第一部 三章 「シーシャの煙に包まれて」
自分の席に着席して早々、「あんたは腐った目をしているわね」と言われたことが皆さんあるだろうか。
俺は今までそんな経験したことがなかったので、只今が初体験だ。
もしも口から放たれた言葉が視覚化できるのであれば、隣の席の女の子––うららの口から出た一言は、きっと鋭利な刃物になって俺の左胸に刺さっているのだろう。
第一、そう言って睨め付ける本人の双眸も褒められたものではなかった。
「ああ、ごめん。俺目つきに関しては煽り耐性あるから。全然効かないから」
フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く、狂気を常備するとなりの怪物さん。
「ってかお前。苗字なんていうんだよ。みょーじ。なんて読むんだアレ。せ、せい……」
「ひじりもとよ。ひ、じ、り、も、と! りぴぃーとあひゅらーみー?」
変に鼻にかけてリピートアフターミーと口にするうららはどことなく胡散臭く、アホっぽく、ムカついた。
お前ゼッテー英語苦手だろ。
発音良さそうにして人前で喋るのめちゃくちゃイタいぞ。と、心の中だけで留めておく。
おくびにも出さない俺カッケー。マジ偉い。
美藤錬真はマジ偉い。はいっ、りぴぃーとあひゅらーみー?
「へーーあの聖ってひじりって読むのか! でもまぁ言い辛いから––––」
「うららって呼んだら殴るから」
こちらが言い終わる前に食い気味で提案を却下される。
さっきから度々そうだ。一方的に物申すのは彼女の癖なのか。
「だいたいじょーよーカンジでしょ。聖くらい」
よくわかんないけど。と小声で付け足す。なんだろう、もしかして、もしかしてだけれど。彼女は少し頭が悪いのかな。
「……可愛げのない奴」
「うっさい」
そこで会話にピリオドが打たれる。
話の最中うら……聖本とは一度も目が合わなかった。
彼女の横顔。いや顔だけでなく容姿全体。それは驚くほどに整っていた。
欧州人のようにパーツの一つ一つは鋭くもあるが、日本人にしかない丸みがあった。日本顔の最終形みたいな。けれど体型はスラリと長い手足、然るべきところにある膨らみ。
なにより真白な肌からはハリウッド映画に出てくるヒロインを想起させる。
その見た目は女性の求める美の終局地に位置しているような。自分が見てきた中で聖本は、間違いなく一番の美貌の持ち主だった。街を歩いたら誰もが二度見してしまうだろう。
芸能人を生で見たことは、数年前、近所の大学にリズムネタで一世を風靡していた芸人しかなく、いわゆるモデルだの女優だのを目にしたことはないのだけど、こんな感じなのだろうと思った。
それこそ彼女が一歩外を歩いたら、スカウトとかナンパとか凄そうだな。ああ、でもここまで整った見た目をしていると逆に、「本物すぎて」話しかけられないのかもしれない。じゃあ偽物はなんなのかというと、言った本人も最適解が分からないのだけれど。恐れ多いというか、なんというか。
容姿端麗とか眉目秀麗とか八方美人とか。まぁ最後のは違うけれど、この世のあらゆる美人を例える四字熟語が彼女には当てはまった。
そんな聖本を、例えば比喩で「女王」と呼ぶなら、その頭に付いて修飾するのは「氷の」だろう。先ほどからの目つきとか、態度とか。
そしてなにより彼女の放つオーラは冷たく、寒々しく。
麗らかという名前とは正反対で、それがまた彼女の持つ容姿と相まってなんとも近寄りがたいベールみたいなものを纏まとっていた。
そんな女の子だ。聖本麗は。少なくとも俺は、そういう印象を受けた。
そして美藤錬真は元来、異性との会話があまり得意ではない男の子だ。
それは自分でも自覚している。
女性に興味がないという訳ではない。けれど、なんだろうか。トラブルに巻き込まれたとか、過去にトラウマがあるとか、そういうのではない。
ただ単に同性の、男子と話している方が気楽なんだ。
龍太郎とか、中学の時はその周りにいた何人かと、放課後ファミレスでドリンクバーだけで粘ったり、ゲーセンに入り浸ったりする方が、楽しかった。日常的に会話する女性は、それこそ母親と妹と千和子くらいだ。
まぁ千和子はほとんど家族みたいなものだから、気を遣うこともなく一緒にいれる稀有な存在と言える。
二月十四日にチョコを貰うのもその三人からだ。
男女共同参画社会と言われる昨今、いつかは治さなくてはと思うのだけれど。まぁ、ね。
そんな、そういう人間なんだ、俺は。
だから自分でも驚いていた。
初対面の女の子をいきなり下の名前で呼ぼうとしたり、可愛げがない、なんて小馬鹿にしたり。まるで旧知の仲間と話すような口調の自分に。
ましてやそれが、今まで見たこともないような美しく、クラスの、いや学年のトップカーストにいるような、可愛い女の子に対してだなんて。
「らしくないな」
ぽしょり、思わず口からこぼれた。
前方で音。今日何度目だろう、宇佐美先生は出席簿を二回、トントンと教卓に叩いた。
「お疲れ様。この後は一旦お昼休憩です。隣の校舎にある一階の食堂が本日営業しているから、お弁当を持ってきていない人は利用するといいでしょう。そのあと、少し時間が空いてしまうけど、十一時三十分にまたここに再集合するように。今後の予定について、それから皆さんに色々記入してもらいたい書類があります。教室を掃除する班も今日中に決めてしまいましょうか。後は、まぁ諸々。やることはあるので、とにかく十一時三十分に、またこの教室でね」
くれぐれも遅刻しないように。と、最後に宇佐美先生はこちらを睥睨した。
体が火照り、熱が込み上げ、ああ、と居た堪れなくなっていると「ですって」と隣で聖本が油を注ぐ。
「うるせ」そう言って誇ったような顔でバカにする彼女から逃げるように椅子を引き、立ち上がる。ほんと、可愛げのない女だ。
龍太郎と飯に行こう。
そう思い立ち上がったまま横目で彼の方を見やると、左前方の彼もこちらに気づき立ち上がる。
そのまま歩き出そうとした時、隣で「だいたいあんたは」と声を掛けられる。
なんだよ、と聖本の方を向く。
視界の端で龍太郎が、こちらに向かってくるのが見えた。「その腐ってる目を見たら分かるけど」一度大きなため息をつく。「あーはいはい。目のことに関してはもう言われ慣れてるから。もう、そーゆーのいいから」とウンウン頷いて、ひらひら片手を振って見せる。
こちらに進んでいた龍太郎の足が止まり、どこか自分と違う方に体が向き直った。
どうしたのだろう。
視界の隅に映る彼が気になり、聖本から視線を外そうとした時だった。
「あんたの憧れってなんなの」
虚を、衝かれたような。
そんな思いだった。
動かそうと思った首が、固まる。
さすが氷の女王。一瞬で氷漬けされたみたいに、彼女から目を離すことができない。
艶やかな唇が震え、続きの言葉を紡ごうとする。
やばい、と反射的に思った。
野生の動物が本能的に自らの危機を察知するみたいに、それを聞いてしまったらやばい、と。これ以上この場に、聖本麗の前にいたら俺のなかの「何か」が決壊して、倒壊して、崩壊してしまう。
けれど立ち去ろうと思っても、自分の頭と手足の先とを結ぶ糸のようなものがあるとしたら、それがプッツリ切れてしまったようで。体は言うことを聞いてくれなかった。
「さっきからぼーっとしてるし」
してたのか。ぼーっとしてたのか、俺。
「そんなこと……」
そんなこと、なんなのだろう。
何か言わなきゃと思って口から出た言葉はあまりに意味がなかった。
ああ、誰か助けてくれ。
右隣でさっきから、仲間になりたそうな目でこちらを見ていたヒョロメガネ君でもいい。
錬真さん、ナンバリングタイトルだけじゃなくてジョーカーも結構好きだから! 差別しないからおいで?
他の席に比べると、若干、気持ち机一個ぶん距離を置いて座る前の席の女の子、あなたでもいいです。ほんとは恥ずかしいんだよね? 話したいんだよね? 錬真さん分かってるから。今、今チャンスだから!
心の中で助けを乞う。
けれど、周りからの返事はない、どころか気配も感じない。うっすら視界の端で捉えていた龍太郎さえも。
ああ、まただ。
またこの世界に、俺と彼女以外いなくなってしまった。
聖本は無慈悲に続ける。
「あんたみたいなのを見てると」
そこで一度途切れる。そこからまた口が開くまで、見つめる俺には何十分、何時間の時が過ぎた気がした。
風が吹く。冷たい風だ。足元は氷上。夜みたいに辺りは暗い。彼女と俺に照明が当てられる。
「イライラするのよ」
鼻から呼吸して胃るのか、口から呼吸しているのか分からない。
体中の毛穴が開いて、そこから汗が噴き出す。
これまでにない疲労感が押し寄せてきて、その場に崩れてしまいそうになる。
けれど氷の女王はそれすら、倒れ込むことすら許さない。
イライラする、言った聖本の双眸には怒気が満ちていた。
一挙手一投足の動きを封じられ、彼女の前に磔にされる。
その一言一言が、ゆっくりと確実に俺の体を刺していく。
立ちくらみがして目眩がして。
自分の心音が教室中に響いているみたいだ。
自分にもどうしていいのか分からない。この状況を、この事態を。
許してください。跪こうと思っても、その足は動かず懺悔も出来ない。
ふざけるな。一方的な彼女の頬を、いっそ殴ってしまおうか。だが今の俺には拳を握りしめる自由もない。
ああ、誰か、助けてくれ。
自分ではもう、どうしようもできないから。
すると、願いは通じて。
ぽんと左肩にぬくもり。




