第一部 二章 初めての春
第一部 二章 初めての春
「……マ、レ……、レン…………レンマ、………………レンマあああ!」
耳元で、しかも大声で叫ばれたら起きるしかない。「うおおわああ」なんて素っ頓狂な声を上げてしまうのもしょうがない。
ベッドで体を伸ばしている俺。すぐそばに少女。
横に立ち、こちらを見おろし覗き込んでいる。その姿勢に伴って結んだ黒髪がさらりと垂れた。腰に手を当てて、少し頬なんて膨らませて。
「おはようレンマぁぁ! あ。いけない、いけない。おはようお兄ちゃん。やっと起きた」
もう一度部屋に響く叫び声。
うるさいうるさい、起きたてホヤホヤの頭には刺激が強いから。
一体誰だ、この近所迷惑なやつ。
一つ屋根の下に少女。
残念ながら俺にガールフレンドはいないから、考えられるとしたら肉親か。……ってなんだ妹じゃないか。起きたての脳みそと、霞む視界のせいで判別できなかった。
「おはよう妹ちゃん、そしてまた明日。」
「こら、寝るなぁ!」
キーン響く声。ああ、この声。やっぱり妹だ。
まず耳を押さえて、次に目をこすってから少女を見上げる。そこには妹がいた。
ぷんと膨らんだ赤い頬、綺麗な肌。うん、俺の妹だ。
キリッと上がった、鋭い目尻。長いまつげは上を向いている。整った眉と赤い唇。背も低く華奢ながらも出ているところはしっかりと出ている体の女性。
ああ、俺の妹だ…………って、ん? んん? はへ?
「だっ……だ、誰だお前はぁぁ!」
見知らぬ女がいる。俺の家に。俺の部屋に。俺の横に。
勢いよく上半身を起こして。恐怖のあまり反射的に掛け布団を抱きしめる。
俺の妹は……俺の、妹は。
「俺の妹のほっぺは桃色で、童顔で、もっとこう、誰が見ても小学生、そう、真の小学生って感じで。丸い顔で眉毛なんか気にしてなくて、ぼさっとしてるけど、特に気にもならないしむしろそれが自然で、飾り気が無くて。ちょっとおでこにニキビがあって、でもそれは人に不快を与えるとかじゃなくて、むしろ青春の足跡っていうかなんていうか。そ、そう! 好印象! で、くりくりの瞳と薄い唇。みずみずしくて若々しくて。こんな、こんなキリッとしていない普通の小学生なんだよ。俺の妹は。そして決定的に違うのは……」
矢継ぎ早に話したから、少し疲れた。すぅっと空気を吸って、大きな声で目前の妹もどきに言い放つ。
「俺の妹の胸はまだつるぺったんだ!」
「化粧したんだよ! そして最後の一言はよけいだっ!」
効果音で表すならぺちっ。いや、ぴこっ?
小さい手のひらで頭を叩かれる。暴力も妹級。数歩下がって、胸の前で腕を交差し自分の肩を抱いて、こちらを睨む。ああ、その蔑んだ視線。一部の人にとってはご褒美だから気をつけてね? 万札積まれてもそう言う人に付いて言っちゃダメよ?
少し潤んだ瞳。
噛みしめる唇。
小さな声で漏れる「おにいちゃんのばか」。
その姿はどんなに化粧で厚くしても、どんなに嘘で胸を包んでも、間違いなく幼い俺の妹だった。
ああ、そうかこの子は。
この子はこういう時期だった。
性は同じく美藤、名は初。
「美藤初」は俺の唯一の妹だ。年齢は12。学年は小学六年生。だけどそれはあと少し。五月生まれの初はあと一ヶ月とちょっとで13になるし、あした春休みが明けたら中学校に進級する。
そう。ただ今、季節は春。出会いの春。別れの春。そして、始まりの春。
始まりの春に生まれたから「初」という意味が込められた名前。
そんな彼女は現在、思う春の季節ど真ん中。まぁ、年齢的には俺もだけれど。
「はじ……ごほん、私、もうちゅーがくせいだから」
が、最近の口グセ。慣れない「私」なんて一人称を使って。オトナになりたいお年頃。誰しもが通る道。けれどこの頃の初はそれが如実だ。
先日の話をさせてほしい。
「休みだし某夢の国に行こうか」
食い入るように画面を見つめる妹に提案した。
リビングのテレビからは情報番組が流れていて、今まさに夢の国の情報を美藤家宅にお届けしていた。と言っても、家には両親はおらず兄と妹のみ。その兄もたった今二階の自室から降りてきたところなので、実際には初だけに届いていた。いや、彼女を洗脳していた。
36インチが映す色とりどりの光景。クッションをぎゅうっと抱き締める初。
聞き間違いじゃなければ「ぱああ」と感嘆の声を発していたような。
そんな姿を見ていると、自然と先ほどのセリフが口から漏れて出た。
お兄ちゃんの粋な計らいに目を輝かせる妹。こくこくこくっ、と凄い勢いで首を縦に振る妹。
ここまではいつも通り。小学生のはじめちゃんだった。
「やったぁ! ありがとうおにいちゃん! はじめ行くの久しぶりだぁ。ランド行こうランド。ポップコーンいっぱい食べて、耳つけて、それからそれから………………あっ」
両手をぱちぱち胸の前で合わせたり、わーいとバンザイしていた初だったが一瞬でその動きが止まった。
そして俯く。
どうやら小学生はじめちゃんから、新中学生ハジメちゃんにモードチェンジしたらしい。
その表情は伺い知れない。何かをブツブツ呟いて、そして。
「……ランドじゃなくてシー」
「へ?」
「ランドじゃなくてシィー!」
その表情はさすがハジメちゃん。大人の女性。
精悍な顔つきで一点の迷いもないようだった。
「急にどした? 今まで初、ランドの方が好きだったじゃん。ランドのパレード、好きだろ?」
あのオスネズミとその仲間のメスネズミの。とまでは言わなかった。
「ショー見るの」
「あ?」
「私はシーでショーを見るのです。以上」
そう言い残すとシャンプーのCMよろしく、ハジメ姐さんは髪をかき上げ自室へと去っていったのであった。その後ろ姿はモコモコのパジャマから背中がざっくり開いたドレスに変わっていた、ような気がした。
信じるか信じないかはあなた次第です。ちゃんちゃん。
どうやら彼女の脳内では、ランドは小学生。シーは中学生という結論が出たらしい。うーん、そういう風潮が世間的にあるのか。
まぁ迎えた当日。目はるんるん、足どりはらんらん。食べ物だの買い物だのショーだのアトラクションだのが詰まった園内をはしゃぐ姿は、今までと変わらぬ俺の妹だった。いつもの彼女がそこにはいた。
ただ帰り際、疲れているであろうに、電車で幼子に席を譲った姿は、立派な大人だったよ。お兄ちゃんちょっち感動したよ。
一方の俺は座り続けたんですけどね!
何も無理しなくたって、強がらなくたって、そういったところで成長は十分伝わっているのに。
兄の心妹知らず。先日の大人げな姿も何処へ。ベッドの淵に腰かけ俺の寝癖をぴょーんと伸ばして遊んでいた。




