるべきだと言うものと、彼女を通してバグを研究すべきと言う二つだ。
両者ともに紬への配慮はなく、特に短絡的な馬鹿はそれが顕著だ。
紬が視力を失わないためには、今回の件で彼女自身の有用性や重要性を示す必要があるのだ。
「まぁ、最悪色々改ざんしちゃうかな」
ぼそりとそう呟いたところで緩やかにブレーキを踏む。見上げる先には大きな児童館が鎮座していた。
建物を囲む花壇の上。青いレンズを通した視界の中で、黒い霞が揺れている。
運転席に移った真緒と非戦闘員の鷹彦を残して全員が車から降りた。要は既に銃を抜き、構えている。一人だけ裸眼の紬はそっと霞の方から目を逸らした。
「紬ちゃん、今回のは何に見えてるの?」
「あ、えっと……二メートルくらいある蟻、です」
「あんまり想像したくねぇなぁ……」
少しげんなりした様子の司狼がレンズ越しの視線を霞に向ける。ふーん、とこちらは興味なさげな人志はとんとんと唇を叩いていた。おもむろにゴーグルを外すと紬の方をくるりと振り向く。
「ありんこならあんま飛ばねぇよな? じゃ、オレら上で見てるから」
ひら、と紬の目の前に手のひらが差し出される。ほれほれと言わんばかりにひらひらと揺らされる手に、おずおずと己の手を重ねた。
途端に足元が消えたような、身体を脱ぎ捨てたような、そんな感覚に襲われる。
「う、わ……」
初めての感覚によろめき、人志にしがみつく。ちょっと考えるようなそぶりを見せた人志は、腰に手を回してきた。
びくっと肩を揺らして人志の顔を見ると、灰色の目とかち合う。
「何?」
「え、ぁ、なんでもない、です」
少し気恥ずかしくなって目を逸らすと、人志は緩く首を傾げていた。が、直ぐに眼下で始まった戦いの方へと意識を向ける。
紬もバグと要たちを見下ろした。
蟻は花壇の上できょろきょろと辺りを見回していた。要は少し離れた位置で照準を合わせている。司狼はというと、特殊警棒を展開してゆっくりと蟻に近づいていた。
残り数メートルと言ったところで、蟻は視線に気づいたらしい。威嚇するように顎をカチカチと鳴らして、司狼に飛びかかろうとする。
「お花は枯らさないようにね」
「わぁってるって」
軽い受け答えとともにバックステップで身をかわした司狼は力強く蟻を殴り飛ばした。吹っ飛んだ先で要に気づいたのか、司狼の存在を忘れて一目散に向かって行く。
要は後ろに下がりながら霞に数発撃ち込む。その内の一発が脚の一本を吹き飛ばしたのを見たのは紬だけだが、動きが鈍くなったのは誰の目にも明らかだ。
「シロ!」
「オッケ―!」
要は眼鏡を頭にずらして蟻の標的から外れると、全速力でその場から走り去った。残された見える者に、脚を失った蟻がよたよたと突進していく。
「人志! もうちょい上行ってろ!」
「へーい」
ふわりと高度が上がる。紬の腰を抱き直した人志は楽しそうに、少し赤い耳に囁いた。
「ド派手なのが見れんぞ」
真っすぐと伸ばされた司狼の手のひらが、白熱する。煌々と光る手のひらから、じりじりと熱が立ち昇る。上空に昇ってくるそれは、紬や人志の肌にじわりと汗を滲ませるほどだ。
「バイバイ」
ゆるりとした声が最後通牒を紡いだ瞬間。カッと一際眩い光が炸裂した手のひらから、全ての音をかき消す轟音が放たれた。
中間管理職はつらいね、要さん。




