君が死んで100回目
「これ、いる?」
ハエの飛ぶ路地裏の壁に背を凭れ、じっと反対の壁についたシミを見ていると目の前にパンが現れた。私は驚くこともなく、視線だけを上げてパンを差し出した少年を見た。
「……なんのつもりだ?」
憮然とそう問えば、少年はきょとんとしてから首を傾げる。身なりからして、かなり上級の身分だと窺えた。
「お腹、空いてないの?」
もう一度パンを私に差し出した少年から視線を外して再び目の前のシミを無心で見つめる。パンの匂いが鼻につく。
何日も食物を入れていない腹は情けなくぐぅと鳴った。
「ほら、お腹空いているんでしょ? 食べないの?」
何度もパンの匂いを嗅がされては、目の前にぶら下がった餌を見過ごすわけにはいかず乱暴にパンを奪い取る。少年が嬉しそうに微笑んだのが分かった。
餌付けされたようで腹が立つ。
モグモグと無言で食べていたら少年が嬉しそうに話し出した。
「ねぇ、名前は?」
「……」
「何歳?」
「……」
私が無視し続けても少年は負けじと話しかけてきた。
「僕はね、レオン。レオって呼んで。歳はね、10歳。好きな食べ物は辛い物、好きなものは……」
「お前」
典型的なお坊ちゃんだと思った。
きっと、頭がお花畑で、何も考えてないクソガキだ。
「また、ここに来てくれるか?」
そう言えば、パアッと表情を明るくさせる。
「うん! 勿論だよ!」
「私は、パンが好きなんだ」
「パンだね! 分かった! また持ってくるよ!」
「あと、金が欲しいんだ。水も買えなくて」
そう言うと、少し顔を曇らせた。しまった、直球すぎたかもしれない。
「僕、"ようし"だから、お小遣いとか、貰えないんだ」
「……そうか」
「でも、水もパンも持ってきてあげるよ!」
「あぁ、ありがとう」
……使えねぇ。
内心悪態を吐きながらも、凝り固まった表情筋をなんとか動かして、歪に笑えば少年は喜んだ。しばらくはいい鴨になりそうだ。
「ここは、危ないから、気をつけて来てね」
他のヤツに私のものをやるんじゃねぇぞ。
そういう意味をこめて忠告すると、少年は心配をされたと思ったのか、またまた花が綻ぶように笑う。
「大丈夫! 僕、剣は強いんだ!」
そう言い残して、少年は立ち去る。あれだけ見た目がよかったらこんなに治安の悪い所では人さらいにあっても可笑しくない。取り敢えず食料だけは持ってきてもらいたいところだ。
ふっと笑ってから、体を縮めて足に顔を埋めた。
そう言えば、あの少年には私の"能力"が効かなかったな。最近は盗みも出来ずに腹が減っていたから気が緩んでしまったのかもしれない。
少し気合いを入れ直してから、深い眠りについた。
オドゥウェル王国のグレドニー通りの裏路地。そこが私の家だ。物心ついた時にはすでにそこに住んでおり、親の記憶も、自分の名前も知らない。ただ、気が付けば誰かの捨てた塵を拾って食えそうなものは食っていた。
体が大きくなるにつれて、勿論食べる量も増えて塵では腹が満たせなくなっていた。
今でも覚えている。暑い夏の昼下がり。とうとう空腹で餓死してしまうと思った。あの時は本当に怖くて、人生で初めて泣いた。
口からは絶え間なく唾液が溢れて、灼熱の太陽に焼かれてしまいそうだった。喉はカラカラで呼吸もしづらい。
その時、通りの方で水の音が聞こえた。幻聴なんかではなく、貧しい商人が手持ち無沙汰で訪れたために聞こえた音。ポチャンッと水の音に気が付けば手を伸ばしていた。
商人に見付かるとか、そんなことも考えられず取り敢えず生きるために、容器に入った売り物の水を盗んだ。
震える手で容器を開けて、すがるように飲み干した。飲めば飲むほど喉は渇いて、何本も何本も水を飲んだ。暫くしたら、商人の怒号が聞こえて焦った。商人はこちらを睨んでどこから取り出したのか、木刀を掲げて殴り込んできた。
頭を抱え、後ろに後退したら間一髪で木刀を避けることに成功した。しかし、商人は二発目を忘れない。痛め付けられることを覚悟した時、商人が焦ったような、驚いたような声を出した。
『何処に行った!?』
私は目の前にいるのに、商人はキョロキョロと辺りを見渡す。そして盛大に舌打ちをしてから、罵倒と共に転がった容器を木刀で壊した。
後に知ることになったのだが、この世界の人間は、皆なんらかの能力を持つらしい。強力なものから、些細なことまで。
特別なことではなく、誰でも持っているのが当たり前の、そんなもの。水を盗んだ日から気になって通りを歩く人間の話に耳を傾けていたらなんとか情報が集まった。
切れ切れなので、正確ではないかもしれないが大方合っていると思いたい。
そして、私の能力は、"消える能力"。
瞬間移動とかではなく、相手に自分が見えなくなるようにする。存在は確かにそこにあるのに、相手には見えない。分からない。
孤児として、盗人として、これ以上ない恵まれた能力だった。そして、自分が今まで裏路地で生活していても誰にも絡まれなかったことを理解した。
絡まないのではなく、分からないのだ。彼らは私がここにいると気付かない。
それが分かった瞬間、私の世界は薔薇色だった。盗みはしほうだい。食い物にも飲み物にも困らない。盗んで、盗んで、誰にも気づかれないようにここで生きる。なんて、素晴らしい。
そうやって何年かは飢えを凌いだ。しかし、いつでも盗める訳ではない。時々ではあるが、敏感な者や幼い子供は気付くし触れられたらすぐにバレる。盗んだことを店の者に見つからないようにしなければならない。私の能力は万能では無いから、自分と自分の物以外を消すことは出来ない。他の者には食い物が浮いているように見える。
あの日もそうだった。
盗みを数日しておらず、空腹だった。いまだに成長は止まらないから腹が減るのもしょうがないことかもしれない。
そろそろ盗むかと思った矢先、目の前に食い物が現れた。差し出したのは美しい深みのあるオレンジの混ざった茶髪に、青緑とでも呼べそうな見たこともない瞳。少し癖のある髪の毛は彼の可愛さを更に引き立てた。
艶のある靴に、綺麗な服装。見た瞬間、貴族の子供だろうと合点がいった。貴族なんざ始めてみたが、周囲の会話からなんとなく予想はつく。取り敢えず、金持ちなのは間違いない。
小汚ない私を見て、少年は屈託無く笑う。美しい少年が笑えば周りには花が咲くようで、開けた口からは小さな八重歯が見えた。
『僕はね、レオン。レオって呼んで』
裏路地で盗みを働く私に向かって、アイツは天使のような笑みを向ける。
馬鹿なヤツだと思った。
「名前ないと不便じゃない?」
オレンジの混ざった茶髪を揺らしながら奴は私を覗き込む。
貰ったパンを食べながら、目線を少し彼に向ければ彼は目があったと嬉しそうに微笑んだ。
「名前なんて、私には必要ない。誰も呼ばないし、呼ばれたこともない」
「僕が呼ぶよ! なんて呼べばいいの?」
「好きに呼べばいい」
ごくりとパンを完食すれば、隣で少年は考えるように唸った。
「そうだね……。マティアス……海の女神って意味なんだけどね。それから取ってマティ! マティにしよう!」
「好きにすればいいさ」
私の名前はマティに決まったらしい。海の女神。なんとも私には似合わない名前だ。
私の反応が不満だったのか、少年はむうっと頬を膨らませたあと、何度も私の名を呼んだ。
「マティ。ねぇ、マティ」
「なに」
少年が何度も何度も呼ぶので、仕方なく返事をすればアイツは嬉しそうに笑う。
なぜそんなに嬉しそうなのか。
私を餌付けできて嬉しいのか、コイツの考えることはよく分からない。
「お前は貴族か」
「お前じゃない! レオだよ!」
少年が怒ったように顔を赤くした。しかし、私はコイツの名前を呼ぶ気は毛頭ない。
しらを切る私に業を煮やしたのか、頬に貯めていた空気をプスッーと出してため息をついた。
「マティは強情だねぇ」
「知っている」
「可愛くない」
ちらりと少年の様子を伺えば、バチリと目があった。そして暫く見つめ合っていると何故か少年が慌て出す。
「ご、ごめ、違うんだ。マティは可愛いよ。世界で一番可愛い」
「そうか」
「お、怒らないで?」
こてんと首を傾げて私を見る。なるほど、これがあざといと言うやつか。
うるうると目を潤ませ、手を合わせて上目遣いで私を見つめる。顔が良いからこそ出来る技である。
「別に怒ってない。私が可愛くないことは知っている」
「だから、違うんだ! マティは世界で一番可愛いよ!!」
少年は勢いよく私の目の前に顔を突き出し、凄い形相で迫ってきた。
私は引いて一歩後退る。
もちろん後ろには壁だからあまり意味は無かったけれど。
「……そうか」
「うん! そうだよ!」
「ちょ、耳元で話すな。煩い」
「あ、ごめん!」
耳を手で覆い、奴の大声をなんとか遮断する。貴族のくせに、私のところになんか来て、変な奴。
レオンは明らかに変人だった。
教育も受けず、無知な私でも分かるほど、バカでお人好しで変な奴だった。
キラッキラの服を来ているくせに襲われない。
綺麗な顔をしているくせに拐われない。
何処にいても私を見つける。
本当に、気味が悪くて不思議な奴だった。
「マティ!」
角からひょっこり顔を覗かせたのは少年だった。
「……なんだ、レオか」
「やっと普通に名前を呼んでくれるようになったね!」
嬉しそうに彼は笑う。
お前が煩かったから、仕方なくだ。眩しい笑顔に顔をしかめるが、レオはものともしない。分かっているのか分かっていないのか。
「……おい。欠けているぞ」
「あ、あははは」
パンを見て、レオを睨む。
パンは齧られたように欠けていた。
「ご、ごめん。お腹空かせてた子がいたからさ」
「あのな、レオ。人助けはいいけれど、自分勝手な優しさは止めろ」
そう言えば、レオはきょとんと目を丸くして首を傾げた。
「どうして?」
「この国の貧困は根強い。お前一人がどうにかできる問題じゃないんだよ」
パンを貰っている自分が言えることでは無かった。が、私は自分のパンが減ったからこんなことを言っているのではない。中途半端な優しさは時に相手も傷付ける。私だって、例外ではないのだ。期待して裏切られることなんて沢山あった。
特に、レオみたいな奴はそういう傾向にある。
良かれと思ってしたことが、実は相手に期待させ逆に失望させてしまうのだ。無意識だから、尚更たちが悪い。
眉をぎゅっと寄せて顔を歪めながらそう言った私を、レオは良く分からなかったらしく不可解な顔をしている。
そして、暫く黙った後、やっぱりいつもの顔で笑った。
「でもさ、誰かが何かしないと、何も変わらないよ?」
今度は私が驚いた。
考え無しの行動では無かったのかもしれない。
「……お前の言うことも一理あるかもな」
「またお前って言うー!」
さっきの真面目さは何処へやら、不貞腐れた様子のレオに私は思わず笑ってしまった。私の笑顔に、レオは吃驚したように目を見開いた後、嬉しそうに笑った。
「ねぇねぇ。マティは能力って知ってる?」
パンを全て食べ終わってしまった頃に聞かれた。突然何を言い出すのだろうと少し驚いたが、ただの話題転換だと思って記憶を掘り起こしながら話す。
「聞いたことはある。この世界の誰もが持つ特別な力のことだろう?」
「よく知っているね! マティは自分の能力を知ってるの?」
「詳しくは分からないけど、大体は」
「どんな能力?」
「"消える能力"」
間を空けずにそう言えば、レオは瞠目してぽっかりと口を開けた。暫く沈黙が続き、そしてレオの瞳が輝き出す。
「すごい! "消える能力"って何!?」
「本当に消える訳じゃないが、強いて言うなら存在が認識されなくなる能力。そこにちゃんと居るのに自分だけ消えたように見せるんだ」
「格好いいね! いいなぁ」
レオは心底羨ましそうに目を細める。そう言えば、彼の能力は何なのだろう。
ふと気になった。
「レオの能力は?」
「え? 僕の能力?」
一つ頷いて視線で続きを促す。隣に座っていたレオは汚れた壁に背を預けて、迷うように唸った。ぼんやりと前の壁の染み眺めながら自分の唇を弄った。そして、ゆっくりと私の方を振り返ってにっこり微笑んだ。
「んー、ないしょ」
今までで一番大人びた笑顔だった。
その日は、雨だった。
もちろん私の棲みかに雨避けなどない。傘もなければ屋根もない。だから雨は嫌いなのだ。
こんな日に限ってレオは来ない。
いつもは煩いくらいに通ってくるのに。寂しいなんて気持ちには気付かないふりをして町に飛び出した。レオに依存しそうな自分が怖かった。独りで生きていけなくなるのが恐ろしかった。
久し振りに何か盗もうとした。
腕が鈍っていないか心配だというのも理由の一つだが、レオの来ない雨の日をやり過ごそうと無理やり思考を切り換えたかったからでもある。
なんだか、嫌な予感がしたのだ。
レオが、消えてしまうような。もう二度と自分の所には戻ってこないようなそんな気がした。確証なんてない。
ただ、そんな気がする。それだけ。
しかし盗みは失敗した。
店主にばれて血を吐くほど殴られた。頭を踏まれて、鼻血が出て、腹を蹴られて吐血した。
死ぬんだと思った。
私の人生はあっけなかった。
最期に見たのは、レオの顔だった。
・・・・
彼女は、100回死んだ。
ほら、今で100回目。
髪を抜かれ、頬を殴られ、腹を蹴られた愛しい人がそこにいた。
全身血だらけで、もう虫の息だった。
ピクリと指先を動かして、うっすら瞳を開いた。白い瞼から覗くのは濡れた漆黒の眼。
「……また、救えないんだなぁ……」
君が死ぬのを何度も見た。
心臓が止まる、その瞬間をまた繰り返す。
汚れた髪に手を入れてゆっくり彼女の頬を撫でた。反応はない。ただ呼吸が浅くなり、白い肌が青白くなる。
焦点の合わない瞳が僕を見つめ、赤い唇が「レオ」と言った。
彼女は100回死んだ。
それは事実だ。僕は忘れない。
僕の本当の能力は、"世界の理を変える能力"。
ただし、この能力は一生に一度しか使えない。
僕は元々孤児で、特殊な能力を持つことから、兄弟と離れ離れにされて貴族の家に引き取られた。能力は役所に行けば分かってしまうから、それで知ったのだろう。
義両親は煩かった。
義兄弟は嫌いだった。
孤児である僕を虐め、貶め、蔑んだ。
そんな時に出会ったマティ。同じ孤児であることが、何故か心惹かれた。僕みたいに孤児院に入らず、兄弟もいない天涯孤独な彼女。
それでも裏路地で独り必死に生きる姿は僕の心を打った。なんて綺麗だろうと見惚れた。
寂しいのが丸分かりで、だけどそれを隠そうと強がって独りで泣く。
マティが好きで、大好きだった。
だけど、マティはある日突然死んだのだ。
そう、こんな風に。
彼女が死ぬのはいつだって雨の日で、刺されたり暴行されたり事故だったり。死因は色々。
彼女が死んで一回目。
僕は絶望して、発狂して、いつも持っていた短剣で自分の首を掻き切った。その時に能力が発動した。
もう一度やり直したい。
それから、僕の世界の理が変わった。
戻るはずのない時間をずっとループする。
記憶を持ってループするときもあれば、記憶を失ったままループすることだってある。だけど、必ず彼女が死ぬ日には全てを思い出す。自分がマティを救うために、時間を繰り返していることを。
僕が死ねば、時間は戻り、君も生き返った。ただ違うのは僕の能力と、君の死に方だけ。
しかし、"世界の理を変える能力"はもう二度と帰っては来なかった。僕は時間を進めることも出来ず、いつも死に方の違う彼女の亡骸の横で発狂して自害するのだ。
一回目は、時間を戻した。
二回目は、未来を変えようと奔走した。
三回目は、君が死ぬ日に全てを思い出した。
四回目は、やっぱり君が好きだった。
五回目は━━━
失うことが怖くて、そもそも君のこと自体を僕の中から消してしまおうと思ったことだってある。死ななければ、時間は戻らないから。
君を忘れようとして、頑張って大人になって、でもやっぱり忘れられなくて町中で君を見た。大人になって死んでいない君を。
その時、やっと本当の彼女の死因は自分であることに気が付いた。僕が関わっているから、君が死ぬ。
僕以外の男と、腕を組んで、幸せになった彼女が僕の横をすり抜ける。勿論彼女は僕を知らないんだから、当たり前だ。
この世界で、僕と彼女は出会っていない。
彼女の名前もマティではなかった。
紛れもなく彼女なのに、僕ではない誰かと幸せになっている。僕は、こんなに君が好きで、君が思うよりずっと君のことを知っているのに。
そう思ったら、苦しくて悲しくて言葉には出来ないような気持ちになった。グツグツと魔女の釜のようなドロリとした感情が僕を支配した。
その場で彼女を殺して、自分も死んだ。
その世界で、マティを僕が殺した。
時間を戻る度に変わる僕の能力。
君が死んで100回目。
やっと、やっと、幸せになれる。
静かに涙を流しながら、ただじっとマティを見つめた。彼女の命が終わりを迎えようとしている。何度も見てもこれには慣れなくて、気を抜けば後を追って死んでしまいたい衝動に駈られる。
彼女は最期に必ずこう言う。
『また会おう』
100回目になってやっと意味が分かったかもしれない。マティは泣きながらその言葉を溢し、ゆっくりと目を閉じて100回目の生を終えた。
「マティ、君と僕を殺すこの世界にお別れしよう」
冷たくなっていくマティの頭を抱えて独り心地で呟いた。
「君と僕を幸せにしない世界なんて、捨ててしまおうよ」
君が死んで100回目。
これが僕の最期の能力。
「"転生"」
掻き切った首から僕の血が飛び出した。
・・・・。。。
私は、産まれたときから人と関わるのが苦手だったんだと思う。小学校四年生にして、友達は0だった。
思えば、幼稚園でも誰かと遊んだ記憶がない。外で遊ぶのは別に好きじゃない。だからと言っておままごとも楽しそうに思えなかった。
気がつけば両親に心配されて、申し訳なくなった。申し訳ないって気持ちがあるんだから薄情なわけではないんだと思う。
だけど、なんだろう。
この世界って何か足りない気がするのだ。
同級生は私を気味悪がり、教師は妙に悟って捻くれた生徒に戸惑った。唯一救いなのは両親が真剣に私のことを考えてくれていることくらいだろうか。
こんなことを考える時点で普通ではないと自覚している。我ながら、気持ち悪いと思う。
どうしても拭えないこの世界への違和感をどうしたら消せるのだろう。
「今日は皆さんの新しいお友達が来ています」
クラスの担任が声を上げて、ざわざわと煩い教室を静めた。男子はまだヒソヒソと最近覚えた下品な会話を繰り広げ、女子は手紙を回して楽しそうに笑っている。
「どうぞ、入って下さい」
クラスの静かなざわめきは無視をして、先生は"転校生"を呼んだ。
私は転校生を見た瞬間、息が止まった。口を開けて、固まってしまう。
クラスも一瞬静まりかえって、女子が一気に色めき始めた。
転校生は男子だった。
ふわっとした明るい髪に、光を吸い込めば青緑にも見えそうな深い黒目。小学生四年生にしては大人びた雰囲気を持つ美少年だった。
足りなかった物が、やっと手元に戻ってきたような感覚。不思議だ。
じっと少年を見ていると、少年がこちらを向いた。そして、瞳を溢れんばかりに見開いて私を見つめた。
見つめ合って固まる私たちをクラスメイトが注目し始める。女子からは嫉妬の目。男子からは揶揄の目。
そして少年が固まって動けない私の席の前に来て、にっこりと笑った。
「私たち、会ったこと……ある?」
喉が渇いて、思ったよりも小さな声が出た。
少年はまた瞠目して、それから微笑む。
「どうだろうね? マティ」
彼もまた、誰にも聞こえないような小さな声で答えた。マティと呼ばれた瞬間心臓が跳ねる。
私はマティなんて外国人みたいな名前ではないのに、自分が呼ばれたように感じた。
「僕は流川零音。君は?」
「わた、私は、一茉海」
れお。彼はれおと言うらしい。
漢字は難しくて、分からなかった。
「へぇ、まなみって海って字が入ってるんだ」
私の教科書の裏に書いてある名前を見て、れおは楽しそうに笑う。転校生である彼は確実に担任もクラスも無視をしてこの空間に私しかいないように話している。
「る、流川くん、自己紹介を……」
先生が戸惑ったように目をさまよわせた。れおも今気付いたようにあぁ、と顔を上げて綺麗な作り笑顔を披露した。
「僕は流川零音。年は10歳。好きな食べ物は辛い物。茉海としか仲良くするつもりはありません。よろしく」
ぶっきらぼうにも取れる挨拶をしてから、また私の方に向き直った。
女子は嫉妬を燃えさせているものの、興味を無くしたようにヒソヒソと陰口を叩き出した。男子は「キスしろ! キースッ!」と喧しい。
「やっと会えたね」
彼は私にそう言った。
私はれおと会ったことなんて無い。流川なんて名字は最近隣に引っ越してきた家族がそんな名前だった気がするだけで、知らなかったし、零音なんて綺麗な響きの名前も聞いたことがない。
会ったことなんてあるはずがないのに。
彼の屈託の無い笑顔を見ていたら、私は自然と頷いてしまっていた。