序
一、
冬の空気が好きだった。
特に雪の降る前の、ピンと糸が張り詰めたような澄んだ空気が好きだった。
鼻先を赤くして、喉の奥を締め付けるような風に顔をこわばらせながら、わたしは彼を追いかける。
「ゆうちゃん、待って」
あまりにも冷たい空気は、掠れた声すら響かせた。それでも彼はまるで聴こえていないかのように、雪に埋もれそうな体を必死に飛び上がらせながら一心不乱に駆けていく。わたしはそれを必死に追いかけながら、彼は無視しているわけではなく本当に聴こえていないんだろうな、と考えていた。置いていかれる不安を他所に、妙に冷静だったのを覚えている。
記憶の中でわたしはいつも、彼の背中ばかり見ていた。わたしが付いてきているかなど気にも留めない様子で走る彼の目に、何が映っているのか知りたかった。
街に出てからもう何度目かわからない冬を迎えた。ビルの間を吹き抜ける風は、あの町に吹いていたそれよりもずっと冷たく感じる。雪を呼ぶわけでもないのに、ずっと冷たい。どこかの歌手が都会では季節を感じる匂いがしないと歌っていたが、街に出てその意味がわかった。雪が降りそうな張り詰めた冬の匂いも、どこかの家の軒先から漂う甘い秋の匂いも、都会では感じない。にも関わらず、夏はコンクリートに照り返された日差しが肌を焼き、冬は乾いた風が肌を刺す。家と職場を往復する生活では、冬のイルミネーションくらいしか視覚から季節を感じることもない。
どこか理不尽を感じるわたしは、都会で暮らすのに向いていないのかもしれない。
仕事を言い訳に、もう何年も地元に帰っていなかった。帰ったところで会う人は両親くらいで、特に用もない。
ただこの季節になると、ずっと追いかけていた彼の背中を思い出す。春も夏も秋も年中追いかけていたのに、なぜか冬になると思い出すのは冬の空気がわたしをノスタルジックにさせているからだろうかと、あの町とは違う冬を感じながらわたしは今日も仕事に向かう。
彼が今どこで何をしているかは知らない。
地元の友人とも連絡をとっていないから、彼だけでなく誰がどんな仕事をしているのか、誰が結婚したかなども知らない。
ただ、今彼の目が何を映しているかは知りたかった。
脇目も振らず走り抜けた先、いつも彼はわたしを待っていた。誰の足跡もついていない真っ白な雪で埋もれた丘や、花曇りの下川沿いに並んだ桜など
今思えば大したものでもない景色を見るために、彼とわたしは走り抜けていた。
「きれいだな」
と呟く彼に、わたしは何も返せないでいた。景色よりも彼の優しげな瞳を綺麗だと感じていたからだ。ただそんなことは言えないものだから、わたしは
「そうだね」
と舌足らずに返すばかりだった。
わたしの季節にはいつも彼がいた。物心がついた頃には彼を追いかけていた。
わたしが季節を感じられないのは、都会にいるからなのか彼がいないからなのかわからなくなっていた。
追いかけ続けたあの背中は、今誰が見つめているのだろうか。わたしでないことに、安堵のような後悔のようなない混ぜの感情が溢れてくる。
わたしの季節は、ずっと止まったままだった。
二、
矛盾という言葉と、それを振りかざす人が嫌いだった。
矛盾やダブルスタンダードを見つけると、鬼の首でも取ったかのように論う人が嫌いだった。
1人の人間の中にも様々な感情(という言い方が正しいのかはわからない)があるものと思っている。全員が全員、一本筋の通った信念があるとは限らず
ある一方から見れば是と言えることでも、他方から見れば非と判断することもある。立場によって考え方を変える必要もあるだろう。
そういった、様々なものが積み折り重なって人が形成されているから
その中で矛盾が生じることもあると思っている。
自分は体を動かすのが好きだ。
ごちゃごちゃと頭の中に渦巻く考えをまっさらにできるというか、ややこしいことを考えなくて済むからだ。
でも静かに本を読むのも好きだ。作者の気持ちとかそんなことはわからないけど、登場人物がどういう思いを抱いているのか、どういう景色を見ているのか、どんな時代を生きているのかを文字の羅列だけで表現している文章は、とてもきれいだと思う。
それを教えてくれたのは、自分とは正反対の人間だった。
かつて、なぜあんなやつと仲良くしているのか、と友人に問われたことがある。なぜかひどく腹が立って、さぁと答えたきり会話は続かなかった。
何もない田舎町を走り回って、誰よりも早くいろんなものを見たかった。誰も足を踏み入れていない積もった雪や、満開の桜が並ぶ堤防沿いなど誰よりも早く見たかった。
初めは、あまり体を動かすことが得意でないから一緒に遊んでやって欲しいと、あいつの母親から頼まれたのがきっかけだったと思う。誰よりも早く自分だけでいろんなものを見たかった自分としては、不本意だった。
いつのまにか、やっとの思いでたどり着いた景色よりも、肩を上下に揺らしながら息を切らし紅潮した顔で景色を見つめるあいつの顔を見るのが楽しみになっていた。
今日もこの田舎町には雪が降っている。誰も足を踏み入れていない雪は今日もまっさらなまま佇んでいるだろうが、もうそれを見るために走り回ることもない。休日は家の前の雪掻きをして、あとは家の中で本を読んでばかりいる。体を動かすことが好きだったはずなのに、引きこもって読書とは陰気になったものだ。
「根雪になるね」
そう独り言のように呟いた母の言葉を聞いて、雪は春になれば解けるが自分はもう何度独りで冬を越しただろうかと考えた。
文字の美しさを教えてくれたあの人に、自分は何を残せたんだろうか。