第一部 二章 カカオ80%のチョコレート
カカオ80%のチョコレート
「ただいまー」
「おそかったじゃないかぁ! どこ行ってたんだこの愚妹ぃぃ!」
時刻は夕暮れ。俺がコントローラーを握ってから優に四時間は経っていた。
「心配したんだからぁ」
「いや、鬱陶しいから!」
半泣きで抱きつく俺。そんな兄を、身をよじって離そうとする妹。
マジで心配した。本気で何かあったかと思った。
変わり果てた妹の姿を何回も想像して。初のいない日常を妙にリアルに想像してしまって。今日の晩御飯にカレーが食べられないことを危惧して。心配で心配で。
やり始めたゲームが二周目に突入するくらいには超心配した。
「心配して枕とかちょー濡れたんだから後で洗濯してねぇぇ」
「心配してないじゃん、寝ようとしてんじゃん」
「はなしてよーはなれてよー」と、体ごと腕をブンブン横に振る初の動きが面白くって。しばらく、くっついていたのち。お望み通り解放して差し上げる。
「どこ行ってたんだよー」
レジ袋を置いて、スニーカーを脱いで。
ちょっと屈んだ時に胸元が見えそうだったから今度注意してやろうと一瞬よぎって。ふと脇に置かれたレジ袋を見ると、透けて中にカカオ80%のチョコレートが見えた。
この野郎、人の英夫で無駄遣いしやがって。そんなばっちいものを買ったのか。俺はホワイトチョコ以外は食べられないのに。
「いやー駅前でサクラちゃんたちに会ってさー。ばったりだよばったり。喫茶店でついつい話し込んじゃった」
てへっ、と肩をあげてみせる初。
それより今の会話で、大丈夫か妹、お前サクラちゃんたちに仲間外れにされてたんじゃないのか? と思考してしまうお兄ちゃんは根暗なのだろうか。「プリクラも撮ったんだよー」と手渡す彼女の瞳に陰りがないか注視する。
ふわふわした空間に写る女子小学生たち。その数四人。加工された写真の中でもちろん初が一番かわゆい。言わずもがな実物の方が何倍もきゃわいい。
これだけ見ても安心はできない。イマドキ女子にとって嫌な女とプリクラを一緒に撮ることなんてお茶の子さいさい、朝飯前。造作もないはずだ。
男子にとって女子とCIAは敵に回してはいけないものトップ2。
何枚かの枠に分けられたプリクラ。全員で写っている一枚。巻き髪の女の子の下に赤い文字で「サクラっち」と書かれてあった。
なるほどこいつが我が妹をいじめる主犯格か。確かにキツそうな性格してますわ。
真っ黒ですわ、完全に。これは一線を超えている人間の目ですわ。
顔すら曖昧にぼやけるじっちゃんの名にかけて。サクラっちを捕まえなくては。成敗してやる。
「初ちゃん、今度みんなで遊ぶ機会があったらお兄ちゃんも連れってね」
「無理」
あっさりとフられてしまった。
まぁでも、喫茶店で何時間も話すのなら心配することなく普通に仲がいいのだろうけど。無駄な心配に終わるといいけれど。
初はどこに出しても自慢できる妹だ。人当たりもいい。けれどそれを妬んでいる人間がいてもおかしくない、こんな可愛い子だ。反感を勝っても当然。
加えてこれから中学生。人間関係もややこしくなってくるだろう。来たる時に備えて初を守らなければ。兄として。
よし、そうと決まればまずは腹ごしらえだ。戦ができん。うおおおおおおおお。
「はじめー、ハラヘッター。めしーはやくー」
「はいはい、今からやるから」
慣れた手つきで水色のエプロンを背中で結び、台所に立つ妹を見送り、俺は再びコントローラーを握った。
ゲームに夢中になっていると、時が経つのは早く。
「できたよー」
後ろで初の声がして。妹の声が聞こえて。一時停止し、食卓へ。
えっへん、とない胸を張る初。いや、女の子だから「無い」っていうのはおかしいな。ある。確かにそこにはお胸は存在する。そう、適切には「平らな胸」わずかな違いが大事。ここ重要。
絶望的に平らな上半身を張る。はじめちゃん。
得意げな、自慢げな表情を浮かべて。その前に二人分のカレーライス。
カレーの匂いの正体は一体なんなのだろう。考えたこともなかったけれど。トロけたニンジンとか、大きなじゃがいもとか、飴色のたまねぎとか。それがスパイスというやつなら、うん、スパイスが、俺の食欲を掻きたてた。急に感じる空腹感。のせいか、余計に目の前のカレーが黄金色に輝いて見える。
加えていつにも増してその香りも強めである。
初のやつ、今日はいつにも増して張り切っているな。お兄ちゃんを待たせたお詫びのつもりだろうか。
「いただきます」
と、二人揃ってお手手のしわとしわを合わせてパチン、食卓に響く幸せの音。
二人だけだが、幸福感の満ちた食卓だ。
銀のスプーンをルーに優しく沈め、ライスと一緒に持ち上げる。自分の右手がショベルカーにでもなった気分。
初がいつにも増して腕によりをかけて作った一品。この一口次第で遅れてきたことも許してやるか。
笑顔が犬顔、と褒められてはいない言葉をよくかけられる俺だが、実は猫舌。口の前で手を止めてフーフーと息を吹きかける。眼前まできて、スパイスの香りを鼻腔いっぱいに味わう。いただきます。ともう一度心で唱えてから口に運ぶ。果たして、そのお味は。
「……ん、初。これ、いつもより……」
少女は正面にちょこんと座って。
右手はまだお膝の上。食器にすら伸びていない。左手はなぜか、氷がひしめく背の高いコップにかかっている。
ご馳走に夢中だったから顔なんて見ていなかったけど、召し上がれ。と言っていた笑顔が次第、霞んでいく。その表情は少し神妙。眉をひそめて。
まるでこちらの反応を伺っているような。
楽しい食卓にぴしゃり、ヒビが入って。顎は咀嚼運動をやめて。初の顔が「まずい」と「やっぱり」を浮かべたのがスローモーションで見えた。




