第36話「山を越えて、人の灯へ」
経矢とイリーナは、ジャスティンに従徒化されていた女性も連れて山を越えることにした。
デブロンに帰るために、来た道を戻らせるには危険すぎる。
そもそも橋の前に落石があるため、徒歩で戻るのは不可能だろう。
山を下りた麓にある小さな村には、デブロンの商人たちもよく立ち寄るため、そこでなら知り合いに会えるかもしれないと女性は言う。
ちょうど通り道でもあるため、護衛も兼ねて彼女と一緒に向かうことに決めたのだった。
女性の名前はマギーというらしく、つい最近、武器屋の息子と結婚したばかりだということを聞いた2人は余計に気の毒に感じてしまう。
ジャスティンに狙われさえしなければ、きっと幸せな結婚生活を送っていたに違いないというのに。
それは彼女だけじゃない。
ジャスティンが、可愛い子ちゃんと称していた吸血鬼の女性たちの中にも、彼女のように最初は望まず吸血鬼にされた者も多いはずだったのだから。
それから山を1日半ほど歩くと、ようやく麓の村へと到着した。
「うーん! 山もよかったけど……やっぱり!」
イリーナは、井戸端会議をするおばさん、農具を手に持つおじさん、元気に走り回る子供を見て満面の笑みを浮かべた。
人の声が響く。笑い声がする。
たったそれだけのことが、あまりにも懐かしく感じられる。
「やっぱり人がいると安心するねぇ!」
彼女の言葉に経矢とマギーは顔を見合わせて、小さく笑った。
マギーの方もようやく安心したような表情を浮かべている。
「おや……あなた……マギーちゃんじゃない? ダニーくんは、一緒じゃないの?」
井戸端会議をしていたおばさんが、マギーの姿に気付いて声を掛ける。
それは彼女の結婚式にも出席してくれた、ダニーの親戚のおばさんだった。
知り合いに会えたことで、マギーの目から安堵の涙が零れる。
女性の胸に飛び込むと、彼女はまるで子供のように泣きじゃくるのだった。
「ま、まぁ! ……きっと辛いことがあったのよね? よかったら家にいらっしゃいな。ゆっくりと事情は聞いてあげるから」
おばさんも彼女の様子にただならぬ何かを感じ取ったようで、優しくそう告げると経矢とイリーナにも話を聞きたいと申し出る。
2人は軽く会釈をしてそれに応じるのだった。
おばさんと部屋に入ると、マギーは自身の身に起きたことを涙ながらに語り、その後は経矢とイリーナに助けられたことを伝えた。
彼女の話を聞いているおばさんの目にも涙が浮かんでいた。
「とにかく……生きて帰って来られてよかったわ! もう悪い奴はいないから、安心して休むといいさ」
一通り話を聞き終えたおばさんはマギーを優しく抱きしめると、彼女の肩に両手を置き諭すように言った。
その言葉が何よりも嬉しかったのだろう。マギーはさらに涙を流す。
おばさんの胸の温もりで、ようやく彼女は現実に戻れた気がした。
焦げた血の匂いではなく、スープと石鹸の匂い。
ああ、自分はまだ“生きている”のだと。
「おふたりさん、マギーちゃんを助けてくれて本当にありがとうございます」
おばさんはマギーを抱きしめながら経矢たちに向き直り、頭を下げる。
「いえ……お礼なんていいですよ」
イリーナが慌てたように言葉を返すと、彼女はそんなことはないと言いながら首を横に振る。
「たいしたお礼はできませんが、せめて夕食を召し上がっていってくださいな。もう夜ですし、宿を取る予定だったのでしょう?」
おばさんの言葉に、経矢とイリーナは顔を見合わせる。
彼女の言う通り、今晩はこの村の宿に泊まろうとしていた2人。
そのため2人にとっては、とてもありがたい申し出だった。
「いいんですか?」
経矢がそう問いかけると、おばさんは満面の笑みを浮かべて深くうなずいた。
涙を拭ったマギーも2人の前に歩み出る。
「私もおばさんと一緒に料理を作ります。こんなことでしかお返しできないけど……助けてくれたせめてものお礼をさせてください」
彼女はそう言って2人の手を取るのだった。
おばさんがすでに煮込んでいたスープの湯気が、静かに天井へ昇っていく。
戦いの煙とは違う、優しい匂いだった。
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