チャプター1-1
物心ついた頃から絵を描くのが大好きだった。動物、昆虫、電車や車、好きなヒーローにロボット等、それらを好きなように描くのが堪らなく楽しくて、ただ無邪気に描いていた。
その気持ちが僕の人生を大きく左右するとも知らずに。
きっかけは保育園の行事で動物園に行き、二頭のツキノワグマを見た時だった。その二頭は双子のように仲良くじゃれあっているのを見て、胸が熱くなった。生まれて始めて心を惹かれた。どうしてそこまでの気持ちを抱いたのかは今でもよく分からないが、特別な光景──まるでスポットライトを当てられ、キラキラしているみたいに見えたのは確かだった。
保育園で動物園の思い出を描く事になった時、僕は迷わずあのツキノワグマ達を描いた。別に、頑張る必要なんてないのに一生懸命に取り組み、普段は使わない絵の具で着色だってした。けど、出来上がった作品は何とも言えない子どもの落書き。それでも当時の僕からするとよく出来たと手ごたえを感じる自慢の作品だった。
それを眺めていると先生に『上手だね』と褒めてもらえた。それが嬉しくて、益々絵を描くのが好きになって、のめり込んでいった。
来る日も、来る日も。描いて、描いて、描いて、描いて。
その思いはとどまる事を知らず、母親の誕生日に絵を描いてプレゼントした。すると、母親は大喜び。また自分の絵を褒めてもらえて、すごく嬉しかった。
それ以来、色んな人の為に絵を描いてあげるようになり──次第に、世の中にはキラキラしたものがたくさんあって、それを誰かに伝えるのは素敵な事だと思うようになっていた。
そして、出会ったんだ。公園で。夕陽に照らされ、キラキラ輝く──に。だから、僕は──。
✳︎
──ガァーッ、ガァーッ、ガァーッ!
部屋中にスマホのアラーム音が鳴り響く。
まだ瞼が重くぼんやりとした感覚に支配されたままスマホを手に取り、アラームを停止させる。
「まだ……八時じゃん……。 あー、もう……」
僕としては二度寝をしたいところだが、その気持ちに反してどんどん思考がクリアになっていく。こうなると諦めて起きるしかない。
「ん、んん……っ」
完全に目を覚ます為に目一杯体を伸ばすと、ポキポキと気持ちの良い音が鳴る。しかし、残念ながら寝覚めは最悪だった。
「また、か……」
どうやら先程まで自分が見ていたダイジェスト映画は夢だったらしい。
幼い頃、絵を描くのが好きだった自分。それを夢で見てしまうのは、昔からよくあるので大した事じゃない。ただ公園の出来事まで見るのは絵を描くのをやめたくなった時だけだ。
「はぁ……」
つい大きなため息をついてしまう。
ため息をすると幸せが逃げていくなんて言われているが、ため息をする事自体は体に良いらしい。ストレスを抱えていると自律神経系が乱れるのでそれ整えるとか何とかで。つまり、僕は健康の為にため息ついている。でも、それはため息をつかないといけないような悩みがある訳で。
「いたちごっこだな」
僕の悩みと同じだ。
中学を卒業して、ようやく悩みの種から解放されたと思っていたのに、高校生になって早々新しい悩みの種が出来てしまった。何ともツイていない。もし不幸自慢がオリンピックの競技として認められたら日本代表に選抜されてしまうレベルだ。そればかりかストレスで髪が真っ白になって……。
「せっかくのノンストレスに生きよう計画が台無しだ」
我ながらつまらないジョーク過ぎて欠伸が出る。
ところで、どうしてこんなにも朝早くにアラームが鳴ったのだろうか。今日は日曜日で朝早くに起きて出かける予定はない。なんならアラームを設定した覚えもない。
──グゥ。
腹の虫が盛大に鳴く。
ここで考えこんでいたってどうしようもないか。とりあえず、下へ行こう。
まだ少し眠気が残っているせいか、おぼつかない足取りで階段を降りる。そして、洗面所で顔を洗い、歯磨きを終え、清々しい気持ちでリビングのドアを開けたその時、
──ピーン、ポーンッ!
インターホンが鳴った。
リビングから玄関までは目と鼻の先。なので、母さんに『僕が出る』と言って、玄関へ向かう。
「はい。 どちら様で──っ!?」
玄関のドアを開けると予想外の光景に言葉を失ってしまった。
僕の視界に飛び込んできたのは、ぎこちない笑顔をしたセーラー服の少女。見たところ歳は十歳くらい。背は僕の胸元よりやや低いので大体百四十センチ前後といったところか。少し丸みを帯びた輪郭、少女特有のあどけなさのある顔に、とろんとした瞳。髪型は毛先が肩にかかりそうなぐらいの長さのボブヘアーで、横の髪をヘアピンでとめ、左耳を出していた。前髪は目にかからないよう眉の少し下で合わせて整えている。そして、朝陽に照らされた黒髪は白く輝いていた。
何だろう、この胸の高揚感は……この子の髪がきちんと手入れされていて綺麗だからだろうか。それとも、この子の黒髪が僕の好みにベストマッチするせいだろうか。
いや、どっちも髪じゃないか。全く、相当舞い上がってるな。最っ高だ!
……待て、落ち着け。今は髪に興奮してる場合じゃなくて。
「え、えーと……」
だれ。
ダレ?
いや、本当に誰なのっ⁉︎
いくら宇宙人とでも仲良くなれるビックバン級のコミュ力を持つ母さんでもこんな小さなお友達はいないはず。勿論、その血を受け継いでいる僕にもいない。
となると冷静にこの子が我が家のインターホンを鳴らす可能性を考えれば……この辺りに住む友達の家と間違えたと考えるのが自然だろう。ここは住宅地で家がたくさんある。もし初めて行くのであれば隣の家と間違えても不思議じゃない。つまり、ただ家を間違えただけ。そうに違いない。
「もしかして」
「あ、あの、ここ黒川さんのお家ですよね?」
「……はい、そうです」
瞬時に僕の予想は公開領域を確認しトップ解決出来ると信じて勢いよくドローしたTCGプレイヤーのように儚く散る。信じ難い話だが、この子は家を間違えた訳ではなく、ちゃんと我が家に用があって来たようだ。
まさか、本当に母さんの……いや、そんなバカな……。
「し、しし……ん……い……く、黒川さんの、息子さんっ……ですよね?」
「え。 そうだけど」
浅草名物堅焼き煎餅のようにカチカチの表情で、たどたどしく尋ねてくる少女。声が小さくて『川さんの、息子さん』しか聞き取れなかったが、恐らくそれは僕の事だと思う。うちはひとりっ子だし、あの両親に限って隠し子はあり得ない。
だから、そうだと答えたが、どうしてそんな事を聞いてきたのだろうか。
僕を知ってて……用がある? もしかしなくても前にどこかで会ってるとか? でも、僕には全く心当たりはないし……。
とりあえず、一人で考え込んでも埒が明かないので事情を聞こうとしたその時、
「あ、あの……わたしをあなたの妹にしてくださいっ!」
頰を真っ赤に染めた少女がとんでもない爆弾発言をしてきた。それはもうとびっきりとんでもないやつを。
「…………」
言葉が出てこない。
僕としては必死に口を動かしているつもりだが、餌を欲しがる鯉の如くパクパクしてしまう。いやはや、こんなにも衝撃を受けたのはお雑煮に小豆を入れるのは一般的じゃないと知った時以来だっ!!
「ちょ、ちょっと待っててね!」
一旦、ドアを閉め、力一杯頰をつねる。よし、バッチリ痛い!
とりあえず、気持ちを落ち着けるために深呼吸もしておく。そして、しばらく時間をおいてからドアを開けると、僕好み綺麗な黒髪を携えた少女の幻はいなくなって──
「え、えっとぉ……?」
いなかった。
どうやら完全に目は覚めているらしい。
「ごめんね。 最近耳が遠くて……さっきの、もう一回言ってもらっていいかな?」
「へっ!? あ、その……はい……。 わ、わわ、わたしを……あなたの! 妹にしてくださいっ!」
──バタンッ!
少女には悪いが、反射でドアを閉めてしまった。
誠に信じ難いが、聞き間違いでも僕の妄想でもなく、あの子は『妹にしてください』とお願いしてきた。全くもって意味──いや、真意が分からない。一体、何の狙いがあってこんな事を……。しかも、何で妹なんだ……彼女とか、お嫁さんにしてくださいならまだ分からなくもない。それならマンガやアニメで見た事あるし、僕って意外とモテるんだ。と自惚れで済ませれる。ギリギリ。
でも、『妹にしてください』はどう考えてもおかしいだろ! 何があったらそんなお願いをされるんだ! かの有名な桃園の誓いじゃあるまいし、あり得ないよ、普通……悪い冗談としか思えない……。
「そうか」
再度、ドアを開けると少女は涙目になっていた。
「ごめんね。 ちょっと驚いちゃって」
「い゛、いえ……大丈夫、ぇす……」
「それでさ……とりあえず、中で話そうか」
これは第一級緊急事態。つまり、家族会議を開くしかないじゃないか……っ!