私が尊敬する彼
彼がベランダに出ているのを見つけた。夜も更けた時間帯、蒸し暑くて彼も眠れないのだろうか。私はベランダに近づくでもなく、ただじっと部屋の中から彼の横顔を眺めていた。
彼は煙草を燻らせながら町の景色をぼーっと見つめていた。私は十数年間あの人と一緒にいるが、煙草を吸っているのも、あんなに気の抜けた顔も初めて見る。その姿を見た瞬間はてっきり別人だと本気で思ったくらいだ。そんな風に思った自分がちょっと嫌で、また彼が遠くにいるように感じてしまったことに一抹の不安を覚えた。そして、いつもの彼の姿が頭によぎる。
彼はとてもきっちりしている人間だ。朝は休日でも決まった時間に起きる。身だしなみは人一倍気をつかう。挨拶はちゃんと目を見て笑顔で言う。料理は栄養バランスを細かく考えて作っている。部屋はいつも綺麗。仕事から帰ってきた後でもだらけた仕草をしたところなんて見たことない。自分自身の生活態度についてかなり厳格であることは一目瞭然だ。聞くところによると仕事でも頼りにされる立場にあり評判も良いらしい。私はそんな彼を本気で尊敬している。私のことまでよく目を配っていて、毎日小言を言ってくることには少しうんざりだけど、それくらいは気になるほどの欠点でもない。
そんな完璧だと思えた彼にも実は弱々しい面、情けない面というのがあったんだなと私は初めて気づいた。それは少しだけ残念なような、それでいてどこか安心したような不思議な感覚を私にもたらした。
一人で煙草をふかす彼の雰囲気は完璧とは言いがたく、けれど人間味があるというか、自然体であるように見えた。きっとあの姿が肩書きのない彼個人としての姿なのだろう。
(もしかしたら、私たちの前では立派でいようとか考えていたのかな。)
私も彼のように周りの人から尊敬される人間になりたいと思っていて、そのための努力もしている…つもりだ。彼から小言を言われるようなのでまだまだだが、友人の間では頼られる方だと思う。彼も同じように周囲の人々に対して誠実でいること、自分自身に恥じない生き方をしていくこと、そんなことを心掛けて日々を過ごしているのかもしれない。もともと完璧ではなくて、彼も努力しているからこそ普段の完璧さがあるのだと、今の彼を見ているとそう思える。
なんだか彼に少し近づけた気がして、実際に私は部屋を出てベランダへと歩いていく。ガラっと窓扉を開けると、彼は驚いたようにこちらに顔を向ける。
「ナツメ…なんだ、まだ起きていたのか」
そう言うとポケットから携帯灰皿を取り出して煙草の火を消す。気が緩んでいる時でも、こういうところはやっぱりキチっとしているなあ、と改めて感心する。
「うん、暑くてなかなか寝付けなくて。それより、煙草、吸うんだね。初めて見たよ」
彼は少しばつが悪そうに言う。
「ああ。実は、昔はよく吸っていてね。今は禁煙を心掛けているけど、仕事が忙しかった日とかはつい吸いたくなるんだよ」
そんな彼がちょっぴり新鮮で、つい悪戯心が湧いてくる。
「ふーん、そうなんだ。夜更かししているのも珍しいよね。いつも私にはチクチク注意するけど、あんまり他人のこと言えないじゃない」
私がそうニヤニヤしていると、彼は苦笑いしながら言ってくる。
「耳が痛いな。まあ、僕もまだ精進している身だよ。だからといって間違ったことを言っているつもりはないからな。ナツメが注意されるようなことをするのが悪い。」
「う、それは…そうですけど」
思わぬカウンターを浴び、私は若干目をそらす。やはり、一筋縄ではいかない。
彼はそんな私を見て微笑んで、
「もう遅いから、そろそろ寝室にもどりなさい。明日も早いんだろう。」
そう促してくる。まだ話したいところではあったが、彼の言う通り、明日も早いのだ。しかし、新しい彼の一面が見れたことで良しとしよう。
「はーい」
私は窓扉を開け部屋に入り、閉める前に彼に向き直る。そして、しっかりと目を合わせて微笑んで言う。
「それじゃ、お休みなさい、お父さん」
父も私の目を見て笑顔で応える。
「お休み、ナツメ」