第一部 二章 ちなみに「思春」は中国語
初の顔が「まずい」と「やっぱり」を浮かべたのがスローモーションで見えた。
「げほっ、なんだこれ、辛えよ! 辛すぎだろ!」
辛味は味覚ではなく痛覚で感じるもの。
どこかで聞いたそんな言葉が走馬灯のようによぎって、むせる。
あまりの辛さに。舌に広がり喉で感じる痛みに。胸とその裏側。背中のあたりが熱くなり、汗がじんわり。掴んでいたスプーンを雑に置いて、右手はオアシスを求めコップへ伸びる。左手で、意味もなく顔を扇ぐ。
「え。そんなに……?」
「そんなに!」
ごくり。唾を飲む初。あたふたする兄を捉えていた双眸が、そっと眼下のカレーへ移る。ぱちくり一度、まばたきをして。
「……ばっかみたい。中辛じゃん、これ」
中学時代の自分を誇れる人は、何人くらいいるだろうか。たくさんの初めてを経験する時期。少年少女、子供から。大人になるための準備期間。変遷期。アイデンティティーと書いて「自己同一性」と読む、その確立。
輝かしい青春と恥ずかしい思春期。悪ぶりたい、格好つけたい、見栄をはりたい。色々な思い、欲望、願望、希望が重なって。いやぶつかって。夢と現実。どちらの世界でも生きる。
ちなみに「思春」は中国語。
なんてどうでもいいか。
それ故に、思い返すと赤面するような。掘り返されると死にたくなるような。思想、言動をしてしまう。時間が経って振り返ると、「自分は本当にヒトなのだろうか」と疑いたくなるような謎めいた迷走期。
いわゆる黒歴史。
その宝庫ともいえる中学時代。恥ずかしいことだけど恥ずかしがることではない、人生の通過儀礼。
悩める中学生がここにも一人。
まぁ、厳密にはまだ小学生なんだけれど。
「中辛って、お前、いっつも甘口じゃんか! お兄ちゃん甘口しか食べられないの知ってるだろ!」
そう、俺は甘口しか食べられない。
辛いの苦手。しかも、今はよその小洒落た洋食店とかで食べるのではなく安心安全の美藤家産のカレーだと。そう信じ込んでいたところ不意打ちを食らったものだから、余計に辛く感じる。
「はぁ。お兄ちゃんもう高校生でしょ? 子供みたい」
「てかお前も食えんのか? 中辛」
ん? あれれ。はじめちゃんのようすが……。
「………………食べれるし」
出、出た~~~~。
出ました出ました。呼ばれて飛び出て参上しました。
いや、誰も呼んではねぇけど。
モードチェンジですハジメちゃん。
ははぁ、そうきましたかー。なるほどなるほど。甘口はコドモですか。中辛はオトナですか。そう変換されましたか。
それで今晩のカレーは辛いんですね。お兄ちゃんは食べられない中辛。ハジメさん、私の記憶が正しければあなたも甘口しか食べられなかったと思うのですが。
食べられるんですか。そうですか。すごいですねぇ。尊敬しちゃいますぅ。
ただ、声、震えてますよ?
「へぇ、そうなんだぁぁ」
嗜虐心をそそられて。目の前の妹に。声だけでなく、スプーンを持つ手まで震えている妹に。俺はにんまり口端を歪めて試すような口ぶりをした。兄弟ゲンカは滅多にしない、仲の良い方の我ら兄妹。だけれど、大人気ないけれど。せっかくの夕飯。大好きなカレー。久しぶりの初の手料理。
兄として、人として、一口味わったら「美味しいよ」と言おうと決めていた。
一皿味わったら「ありがとう」と笑顔で伝えようと決めていた。ところにこれだ。別に怒っているとかじゃぁ無い。俺はなかなか寛容なのだ。いつでもどこでも妹ラブなお兄ちゃんに変わりはない。けれど。
「……うぐ、ぐぬぬ……」
すこしからかいたくて。
妹の反応が面白くって。
「どうした? お腹減ってないのか?」
中辛のカレーと対峙する初に意地悪をしてしまう。
妹の瞳は濡れている。潤んでいる。それを隠すようにキッと目尻を釣り上げているが、誰がどうみても涙目。
ちなみにここでのスマートな対応は、「なんだよー食わないんだったら先に食っちまうぞー」とウインクしながら言って目前のカレーを飲み、そそくさと席を立って食卓からログアウトしリビングのゲームにログインする。
例え背後で、初が激辛カレーにチョコとか牛乳とかぶっかけてマイルドにしてから食っていたとしても、振り返ったりしない。
いや、そのカレーめちゃくちゃまずいだろ絶対。
そうしたらいつかきっと「あの時はありがとうございます」と美少女に化けた初が嵐の日にやって来て……って今でも十分なんだけど。色々ご奉仕してくれるのだ。
そういう世界が来るはず。今俺がここで持ち前のスマートさを発揮すれば。
まぁ、絶対にしないけどね。
さぁどうするんだい、初ちゃん。
兄の視線に耐えかねたのか、一度大きく深呼吸をする。吸って吐いて。ぎゅっと一度真一文字に目を閉じて。
きっとお花畑とか、この前のディズニーとか、甘いデパートのケーキとかそういったものを頭に浮かべているのだろう。
そして意を決して、ぱくり。
カレーを乗せた銀のスプーンの先端が、小さい唇の奥に消えていった。
のちに、ぱかりと見開いて。澄ました顔がどんどん崩れて。
「からーーーーーい」と耳をつんざくような絶叫が食卓に響く頃には、俺は自分の行いを後悔して彼女のそばに駆け寄った。