【第五章 推理なき解決】 2
部屋の中は飛び込んだ時と何も変わっていなかった。それはベッドの上に横たわる真理花も例外ではなく、彼女の瞼は固く閉じられたままだった。
「真理花、岳飛さんは地下室へ閉じ込められたよ」
声を掛けるも、当然返事はない。
どうした訳か、真理花を殺した岳飛さんに対して怒りなどの感情が湧く事はなかった。捜査攪乱の目的もあったのだろうが、何かとぼく達に気を遣ってくれた彼を、恨む事が出来なかった。何の根拠もない勘でしかないが、彼にも何かしらの事情があったような気がしてならなかった。
頭から流れ、その可愛らしい顔を汚している一筋の血が眼に付いた。バスルームへ行き、少し水で湿らせたタオルを持ってくると、すでに凝固したその血を丁寧に拭き取った。……今思えば、これは後の警察の捜査の妨げになったかもしれない。だが仮にその時、脳裏にそれがよぎったとしても、ぼくはこの行動を止めなかっただろう。
血を拭き取っていくその作業の中でふと、以前真介から聞かされた真理花の破天荒なエピソードを思い出した。
ある日突然、真理花が誰にも行き先を告げずに家を出て行き、行方をくらました。両親は一日掛けて彼女を探し回るも、とうとう見つける事が出来なかった。
事故か? ……まさか誘拐?
両親が警察に捜索願を出そうとした矢先、父方の祖父母から電話が入り、彼らから真理花が東京から飛行機を用い、たった一人で沖縄の自分達の家へやってきたと告げられた。どうも遠足に行く事を許可してくれなかった両親に対する当てつけであったらしい。真理花はしばらく祖父母宅で過ごす事となったが、そこでも精力的に活動し、現地の人間ですら滅多に見る事の出来ない動植物をいくつも探し出し、人々の度肝を抜いたという。
真理花が保育園に通っていた頃の話である。
ぼくは真理花が羨ましかった。例え、どれだけ両親に反発心を抱いたとしても、ぼくにはこんな事をする度胸も行動力も持ち合わせていない。
しかしもう、そんな強情で破天荒な女の子は、ぼくの眼の前で亡骸となっている。
血を拭き終えて、真理花の顔を改めて見た。短い付き合いではあったものの、その関係は兄の真介と同様、本物の兄妹のように濃密なものだった。おそらく彼女もそう思ってくれていた事だろう。
もっと彼女と一緒に過ごしたかった。真介も交えて、もっと読書会やスキーをしたかった。
時計を見ると、すでに十時を回っていた。手足が重く、相当の疲労を身体が感じていたにも関わらず、不思議と少しも眠くはなかった。
布団をめくると、真理花は両手を胸の上に乗せていた。その姿はまるで、すでに棺に納められているかのようだった。
……話が……
発作で倒れる直前の真理花の言葉を思い出した。一体、彼女は最後にぼくに何を言おうとしていたのだろう。当然事件の話ではあろうが、それが解決した今更、考えても仕方がない。
膝を付き、生前以上に青白くなった真理花の横顔を眺めている内に、ぼくはいつしか彼女が横たわるベッドに顔を埋めて眠りに落ちていた。
――ぼくはこの事件に対して様々な後悔がある。
強引に真理花を旅行へ連れて行った事。
通信手段が乏しく、簡単に孤立してしまうようなペンションを宿泊先に選んだ事。
嫌がる真理花を誘って殺人事件を捜査した事。
そして、全てが終わったと思い込み、その後、事件について少しも考察をしなかった事。
岳飛さんのあの言葉。もしかするとあの後、気が変わって現場を覗き、凶器が花瓶であると知ったのかもしれない。決定打となった中田さんの財布にしても、誰かが岳飛さんに罪を着せるため、彼がいない隙に部屋に忍び込んで置いた物だったのかもしれない。
少し考えてみれば、いずれも決定的な証拠にはなり得ないのだ。
――後に、今述べた事柄は全て間違いであるのが分かるのだが、それでもこうして考察を、推理を重ねていくべきだった。そうしていく内にもしかすると真相まで辿り着き、最後の悲劇を未然に防ぐ事が出来たのかもしれないのだから……




