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1.
ようやく取れた夏休みを利用して、温泉地へやってきた。
別に湯に入りたかったってわけでもない。ただ、都会で働いてると、なんとなく田舎へ行きたくなることがある。同じ境遇の人は、わかってくれるんじゃないだろうか。無機質なコンクリートの世界に辟易して、大自然に帰りたくなるんだ。尤も一時的に、だけれどもね。
あんまり予算もないから、適当に同僚のオススメを聞いて、其処に決めた。これが全然有名でもなんでもない、単なる田舎って感じの場所だったんだけど。むしろそれでよかった。僕が求めてるのは、観光名所の絵葉書じゃないんだな。所謂、非日常ってやつさ。
電車を乗り継いで民宿に着いたのは、夜も更けてからだった。超疲れてたから、すぐに布団を敷いてもらってソッコー爆睡したわけだけど。
どういうわけか、やたらと早く目が醒めちゃった。
まだ朝食には時間があったし、特にすることもないわけで。それなら、早朝散歩も悪くないかってね。遙々こんなド田舎まで来たんだし、なるべく元を取らなきゃ損だもの。
で。
僕は、ほんの軽い気持ちで民宿を出たんだよ。
見渡す限りの、畑と田圃。道路なんていっても、舗装されてるのは車が通る中央の一本だけで、それも、乗用車二台が擦れ違うのがやっとって感じだ。時々、脇から木の枝よろしく畦道が伸びていて、緑の稲の合間に、文化財級の民家がポツポツおっ建ってる。トトロ完備してますって感じのロケーション。
辺りは信じられないほど静かで、生活音の一つも聞こえなかった。鳥と蝉、蛙の鳴き声が、やたらに透明な風に混じって運ばれてくるだけ。やあ、さすがに空気が美味しいな。都会じゃ絶対に味わえない、爽やかな気分。これだけでも来た甲斐があったってもんさ。まぁ、住むのは御免だけども。
しかし容赦なく過疎化してるぞ。これが限界集落ってやつ?
見事に誰にも会わないなぁ、と何気なく辺りを見回して、気が付いた。
薄暗い朝靄の先に、人影。
お婆さん、がいる。
道路から十メートルくらい畦道を入ったところに、種類は知らないけど大きな樹があって、その下に、ちょこなんと座り込んでいた。農作業だろうか。老人の朝は早いとか聞くけど、本当なんだな。でも、いつからいたんだっけ?
眺めていたら、ふと目が合った。
するとお婆さんは、満面の笑みを浮かべて、僕を手招きした。
ちょっとどうしようかとも思ったけど、これといって断る理由もない。僕は畦に降りて、お婆さんの方に歩いて行った。
「こっち来んせぇ、こっち来んせぇ」
えらく腰の曲がった、なんだか丸っこい感じのするお婆さんだった。
纏めた白髪に手拭いを被ってて、野良着っていうの? 和なのか洋なのか微妙な服を着てる。足元は土色の長靴。ずんぐりむっくりな体型は、ゲームに出てくるドワーフそっくりだった。皺だらけの顔はこの上なく人が良さそうで、目尻をクシャクシャにしながら、ニコニコと笑っている。
「おはようさん。都会の人かえ?」
「はい、おはようございます。東京からです」
「ほうかえほうかえ。まぁ、座りんせぇ」
促されるままに、お婆さんの隣に腰を下ろした。
「お仕事かえ?」
「いえ、観光です。夏休みが取れたもので」
「ほうかえ。よう来んさった。なぁんもないところやろ」
「のどかでいいじゃないですか」
「ほうかえ。まぁ、気に入ったんやったら、また来んせぇや」
「はい、是非」
話好きな人らしかった。もしかしたら、子供や孫はみんな都会に出てしまって、寂しい毎日を送っているのかもしれない。方言が聞き取りにくいけど、こういうのも田舎独特の味ってもんだろう。そうそう、非日常、さ。
なんということもない話をしながら、澄み渡った空気と景色を満喫する。
あぁ、これだよこれ。僕は今、求めた非日常の中にいるんだ。
「都会の人」
「あ、はい」
不意に呼ばれて、背筋を正した。
お婆さんが、膝の上に置いていた風呂敷っぽい包みを開けて、中からなにか取り出した。
おにぎりだった。
「食べんせぇ」
ニコニコ笑いながら、お婆さんが、それを僕の前に掲げる。
……困った。
だって、そのおにぎり、容器に入ってない。ラップすら巻いてない。思いッ切り裸の、そのまんま。お婆さんのしわくちゃな指に掴まれて、一糸纏わぬ白米の全身を惜しげもなく晒してる。
え、この状態で風呂敷に包んで持ち歩いてたってこと?
「遠慮せんでええ。食べんせぇ」
「………」
するだろ。
ていうか、マジ困るんだけど。
弁当箱に入ってるとか、飴ちゃんとかなら、まだわかる。全裸おにぎりだよ? それも、赤の他人が素手で握ったおにぎり。悪いけど、僕は綺麗好きなんだ。そんなもの汚くて、とても食べられたもんじゃない。
田舎って、自然豊かなのはいいけど、こういう衛生的な部分で都会人への配慮が足りないよな。これじゃ非日常じゃなくて非常識だよ。
「食べんせぇ」
お婆さんは、ニコニコしている。満面の笑みってやつだ。
……好意、なんだろうな………。
ぶっちゃけ迷惑以外の何者でもない。けど、そこは僕。これでも厳しい就職戦線を勝ち抜いて、あのポンタ自動車に入社した優等生だ。こんな場合の対処法なんて心得ている。
「ありがとうございます」
僕は爽やかな笑顔で、おにぎりを受け取った。
なに、後で捨てればいいのさ。ここは一応、良い人やっといて。見てないところでポイしちゃえ。大丈夫、バレなきゃ問題ないんだから。要は如何にして場を潜り抜けるか、だ。
一層顔を綻ばせたお婆さんから、おにぎりを受け取った。冷め切ってると思ったら、まだ生暖かくて、うっかり放り投げるところだった。
「じゃあ僕、この辺で」
さっさと腰を上げた。今すぐ食えとか言われたらキレそうだし、会話にも飽きてきた。なにより早くこのブツを捨ててしまいたい。
立ち上がった僕に、お婆さんが、右手を指さしてみせる。
「あっちぃ行きんせぇ。この時期は百合が綺麗に咲いとるんや。お兄さん、都会から来たんやったら、せっかくだしけぇ。見て行きんせぇ」
言われて視線を遣れば、なるほど。此処はちょうど山の裾に当たる部分だったらしく、すぐ傍に、山道へ入る道があった。
ちょうどいいや。山ん中に捨てよう。道端じゃあ、誰かが見付けて話が広まるかもしれない。田舎って、そういう話が広まるのだけはネット顔負けだもんな。そうなったら面倒だもの。
お婆さんに別れを告げて、僕は、山の入口へ歩いて行った。
一度だけ振り返ると、お婆さんは、やっぱり、ニコニコと手を振っていた。
2.
山に入って、すぐ近くの茂みに、おにぎりを捨てた。
くっついた米粒を、毟り取った葉っぱで拭う。手が青臭くなって最悪。さっさと洗いたかったけど、あんまり早くに戻って、お婆さんと鉢合わせても気まずい。
それに、まぁ確かに、せっかくだしね。日頃の運動不足解消でもするか。
僕は、なだらかな山道を登っていった。
獣道ってほどでもないけど、舗装もされてない狭い山道だ。左右は鬱蒼とした樹に囲まれて、風が吹くとザワザワ、緑の匂いが駆け抜ける。お婆さんの言った百合もあった。百合っていうから真っ白なあれを想像してたんだけど、なんかオレンジに黒い斑点のある、毒々しいやつだった。オニユリ、だっけ。あんまり綺麗だとは思わなかったけどさ。
一合くらい登ったんだろうか。
さすがに疲れて、ちょっと休むことにした。折しも道端には、お誂え向きの大きい石がある。それに座って、脚を伸ばした。
汗ばんだ額を、マイナスイオンたっぷりの涼風が拭っていく。僅かに弾んだ息が頬を火照らせて、蝉と野鳥の鳴き声が、静かな景色に染み込んでいくんだ。なんて気持ちがいいんだろう。
それにしても、山の中って、こんなに静かなんだな。
蝉の声も、鳥の声も。近いようで変に遠い。土や樹ってやつは、音を吸うんだろうか。四方八方から、何等かの音はするんだ。でも反響しない。そのくせ、何処にも行かない。見上げれば陽は昇って、この薄暗い山道にも、光の欠片が降り注いでいた。なんだろうね。すべてと繋がっているのに、閉じ込められている感覚。
まるでガラス張り。
僕一人だけ、世界から取り残されて、此処にいる、みたい。
「……疲れた」
はぁ。柄にもないセンチメンタルやってたら、踵がじんじん熱くなってきた。
軽く散歩するだけのつもりだったのに、これじゃ筋肉痛になっちゃうよ。そろそろ民宿に帰って、ご飯食べて、温泉入って、二度寝しようっと。
息を整えて、僕は立ち上がった。
それで、来た道を戻ろうと身体を半回転させたときだ。
誰かが道を登ってきた。
あれっと思って首を伸ばす。僕は短く声を上げていた。
だってその人、あの、おにぎりをくれたお婆さんだったんだ。
舌打ちが漏れた。マズったぞ。お婆さんも山に用事があったのか。おにぎり捨てちゃったし。どうしよう。
お婆さんと目が合う。さっきと変わらない、極上のニコニコ笑顔が、曲がった腰を益々折り曲げる。僕も慌てて会釈する。
まぁ……いいか。美味しかったです、とか言って素通りしちゃえば、わかんないよな。バレないよな?
僕は努めて胸を張って、堂々と道を下っていった。
お婆さんが近付いてくる。
くたびれた長靴で、ヨチヨチ歩いて来る。
擦れ違い様、笑顔で声を掛けた。
「また会いましたね。僕もう帰りますんで。あ、おにぎり美味しかっ」
「捨てたやろ?」
ギクッとして、足が止まった。
作り笑顔が引き攣る。
なんで……わかったんだ?
「やめんせぇ、やめんせぇ。捨てるの、やめんせぇ」
そんな僕を、ニコニコと見つめて、お婆さんは、懐に手を突っ込んだ。
おにぎりが出てきた。
「食べんせぇ」
ゾッとした。
なんだこのババア。大量におにぎりを所持してるのか?
っていうか、なんで僕が捨てたのわかったんだよ。見てたんだろうか? いや。あの畦から山の中が見えるわけない。じゃあ探した? 僕が本当に食べたのか確認するために? どうして? そこまで?
そもそも、そんなにおにぎりを食べさせたい理由はなんなんだよ? ボケてんのか? なに考えてんだ?
「食べんせぇ、食べんせぇ」
ドン引きした僕は、お婆さんを無視して、そのまま山道を駆け下りた。一円にもならない愛想なんて、もう振ってられない。ていうか付き合ってらんない。ガチでキモい。ていうかヤバい。一刻も早く民宿に帰りたくて、僕は走った。
走った。
結構、走った。
……おかしい。
ハァハァと息を吐き、頭を垂れて、両手を膝に着く。汗で濡れた髪が首筋と額と頬に張り付いて、そこに風が当たると、奇妙に冷たい。蝉が鳴いていた。
一向に、山道の終わる気配がない。
さっきの場所まで登るのに、二十分かからなかった。今は時計も携帯も持ってないけど、僕は毎日、駅から十五分ほど歩いて出社してる。だいたいの時間感覚は脚が憶えてるんだ。下り坂だってことも考慮すれば、これだけ走れば、山道の入り口が見えてもいいはずなのに。道を間違えたんだろうか。ありえない。一本道だぞ。どうやって間違えるんだよ。
汗を拭う。
嫌な予感がした。胃をグッと踏み付けられたみたいな、強烈な不快感。
拭っても拭っても、汗が噴き出す。
それは暑さのせい、だけなんだろうか?
「………」
馬鹿馬鹿しい。疲れてるんだ。だから、思ってた以上に脚力が落ちてるんだ。
そうに決まってる。
なら、こんなところで立ち止まってちゃ仕方ない。とにかく下ろう。歩きでも、ひたすら進んでいれば、そのうち必ず麓に着くんだから。
僕は、力強く顔を上げた。
その瞬間、僕は驚いて跳び上がった。比喩じゃない。マジで五センチぐらい身体が跳ねた。小動物みたいに後ろに跳び退って、固まって、ガクガク震え始めた。
だって、だって、ありえないんだ。
前から道を登ってくる人。
薄汚れた野良着で、纏めた白髪に手拭いを被って、腰の曲がった、
―――そんな馬鹿な!
お婆さんだった。
畦道で会って、つい先刻、再会したばかりの。お婆さんが、登ってくる。
曲がった腰で、汚れた長靴で、ヨチヨチと登ってくる。
「やめんせぇ、やめんせぇ。下りるの、やめんせぇ」
ニコニコと言って、懐に手を入れる。出す。
そこには、おにぎりが乗っていて……。
僕は、踵を返して山道を駆け上った。
どう考えても下るべきだったんだろうけど、洒落にならないほどテンパってた。脚が勝手に走った。思考よりも先に身体が動いていた。熱い物を触ったときに、意識せず手が引っ込むのと同じ。脊髄反射。生物的な防御本能だった。ううん、生存本能……?
全速力で、山道を登った。
なんだよ? なんでだよ? どうなってんだよ?
なんで下から来るんだ? “前から”来るんだ?
ありえないだろ? 僕は下ってきたんだ。お婆さんと擦れ違って。
追い掛けてきてたのか? ない。いくら健脚でも、あんなヨボヨボのお婆さんが二十代の男と同じスピードで走れるわけがない。それとも先回り? 地元民しか知らない抜け道があるとか? それにしたって異常だ。僕は、あんなに汗びっしょりになったのに。お婆さんは顔色一つ変えず、汗の一滴も掻かないで、ニコニコしてたじゃないか。
嫌な嫌な、嫌な予感がする。原因を考えちゃいけないような。結末を予想してもいけないような。でも、これってなに? どうなってるの?
混乱する頭の中に、ムクムクと不安の雲が充満していく。それを振り払うみたいに。振り落とすみたいに。僕は走った。転びそうになる度、必死で体勢を立て直して走った。倒れたら、二度と立ち上がれない気がした。
さっき休憩した石の傍を走り抜ける。
体力の続く限り、走る。こんなに走ったのは、生まれて初めてだった。
どのくらい走ったんだろう。
何度目かに躓いたとき、脚が縺れて、とうとう派手に転けてしまった。
「……っう……痛たた」
衝撃に一瞬、思考が途切れた。
地べたに這いつくばった格好から、どうにか上体を起こす。ヒリヒリすると思ったら、咄嗟に突いた掌と肘に、うっすら血が滲んでる。喉の奥が冷たい。脇腹が、キリリと痛んだ。
ずいぶん登っちゃったな……どうしよう。
早く帰りたかった。でも、もう一度この道を下る気にはなれない。あのお婆さんが登ってきてるかもしれないんだ。また鉢合わせたら、今度こそ頭がおかしくなりそうだ。
いっそ、このまま山を越えて、向こう側まで……
顔を上げて、僕は硬直した。
嘘だ嘘だ嘘だ。嘘だろ!
こんなことって!
件のお婆さんが、山を下りてくる。
ニコニコ笑いながら、懐に手を入れる。
「やめんせぇ、やめんせぇ。帰るの、やめんせぇ」
そして、差し出す。
おにぎり。
「食べんせぇ、食べんせぇ」
悲鳴も出なかった。もしかしたら、二秒ほど気絶してたのかもしれない。
お婆さんが近付いてくる。
近付いてくる……。
ガチガチ変な音が聞こえて。それが自分の歯の鳴る音だと理解したとき、僕は、再び道を駆け下りていた。
「やめんせぇ、やめんせぇ。逃げるの、やめんせぇ」
十回? 二十回? ううん、もっとたくさん?
山道を登ったり下ったり。いくら繰り返したか、わからない。
お婆さんは、行く道行く道に現れた。
決して追い掛けてきたりしない。襲い掛かってもこない。でも、僕が立ち止まると、必ず“前”からやってくる。そして、おにぎりを勧めてくるんだ。人の良さそうな、ニコニコした笑顔を浮かべて。
その度に道を登ったり下りたり、終いには道を外れて、鬱蒼と茂った樹々の中に分け入っていた。苔で滑ったり枝で腕を切ったり、傷が増えていったけど、形振り構わず、僕は逃げた。方向なんて、知ったことじゃない。走るのをやめたら、お婆さんが来る。その恐怖に背中を押されて。
何度も何度も、お婆さんに会った。
説得も試みた。暴言も吐いた。謝ってみたり、脅したりもした。
だけど、駄目なんだ。駄目なんだよ。
お婆さんは、僕がなにを言っても、聞きやしない。怒らないし、驚きもしない。ただ、ニコニコと笑いながら、おにぎりを差し出す。何度もだ。
人間じゃない……!
捕まったらどうなってしまうんだろう。頭から食われるんだろうか。足から食われるんだろうか。考えたくもなかった。とにかくヤバい。人生終わる。それだけは確実だ。理屈じゃない、本能がそう言っていた。
お婆さんの目的も正体も、わからない。なにが起こってるのかなんて、どうして僕がこんな目に遭うのかなんて、もっとわからない。それでも、一つだけ絶対的な確信があった。
あれは、決して、関わっちゃいけないものだったんだ―――!
フラフラと走り続けて、急に開けた場所に出た。
ちょっとした広場みたいになっていて、端っこに、大きな松が一本生えている。
気力を振り絞って、其処まで行った。
松の幹に抱き付いて、そのままズルズルと崩れ落ちた。心臓が破れそうだった。ベタベタになったTシャツが身体に纏わり付いて、やけに重い。髪はボサボサで、手足は土にまみれて。涙と鼻水で、顔がグシャグシャ。僕はボロ雑巾だった。空腹は感じないけど、喉が渇いて死にそうだ。ずっと山の中を逃げ回って、ろくに休んでもない。そういえば、飲まず食わずだったっけ。
いつの間にか、景色はオレンジ色に染まっていた。カナカナと、ヒグラシの鳴き声が、カラスと一緒に悲壮なハーモニーを奏でる。
松に背中を預けて、暮れ始めた空を仰いだ。こんなときだってのにさ。ムカつくほどに綺麗だった。
……なんでこんなことになったんだろう。
僕がなにか悪いことでもしたんだろうか。
あぁ、帰りたいよ。
あの鬱陶しい人混み。無能な上司。嫌味な同僚。冷たい喧騒。毎日毎日、残業でさ。いいことなんて、これっぽっちもなくて。くだらなくて息苦しい、でも、お婆さんに付き纏われることなんて、なかった。僕の日常。
滲んだ視界に、小さな人影が揺らぐ。
「やめんせぇ、やめんせぇ。帰るの、やめんせぇ」
思わず立ち上がる。だけど、脚に力が入らない。
カラカラに干涸らびた唇から、意味のない呻き声が漏れた。
心臓が早鐘を打つ。肌が粟立つ。
過呼吸かってぐらいに。息が、息が、息が、出来ない。
「やめんせぇ、やめんせぇ。息するの、やめんせぇ」
お婆さんが、歩み寄ってくる。
ゆっくりヨチヨチと。ニコニコ笑いながら。
おにぎりを手に、乗せて。
「食べんせぇ、食べんせぇ」
ヒグラシが遠ざかる。
音が消えて、静かになった。
お婆さんの声だけが、頭の奥に染み込んでくる。
それでも、最後の理性が、僕の脚を後ろへ後ろへと動かしていた。
もうやめてくれ。
僕がなにをしたっていうんだよ!
叫びたかったけど、叫ぶ気力も体力も、既に残っちゃいなかった。
「やめんせぇ、やめんせぇ。考えるの、やめんせぇ」
………。
おにぎり……。
食べたら……楽になるんだろうか。
こんな理不尽な状況から、解放されるんだろうか。
「食べんせぇ」
僕が手を伸ばすのと、ほとんど同時だったと思う。
踵が空虚を踏んで、不意に重力が失せた。
足を踏み外したんだ。理解したときには、僕の身体は、真っ逆さまに宙を舞っていた。そうか。此処、崖になってたのか。要するに、崖から落ちたってわけね。
すぅっと指先から冷たくなって、僕の意識は薄れていった。
上下反転で見た真っ赤な太陽が、ニヤニヤ笑っていた。お前まで僕を笑うのか。腹立たしいような、哀しいような、怖いような。それでいて、どこか不思議な安堵感があった。
なんだか、可笑しくなってきてさ。
地面に叩き付けられるまでの、ほんの一瞬。たぶん僕も笑っていた。
きっと、これは夢なんだよ?
だからこれで醒めるんだ。
これで。
3.
「……あんた、あんた。大丈夫か?」
肩を揺すられて、うっすら眼を開けた。
うるさいなぁ、なんだよ。せっかくの休暇なんだから、もう少し寝かせてくれ。だいたい誰だ、お前。どうして僕の部屋に、
―――激痛で意識が揺さぶられた。
アニメの悪役みたいな悲鳴を上げて、僕は身を捩った。それで再び襲う激痛に、今度こそハッキリと目が醒めた。
此処は何処?
僕は、僕は、どうなったんだ?
「お、気ィ付いたか? 死んどるんかと思ったで」
初老の男性が、心配そうに僕を覗き込んでいた。
作業服姿で、首にタオルを掛けている。短い白髪をイガグリ頭に刈り上げて、丸い眼が人懐っこそうだった。この人に起こされたのか。地元の人だろうか。
「どうしたん? なにがあったんや? こんなとこでなにしとるん?」
「………」
矢継ぎ早の質問に、僕は答えることが出来ない。意識はあるのに、現実感が湧かなくて。ただ口を開けたまま、馬鹿みたいにポカンと呆けていた。
あぁ、と短く頷いて、男性が水筒を差し出す。
間髪入れずに、僕はそれを引ったくっていた。口に宛がって、山賊みたいに垂直に煽る。水だ。水、水! ドバッと溢れる冷たい水が、喉を下りていく。胃に到達する。快感。生きてる。生きてる快感!
飲む込むごとに唇から水が零れて、首筋を伝う。気管に入っちゃって、咽せて、鼻からちょっと出てきて、眼が痛くなって、それでも飲む。こんなに水が美味しいなんて感じたことは、なかった。
あっと言う間に、水筒は空になった。
「あ……ありがとう、ございます」
ようやく人心地着いた。
男性が、ホッとした面持ちで微笑する。その顔を見て、僕は、大きな溜息を吐いた。助かった……んだ。
「なにがあったんや?」
「あ……信じてもらえないかもしれませんが……」
僕は、そう前置きして、事の経緯を話した。
意外にも、男性は真剣に聞いてくれた。そして、僕がすべてを語り終えると、眉間に深く皺を刻んで、尤もらしく頷いた。
「それは“オススメバアア”や」
「オススメババア!?」
うん、と男性は腕を組む。
「正体はわからへん。せやけど、昔っから、この山におる。出会ったら、握り飯を勧めてくるんや。それを一口でも食ったら、もうあかん。二度と山から下りられんようになる……ちゅう話や」
「………」
勘弁してよ。
この科学文明の時代に、そんな、昔話みたいなこと。
反論しようとして、言葉を飲んだ。
オバケにしろ生身の人間にしろ。どっちにしろ、納得のいく存在じゃないんだ。あれは。
これが他人から聞いた話だったら、僕も笑って取り合わないだろう。帰って友達に喋っても、誰も信じちゃくれないだろう。だけど、僕自身が、現実に体験してしまったんだ。夢や幻、ましてや妄想なんかじゃ、断じて、ない。死ぬかと思った。マジで発狂寸前だった。だいたい、なんで僕がこんな目に遭………
……いや。
もう……なんだっていいや。
とにかく助かったんだ。
僕、生きてる。
帰れるんだ。
見渡せば、とっぷり陽も暮れて、ヒグラシの声は虫の音に変わってた。ざあざあと川の流れる音がする。たぶん、谷底みたいなところなんだろう。地面が岩や河原じゃなくてよかった。土の上に落ちたから、どうにか助かったのか。
ふと、男性に腕を掴まれた。
「な、なんですか?」
「ここらは夜んなると熊が出るんや。危ないしけぇ、うち家ぇ来んせぇ」
熊!?
僕は、慌てて立ち上がろうとした。
ところが、脚が動かない。
ビクともしない。代わりに、腰が激しく痛んだ。もっと慌てて確認したら、僕の脚は両脚とも、有らぬ方向にヘシ曲がって、冗談みたいにパンパンに腫れ上がっていた。注視すれば、ちょっと中身が出てる。暗くて曖昧だけど、色もおかしい。
どう見たって、完璧に折れていた。
「さぁ、早う来んせぇ。うち家ぇ来んせぇ」
男性が、笑顔で腕を引っ張る。鈍い奴だと、内心眉を顰めた。
「あの……お気持ちは有り難いんですけど、脚、骨折してるみたいなんです。消防か警察の人を呼んでくれませんか。あ、あと救急車も」
僕は、男性の好意を無下にしないよう、至極丁寧に、常識的な案件を依頼したつもりだった。
それなのに、男性は、尚もグイグイ僕の腕を引っ張った。両脚複雑骨折なんて、てんで意に介する様子もなく、無理矢理に起立させようとしてくる。僕はビックリするやら呆れるやら。男性のガチな鈍感っぷりに、ついつい声を荒げていた。
「ちょっ、やめ……痛い! 立てないんですってば! 痛いんですけど!」
「ええから来んせぇ、来んせぇ」
腕を掴む手に、益々力が込められた。あまりの痛みに、僕は悲鳴を上げる。
男性は腕を放さない。
やめてくれ。痛い。折れてるのが脚だけとは限らないんだぞ。それでなくとも、あちこち痣だらけの傷だらけなんだ。動ける状態じゃないんだってば。
「痛い! 痛……やめて!」
「来んせぇ、来んせぇ」
このクソ爺ィ。耳遠いのか? ボケてんのか?
いよいよ一発ブン殴ってやろうかと、男性を睨み付けた。
男性は、ニコニコと笑っていた。
「………」
……ジジイ。
ざざざ、と木の葉が風に浚われた。
重い焦燥が、心臓を突く。
いや。ちょっと待ってよ。嘘だろ。だって、聞いてないよ。でも。
……オススメ“ババア”……。
ババアがいる、ということは………。
上半身から、みるみる血の気が引いていく。息が止まったような気がした。ざあざあと川の流れる音が。虫の声が、うるさいくらいに。頭の中で、腹の中で、嘲笑のように。狂った鐘のように。響く。響いている。
胃がグルグルと暴れた。
もし。だとしたら。
そうだとしたら、あぁ。
僕は飲んだ。飲んで、しまった。
水筒の水。
男性に勧められた水を!
特上の笑顔で、男性が、誘う。
「うち家ぇ、来んせぇ」
了