2.好きだとお伝えしたことがありましたか?
カロリーナは翌日登校すると一番にサミュエルに会いに行った。返しに来なかった理由を確認するためである。
教室をのぞくとサミュエルの席の前に椅子を置いてキアラが楽しそうに話をしている。カロリーナの姿を見るとサミュエルはバツの悪そうな顔に、キアラは不機嫌な顔になった。反省していないその太々しさにむしろ感心する。
「ギオーニ伯爵子息様。約束を破った理由をお伺いしても?」
「カロリーナ、そのような慇懃な物言いをしないでほしい。すまないとは思っている。昨日返せなかったのはキアラが読み終わらなかったからだ。キアラ、カロリーナに本を返してくれるか?」
キアラはニコッと笑うと舌をペロッと出した。え……可愛いと思ってやっている仕草なら勘違いも甚だしい。それよりすまないと思うのなら、自分から説明に来るべきではないのだろうか。
「サミュエル、ごめんね? えっと、読むのが面倒、じゃなくて疲れて読めなかったの。それで応接室に置いておいたの。昨夜はお父様が商人を呼んでいていらないものを買い取ってもらったのだけど、その本も一緒に売ってしまったの。だからもうないわ」
「えっ? 嘘だろう? あの本を売った?」
サミュエルに謝っているがあの本は我が家の物だと理解していないのだろうか。しかもキアラはことの重大さを理解していない。さすがにサミュエルはまずいと気付いたようだ。椅子から立ち上がると焦ったように叫んだ。
「どこの商人だ? すぐに買い戻さないと!」
「サミュエルったら、素人の本なんて慌てなくても誰も買わないわよ。ねえ、いくらで売れたと思う? たったの銀貨一枚よ。ふふふ」
サミュエルの顔は青色を通り越して紙のように白くなっている。いや、変化が早くて土気色になっている。
「ボネーラ子爵令嬢様にとってあの本は価値がなかったようですね。ですが欲しい者なら大枚をはたくのですよ」
「本なんか面白いと思ったことないわ。やっぱりカロリーナ様は公爵令嬢のくせにケチなのね。もう、本、本って煩いわ。あの本代を弁償すればいいのでしょう。銀貨一枚渡せば満足?」
面倒だから注意しないけれど、カロリーナとキアラが口を利くのは二回目だ。しかも友人ではないのだから馴れ馴れしく名前を呼ばないでほしい。
「キ、キアラ……やめろ。もうよせ」
サミュエルは弱弱しくキアラを止めるが、キアラはツンと顎を上げていて強気だ。カロリーナからしたら人から借りたもの売るなんて非常識。子爵令嬢なのに一般常識の教育を受けていないのか。まあ、弁償してくれる意思があるのなら払ってもらおう。
「あの本はお祖父様が人を介して外国から取り寄せたものです。翻訳にも費用がかかっていますし、版権の契約費用もあります。もろもろの経費および出版して得られるはずだった利益を合わせた金額を弁償していただくことになります。詳細はきちんと計算しないとわかりかねますが、どれだけ少なく見積もっても金貨千枚以上になるはずです。いつお支払いいただけますか?」
「ええっーー、嘘でしょう? 金貨千枚!! あんな本に? 嘘つかないでよ。いくらなんでも高すぎるわ。払えるわけないじゃない。カロリーナ様は私を騙しているわ。詐欺師よ、最低!」
「やめろ、キアラ。カロリーナ、すまなかった。すぐに商人のところに行って買い戻してくる。だから閣下には知らせないでくれ。頼む」
サミュエルはキアラの暴言に慌てている。冷や汗を流しながらカロリーナに頭を下げた。その姿を見て呆れながら心の中で溜め息を吐いた。
サミュエルが本好きなのは本当だ。だから本の価値や出版に関する事情も薄っすら理解している。出版してベストセラーになれば大金が動くことも想像できるだろう。
それなのに本の持ち出し禁止のルールを破り、本を返すという約束を破ったのは愚かというか……。本好きなら本を大切にしてほしかった。
もっとも出版前の本を安易に読ませたことは我が家にも非がある。本を好きな人に悪い人はいないと性善説で考えていたし、お祖父様の許しを得た人に限ってとも思っていた。だけどお金に目が眩んで転写して利益を得ようと考える人もいるかもしれない。版権は我が家にあるのでその場合は裁判になる。なんにせよ、今後は管理を厳しくするしかないだろう。
「お祖父様に黙っているのは無理です」
「そんなことを言わないでくれ。私たちは特別な仲じゃないか」
サミュエルは縋るような顔をしているが、特別の言葉の意味が分からず首を傾げた。
「私はあなたを特別だと認識したことはございませんが、もしも私の態度で誤解させてしまったのならお詫びいたします。それと無理だと申し上げたのは、すでにお祖父様には報告してあるからです」
「え……閣下は……知っている?」
「当然です。そもそも私が報告しなくても、本がなくなった最初の段階で司書から報告があがっていますから、隠しようもありません」
「そんな、冷たいことを言わないでくれよ。カロリーナは私のことを好いてくれているのだろう?」
驚きすぎて思わず微笑んだ。記憶を手繰ってみても好意を口にした覚えはない。本友としては好きだけど、それ以上の気持ちはまだなかった。
「私、ギオーニ伯爵子息様に好きだとお伝えしたことがありましたか? まったく心当たりがないのですが」
サミュエルは目を真ん丸にして口をはくはくさせている。思いもよらない言葉を聞いたかのような表情だ。……むしろカロリーナの方が衝撃を受けている。
「……………いいや。言われていない。でも、態度が私を好きだと訴えていた。たとえば学園では誰にでもかしこまっているカロリーナが、本屋敷にいるときは私に打ち解けていた。自然体で笑いかけてくれていたじゃないか。それは私が特別で好きだからだろう?」
「本の感想を語り合うときに笑ったら特別な仲になるのですか? 本屋敷は私の家です。自然体でいてはいけませんか?」
「…………。じゃあ、子供の頃に私が格好良くなるアドバイスをしてくれたのは? あれは私を好きだからだろう?」
「いえ、友人としてアドバイスしただけです。特に意味はありません」
「そんな……」
サミュエルは瞳を潤ませ今にも泣き出しそうだ。泣いている場合ではないと思うのだが。
「それよりも本を商人から買い戻さなくてもいいのですか? そういえばお祖父様からの言づけをお伝えしていませんでしたね。ギオーニ伯爵子息様は父君の伯爵様と、ボネーラ子爵令嬢様も父君の子爵様と一緒に屋敷に来てほしいそうです。今回の件についての説明を求めています」
「せ、説明? どう説明すれば……」
「え? 私も? しかもお父様も一緒に?」
「はい。ではよろしくお願いします」
カロリーナはこれ以上話すことはないと自分の教室に戻った。
椅子に座ると窓の外を眺めた。するとサミュエルがキアラの手を引きながら慌てて学園から出て行った。その姿を冷ややかに見送る。サミュエルやキアラがどんなに頑張っても本を買い戻すことはできないが、せいぜい頑張ってもらおう。このくらいのお灸は許されるはず。
カロリーナの心にはサミュエルに対する本友としての気持ちはなくなった。本の感想を語り合った楽しい記憶は遥か彼方へ行ってしまった。それほどカロリーナは怒っていた。サミュエルはルールを破り約束を守らなかった。
昔のサミュエルはこんな人ではなかったのにと思う。大人に連れられて『閣下の本屋敷』に来る子供たちはそれなりにいた。でも本が好きで来ていたわけじゃない子のほうが多い。
男の子も女の子もみな、カロリーナのご機嫌を取り、ベルトーネ公爵家と縁を繋ごうという下心からのものだ。もちろん子供はそこまで考えていない。親にそう言い含められているだけ。親の命令で近寄ってくる子は態度に出るのでカロリーナは距離を取った。
だけどサミュエルは違った。純粋に本を楽しんでいた。だから本友になれたのに。年々本屋敷に来る子供は減っていった。カロリーナに取り入れないのなら用はないということだ。通い続ける人は本当に本が好きな人だ。結果的に残ったのはサミュエルだった。
今回のことでカロリーナの心に芽生えるかも知れなかったサミュエルへの恋心は、芽吹く前にあっさりと遠く彼方に吹き飛んで行ってしまったのだった。




