10 大穴、九年前
ぱたぱたっと軽い音がガラステーブルの上に落ちた。次いで重なっていた体温が勢いよく引きはがされる。
「美ッ――御姫様!」
きょとんとした顔の少女の顔から、ぽたぽたと血が滴っていた。美姫を抱き上げた竜弥は慌てて彼女をソファに座らせ、近くにあったティッシュを引き抜いて鼻を押さえる。じわじわと赤い染みが広がっていくのに、紬の方は血の気が引いていく。
「え、ど、どうした?」
「座ってろ、司狼! 彼女に近寄るな!」
思わず腰を浮かせた司狼を制し、鷹彦は美姫に駆け寄る。彼女の前に膝をつき、両手で頬を支えて顔を覗き込んだ。途端に顔をしかめる。
「やっぱり熱を持ってるな……誰か氷とタオルを!」
言われる前に動いていた要がアイスペールに水を入れて人志に渡していた。空中を滑ってくるアイスペールを竜弥が受け止めてタオルと一緒に鷹彦に渡す。
氷水に浸したタオルで首筋や額を冷やしていると、揺らいでいた桃色の目がゆっくりと焦点を結び始めた。
「大丈夫か?」
「……? あれ、わたくし……」
まだぼんやりとしているようだが、意識は戻ったようだ。ぱちぱちと瞬きをした桃色が何かを探すようにさまよう。
それは、紬を映してピタリと止まった。
「あなた、この世にいなかったの?」
「あ?」
人志がどういうことだと尋ねる前に、美姫はぐずるように目を擦った。痛いのか、熱いのか。額に当てられていた濡れタオルを両手で目に押しあてながら、うわごとのように言葉を紡ぐ。
「何にもなかったのよ。ほんとうに。真っ暗で、真っ白だったわ。手を伸ばしても伸ばしても、何にも届かないの、触れないの」
く、と小さな指先が握り込まれる。こんなの初めてよ、と言い添えた美姫はぐったりと竜弥に身体を預けた。額に張り付いていた髪を優しく払い、竜弥は戸惑った表情を鷹彦に向ける。
鷹彦は受け取った視線をそのまま紬へと投げた。
「……どうやら、豊利君の記憶喪失とやらは精神的なものではなさそうだな」
脳というのは優秀なもので、経験や記憶は全て覚えているそうだ。忘れる、というのはその記憶にアクセスができないだけで、潜在的な記憶として残ってはいる。
心的外傷からくる記憶喪失も思い出すのを拒否してしまっているだけで、記憶そのものが失われたわけではない――本来なら。
「美姫が読み取れないのなら、豊利君の脳内にその数か月間の記憶は存在しないんだろう……人為的な方法で削除されたんだろうな」
「途中でおっきな穴が開いてるみたいだったの。その前後は読み取れたけど……特に気になるようなことはなかったわ。あの森とってもきれいね、今度行ってみたいわ」
にこ、とかわいらしく笑う美姫に紬はぎこちなく笑い返した。ごめんね、と小さく呟くと首が横に振られる。
「やっぱりその目、人工物なのかね?」
「記憶を弄る技術に、認識阻害を上書きする目……相当な技術力を持った者がいるらしいな」
鷹彦は思案にふけるように顎に手を当てる。要の表情を見るに、考えていることは同じだろう。
「紬ちゃんが無作為に選ばれた実験体なのか、何かしらの適正があったのか……その辺りもちょっと気になるところだよね」
「健康状態や体質に特筆するような点はなかったが……」
強いて言うならやや貧血気味くらいのものだったらしい。少し前に受けた健康診断とほとんど同じ結果を聞いて、紬は苦く笑う。
「何にせよ、調べなければならないことは山積みだ……君の目のこともそうだが、バグについても」
「そういやさー……」
不意に人志が声を上げる。皆が注目するなか、灰色の瞳に紬が映る。
「バグが出始めたのってそんくらいの時期じゃなかったっけ?」
一瞬、空気が変わった気がした。
「あー……っと、そう。そう、だね。九年前の夏辺りからだ」
要曰く、とあるエリアで電子機器の異常が頻発したのが始まりだったらしい。調べてもプログラムに問題は見当たらず、電磁波等の外部からの干渉を疑ったことからバグの観測に至ったのだ。
当然肉眼では見えないが、特殊なレンズを通すことで見ることが出来る。それでもはっきりとした姿を捉えることは出来ないのだ。
「昨日も言ったと思うけど、あれは怪電波の塊みたいなものだと推測されてるんだ……正直、僕らはこの現象が自然発生したものだとは考えてない」
「バグには見えている者を優先して襲うという特性があるが……これも何らか君の目に関係があるのかもしれないな」
点と点が不確かながら、次々と繋がれていく。そしてそれは、自分の失われた――あるいは奪われた過去に起因するものかもしれない。
「……あの」
紬が声を絞り出す。視線は膝の上で硬く結ばれた拳に落とされていた。
「バグが、その……人を、殺したことはあるんですか?」
震える言葉に、鷹彦が静かに目を見開く。開きかけた口を一旦閉じて、要へと視線を寄こした。要は小さく頷いて、俯いた顔を覗き込むように紬の前に膝をついた。
「いや、今のところバグが原因で命を落とした人はいないよ……昨日言ったように昏睡状態になってる人はいるけど」
どうしてそう思ったの? 優しい声が問いかける。細い肩が震え出した。
「……白貴稲荷神社って、知ってますか?」
首を捻る者が多いなか、竜弥が息を飲んだ。大きく見開かれたアンバーに紬が映り込んでいる。
何、と短く人志が呟いた。答えようとしているのか、紬が口を開いては閉じてを繰り返している。ぽつり、と握られた手の甲に汗が落ちた。
「……九年前の夏に、大量殺人事件が起きた場所だ」
白貴稲荷神社というのは、京都の片田舎にある小さな神社である。その名の通り、稲荷神を主神として祀る神社の一つだ。
竜弥の言う通り、九年前に凄惨な事件が起こったことで神主や多くの社人、氏子を失い、今では寂れてしまっている。
――そしてその神社は、紬の生家だ。
社人は神社で働く人で氏子はお参りする人みたいな感じです。




