【第二章 ペンション『スケープゴート』】 1
玄関の扉を開けてロビーに入ったぼく達を出迎えてくれたのは、白髪頭の六十歳くらいの男性だった。……これもまた失礼な話だが、その顔を初めて見た時、ぼくの背筋は凍ってしまった。男性の左のこめかみから頬、顎にかけて、凶悪な一本線の大きな傷が走っていたからだ。傷の具合からしておそらく何年も前に負ったものだろう。その傷のせいで人相が悪くなってしまっており、狂暴なギャングを連想してしまったのだ。
「弓嶋様と小森様ですね。お待ちしておりました。当ペンションのオーナーをしております、柳沢太志と申します。どうぞよろしくお願い致します」
しかし、ぼく達に向けられた穏やかな声と人懐っこい笑顔で、そんな印象は吹き飛んでしまった。見た目で人を判断する己を恥じた。もしかすると、本人に責任のない不慮の事故に遭い、結果こんな傷を負ってしまったのかもしれないのに。
「素敵なペンションですね! こんな所に泊まれるなんて夢みたいです」
辺りを見渡しながら真理花がはしゃぐ。外装だけでなく、内装も木材をふんだんに取り入れた造りとなっていた。暖房がよく効いているせいもあろうが、床、壁、天井と、全体的に暖色が使われており、身だけでなく心も温かい気持ちになる。
柳沢オーナーの笑顔が更に深くなった。
「ありがとうございます。訪れる方々に温かみを感じて頂けるよう、ここを建てる際、特に考慮したのですよ。お気に召して頂けたご様子で幸いです。それでは、こちらに住所とお名前の記入をお願い致します」
オーナーから宿泊者名簿とボールペンを渡されたぼく達は、今日の日付が書いてあるページを開いた。
「あら」
そのページを見た瞬間、真理花が反応した。
「どうしたの?」
「お世話になっている人の名前が……。後で挨拶に行こう」
ページにはすでに二人分の名前が書かれていた。どちらも名前の最後に〝子〟の漢字が使われている事から女性であるらしい。
ぼくはその人について考察する。お世話になっている人……もしその人が真理花と対等な関係の友人同士であるなら、そのような言い方はしないだろう。友情などではなく、尊敬、敬愛の念を真理花はその人に抱いているらしい。もしかすると、彼女の通う学校の先生辺りなのかもしれない。
自分達の名前と住所を書き、オーナーから部屋の鍵を受け取ると、奥から二人の若い男女が出てきた。男性の方は茶髪で、耳や口に煌めく金銀のピアスをいくつも付けていて、柄の悪そうな印象を受けた反面、女性の方は黒髪のショートボブで、大きな瞳が自信に満ちていて、活発そうな印象を受けた。二人はお揃いの黒と白と灰のギンガムチェックのエプロンを身に着けていたため、このペンションの従業員なのだろう。
「隅野卯月と申します。お荷物をお持ち致しますね」
卯月と名乗った女性が、微笑みながら真理花の鞄に手を掛ける。ぼくは遠慮して言った。
「このくらいは自分達でやりますよ」
「仕事だからな。おれ達に任せとけ」
今度は男性がぼくの手から鞄を取る。ここは彼らの好意に甘える事にした。
「お部屋までご案内致します。どうぞこちらへ」
すっかり手ぶらとなったぼくと真理花は、それぞれの荷物を持った男女の従業員に案内されて階段を上がった。そこでぼくは、男性の胸についたネームプレートが眼に入った。『隅野岳飛』と印字されている。
「お二人はご兄妹ですか?」
姓が同じ、年齢もそう離れている様子もなかったので、ぼくは尋ねた。よくそんな質問を宿泊客からされるのか、すぐに卯月さんが笑顔で答える。
「ええ、そうなんですよ。わたしが妹で岳飛が兄です」
「ご兄妹で同じペンションで働いていらっしゃるんですか。仲がよろしいんですね」
「……血の繋がりはないけどな」
ボソリと面白くなさそうに岳飛さんは呟いた。この人は愛想も良くない──もしかすると、タクシー内で運転手の原田さんが言っていた、お客さんと揉めた従業員というのはこの人の事なのかもしれない。
客室は全て二階に固まっていて、一から四号室まである部屋の内の三号室に、ぼく達は割り当てられた。部屋の中はシングルベッドが二つ。作り付けのテーブルの上に小型テレビと固定電話、赤い薔薇の造花が入った黄色の花瓶が一つずつ置いてあった。部屋の隅に大きなクローゼット。そしてバスルームへ続く扉。鍵はオートロックではなく、ごく普通のシリンダー錠だった。
「荷物は適当にその辺に置いて下さい。後はわたし達の方で良いように致しますので。お二方、ここまで荷物を運んで下さりありがとうございました。正直に申しますと、かなり重たくて辛かったんですよね」
「お役に立てたようで幸いです。夕食は七時から始まりますので、それまではゆっくりしていらして下さい。それと、大変申し訳ございませんが、今朝から当ペンションの電話は内線、外線を含め使用出来なくなっておりますので、何か御用がございましたら直接わたくし共にお申し付け下さい」
「そうだ、Wi-Fiはどうでしょう? パスワードを教えて頂きたいのですが」
ぼくがそう尋ねると、卯月さんの表情が一瞬だけ強張った。それでも、すぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべて答える。
「当ペンションは、オーナーの方針によりWi-Fiを設置していないんですよ」
「えっ!?」
ぼくの背筋に寒気が走った。小森邸で言った悪趣味な冗談が現実となってしまった。
「外線電話もWi-Fiも使えないって……外部と連絡が取れないって事ですよね? 孤立するって事ですよね? 圏外だからスマホも繋がりませんし……一体どうしてそんな事になってしまったんですか?」
「厄災の仕業さ。マジで自重って奴を知らねえ……」
「またそんな事を……!」
岳飛さんが忌々し気に吐き捨てるのを、卯月さんが小声でたしなめる。厄災とは……積雪の影響か何かで電話線が切れてしまったという事だろうか?
「食料に関しましては、充分な蓄えがございますのでご安心下さい。……ご不便をお掛けし、大変申し訳ございません」
頭を下げる卯月さんを、真理花がすかさずフォローする。
「構いませんよ。わたし達、そういう事は大好きな人種ですから」
「そういう事が、大好き?」
「ええ、大好きな小説のシュチュエーションみたいでわくわくします」
「まあ! 素敵ですね」
卯月さんは軽く手を合わせて、一番の笑顔を見せる。……彼女は真理花の大好きな小説というのを、閉ざされたペンションで男女が仲を深めていく恋愛物とでも思ったのだろうか? だが真理花がそう言ってくれたお陰で、多少ぼくの不安は晴れ、どこか安心する事が出来たのだった。
「ところで、牛尼小夜子さんという方がこのペンションに泊まっていらっしゃいますよね? 今はどちらにいらっしゃるのですか」
「牛尼様は一階の談話室で、ご友人と談笑をしているかと思われます」
「分かりました、ありがとうございます」
岳飛さんと卯月さんが去った後、ぼくは真理花に尋ねた。
「その牛尼さんって人が、真理花がお世話になってる人?」
「ええ……とてもね」
真理花は右手で左胸をそっと押さえる。
「わたしはこれから牛尼先生の所へ挨拶に行くけど、魁くんはどうするの。夕食の時間までここで待ってる?」
先生、か。先ほどの推理はどうやら正しかったようだ。
「いや、ぼくも談話室に行くよ。きみがお世話になってる人なら、ちゃんと挨拶しておきたいから」
「なら先に行ってて。わたし、ちょっと準備してから行く」
「分かった。それじゃあ行ってくるよ」
ぼくは着ていた上着を脱いでクローゼットの適当なハンガーに掛けると、一足先に部屋を出て、先ほどの階段を降りていった。