【第一章 ぼくと小森兄妹】 2
無事に空港へ着き、自分のキャリーバッグをベルトコンベアから取ってロビーに入ると、すぐにゆったりとしたピンクのセーターと、真っ白なボトムスに身を包んだ真理花がぼくの元に駆け寄ってきた。
「魁くん久しぶり! これから数日間よろしくね」
数ヶ月振りに会う真理花の顔は、冷たい気温のせいもあっただろうが、更に不健康に青白く感じられた。ともあれ真理花との再会が叶ったので、思わずぼくも破顔した。
地下鉄の殺人的な人の多さと、家までの乗り換えの多さを考慮した真理花が、あらかじめタクシーを呼んでくれていたので、ぼく達はそれを用いて小森兄妹の実家へと向かった。黒いタクシーのドアが自動で開閉したのは驚かされた。
タクシーの中で、真理花は急に憂いだ表情になった。
「魁くん、お兄ちゃんの容態はどうなの。入院するほど酷くはない?」
やはり一番に兄の体調が心配なのだろう。兄妹の仲の良さが感じられた。
「ぼくが出る頃には熱はかなり引いてたけれど、やっぱり旅行に行けないのを残念がってたな。後で電話かメールをしよう」
「本当に大丈夫かな。最近、大陸の方で変なウイルスが流行ってるらしいけど……」
この十二月の初め、大陸で肺炎を引き起こすウイルスが蔓延し始めているという話はぼくも知っていた。真理花はそのウイルスに兄が罹患していないか心配なのだろう。
「それはないよ。ウイルスが海を越えて真介達の所までやってくるなんて事は……」
ぼくは言葉を切った。果たして、絶対にないと言い切れるのだろうか? 約百年前のスペイン風邪も、瞬く間に世界中へと蔓延した。さすがに今回の真介と父の熱はそれが原因ではないだろうが、いずれその魔の手がぼく達の身を掴んでくるかもしれない。
一抹の不安は胸中に、ウイルスの如く広まっていった。
世田谷区にある小森邸に着いた。高級住宅街に建てられ、アメリカの住宅のように大きなその外観を見れば、兄妹が相当裕福な家庭で育っている事は想像に難くなかった。真理花が鍵を取り出して玄関の扉を開ける。
時刻は午後八時を回っていた。
真理花はリビングの明かりを点け、そのまま併設されたキッチンへ向かう。
「飛行機での長旅は疲れたでしょう。今、夕食の準備をするから待っててね。……と言っても、作り置きのカレーとご飯を温めるだけだけど」
「カレーって……カレーライスの事?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「やった!」
ぼくは思わず、喜びのあまり飛び跳ねた。
数多の香辛料が混ざり合って茶色に染まったとろみのあるスープと、それに煮込まれて柔らかくなった肉や野菜を、炊いた白米の上に掛けた料理……カレーライス。ぼくの一番の好物だ。
はしゃぐぼくの姿を見て、真理花は眼を細めて笑う。
「そんなに好きなんだね、カレーライス。……意外と子どもっぽい所もあるんだ」
「ぼくにも準備を手伝わせてよ。……そうだ、ご両親はどちらに」
「お父さんとお母さんは今朝、家を出たの。あなたに会ったらよろしく伝えておいてくれって言われた」
「もう仕事に行ったの? 会って挨拶したかったのに、残念」
聞けば真理花と真介の両親は夫婦で会社を経営しており、多忙で家にいる時間は少ないらしい。その分、その少ない時間を優先的に子ども達のために使う人達であり、今回のように仕事を優先させるのは逆に珍しいそうだ。真介曰く、自分に対しては良い意味で放任主義な両親で、探偵になりたいという息子の夢も否定せず、多額のお金が掛かる留学にも、躊躇わずお金を出して後押ししてくれたらしい。
真理花を手伝って夕食のカレーライスを準備した。飛行機で出された機内食よりも遥かに美味しかった。程よいスパイスが長旅で疲弊し、十二月の気温で冷えた身体に良い着付けの刺激となる。カレーを食べながら最近のお互いの近況や、読んだ本について話をした。
真理花の通う学校では毎年十月になると、生徒同士が様々なスポーツで自身の体力や技術を競い合う行事をしているらしい。ぼくはそのような行事に参加をした事がなく、馴染みのない話であったので、非常に興味をそそられた。
「リレー走に綱引き、組体操……どれも面白そうだね。きみはどんな競技に参加したの?」
「わたしは体力がない上に、両親から参加を許可されなかったから何にも出てないよ。その代わり、クラスの皆から色んな意見を取り入れてダンスの振付を考えたり、皆の活躍をカメラで写真や動画に収めたりしたよ。裏方で活躍するわたしを先生方も評価して下さって、特にわたしが作った応援幕は特別賞も貰ったんだ」
真理花は誇らしげに語るが、言葉の節々にどこか寂しげな響きがあった。……やはり本当は、自身もその行事に裏方としてではなく、選手として直接参加をしたかったのだろう。
最近読んだ本について真理花は、夕日僧馬という作家の少女探偵シリーズを挙げた。彼女もまた、ぼくや真介と同様に推理小説が好きだが、人が次々と惨殺されていくような話よりも、同世代の可愛らしい少年少女の探偵が登場し、日常の謎や奇天烈な謎を解いていく話が好きだった。
「そのシリーズの事は知らなかったな……あるかどうか分からないけど、ぼくも今度、本屋で買って読んでみるよ」
「今度と言わず今読めるよ。この間、お父さんが全巻買ってくれたんだ。わたしは『神座町のカラクリ屋敷』が一番面白かったかな。後で貸してあげるね」
会話が途切れるのを見計らい、ぼくは切り出した。
「そうだ。いきなりの話で驚くかもしれないけれど、ぼくと一緒にスキー旅行へ行こうよ」
両親や真介には告げなかったが、例え一緒に行く人の数が減ってしまったとしても、自分だけでもスキーに行くつもりでいた。真理花を誘ったのは、やはり一人で行くのはいささか心細かったからだが。
真理花はやや困惑したような笑顔を浮かべた。
「確かに行ってみたいのはやまやまだけど、わたし達だけで旅行なんて行ったらお父さんとお母さんに叱られるよ」
「そんなの、ご両親が帰ってこられるよりも先に帰ってくれば問題ないじゃないか。きみ、スキー旅行に連れて行ってはもらえてるものの、肝心のスキーはさせて貰えないんだろ? それにもし、さっきタクシーで話したウイルスが日本に入ってきて全国に広まったとしたら、気軽に旅行になんて行けなくなるだろう。これがスキーの出来る最後のチャンスかもしれない。このチャンスを逃すつもりかい?」
こうしてぼくは、どこか鬼気迫る口調で真理花を刺激し、彼女の首を縦に振らせたのだった。
夕食を終えると、ぼくらは旅行の計画を立て始めた。
「長野や広島が有名みたいだけど、スキー場や泊まる宿はどこにしようか?」
「日帰りじゃないの?」
「当たり前じゃないか。数日間スキー三昧」
「……分かった。ちょっと待ってて」
真理花は自身のスマホでどこかへ電話を掛けたが、しばらく先方とやり取りをした後、浮かない顔をしてぼくに言った。
「ごめん。毎年家族と一緒に行ってる長野のペンションに予約を入れようとしたんだけど、もうシーズン終了まで予約が埋まってるらしくて駄目だった」
「宿探しならぼくも手伝うよ。そうだ、あえてあまり有名でないようなペンションに泊まるのも新鮮味があって面白いかもしれない。〝吹雪の山荘〟に出てくるような山奥にあるペンションなら、本当に事件が起きてスリルに満ちた体験が出来るかも」
「もしそうなったら魁くん、ちゃんとわたしを守ってよね」
ぼくの悪趣味な冗談を、真理花は笑って応えてくれた。
ぼく達はインターネットを用いてペンションを探した。あまり有名ではなく、山奥にあるようなペンションを。そして、これらの条件を満たす長野県にあるペンション『スケープゴート』を探し出し、翌日夕方からの予約を入れたのである。
初めて計画を立てた旅行を、両親を交えず友人と二人で行くという非日常感に、ぼくの胸は高鳴っていた。真理花に無理強いをした事は申し訳なかったけれど、その代わり、楽しいひと時を彼女に過ごしてもらおうと心に誓ったのだった。