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第8話 ふたりの関係



 ──目覚めたとき、ミラベルの記憶が濁流のように流れ込んできた。

 グウェナエルとミラベルが別れたあの日から五年。ミラベルとルイーズ、そしてディオンが、ルエアーラ幽谷で身を隠しながら過ごした日々の記憶だ。

 ミラベルの記憶にあるルイーズは、幼いながらも賢く聡い子だった。

 だが、その賢さこそルイーズにとっては〝危険〟なのだと、ミラベルは言う。


『お願い、グウェン。あの子を守って。そして、正しく導いてあげて』


 ルイーズがその身に宿している力は、到底計り知れない。

 大聖女と謳われたミラベルさえも超える力──それは得てして、ルイーズという存在自体を蝕む枷となりかねないのだと、彼女は神妙に告げた。


『ルゥはいい子すぎて、いつもひとりで抱えてしまうから。賢いからこそ、自分自身には疎いのよ。心の傷も、痛みも、見なかったことにしてしまえるの』


 よほど愛娘が心配だったのだろう。肉体が失われながらも意思の欠片となって現れたミラベルは、久しぶりの再会だというのにルイーズのことばかり話していた。

 だが、それでよかった。

 ルイーズは、ふたりにとって、なににも代えがたい宝物だから。


『ごめんね、グウェン。わたしは、本当の意味であの子を守り抜いてあげられなかった。小さな世界に閉じ込めて、危害が及ばないようにするのが精いっぱいで』


「そんなことはない。おまえはよくやっていた」


『ありがとう。でも、もう守ることもできなくなってしまった。だから今度は、あなたに託すわ。……パパなら、あの子を正しく導いてあげられるでしょう?』


 クスッといたずらに笑うミラベルは、なにも変わっていなかった。

 大聖女の名にふさわしく聡明で、温かく、まるで花のように笑う人。それでいてミラベルは、時折、驚くような行動力を発揮するのだ。かつて、息抜きに出かけた人界で偶然出逢ったときのことを思い出すたびに、グウェナエルは笑ってしまう。


「まあ〝正しく〟かはわからんが……踏み外さんように見守ることはできる。人がそうするやり方は、かつてのミラベルから学んだからな」


 彼女の穢れのない純心は、いつだってグウェナエルを癒し、導き、守ってくれた。


「俺はただ、父としてあればいいのだろう?」


『ふふ、そうね。きっとそれが、あの子にとって標になるわ』


「ああ。──なあ、ミラベル。俺はずっと、おまえのことを愛しているからな」


『知ってる。でもね、わたしもよ、グウェン。あなたをずっと愛してる』


 額が合わさる。

 触れ合った箇所から伝わってくる温もりに、グウェナエルは笑みを深めた。

 たとえ五年離れ離れでも、この気持ちは変わらない。

 グウェナエルはたしかにいまも、彼女を恋い慕っていた。


『グウェン。どうかわたしたちの娘を、もっと広い世界へ連れ出してあげてね』


 それこそが、聖女の睡宝に込められたミラベルの意思であり、願いなのだろう。

 受け取った言葉は、グウェナエルの心に棲みつき、深く響いてゆく。

 そうしてグウェナエルは誓い、決意したのだ。


(ああ……守り、導き、連れ出そう。ふたたびすべてを賭けてでも。俺たちの娘が、この先、正しい道を歩んで行けるように)


 覇者ではなく、夫として。父として。

 愛する者のために、いま一度、この身の自由を世界に捧げようと。



「……陛下、まだ起きておられたのですか?」


 ぱち、ぱち、とくべた薪が小さく爆ぜる石造りの暖炉前。

 手作りのロッキングチェアに揺られながら思考に耽っていたグウェナエルは、自身へ投げかけられた声に視線だけついと上げた。


「ルイーズはどうした、ディオン」


「布団に入って、すぐお眠りになりました。久しぶりの我が家ですから安心したのでしょう。いまはベアトリスがそばについてくれています」


「そうか。ならばいい」


 ディオンにも座るよう促せば、彼はとくに恐縮することもなく対面の椅子に腰を下ろした。


(ふっ……こいつも変わらんな)


 普通の悪魔ならば『大魔王を前に恐れ多い』と絶対にしない行動だ。だが、グウェナエルは昔から、ディオンのこういったところをなにより気に入っていた。

 この男にとって〝主〟以外は、敬意こそ示せどそれ以上にはなり得ない。その線引きがしっかりとできているからこそ、むしろ信頼がおけるとも言える。


「よろしかったのですか? 姫さまが一緒に寝たかったと仰っていましたよ」


「……さすがに今日はな。慣れぬ存在とでは深く眠れんだろうし、もう少し距離を縮めてからの方がいいだろう。頃合いを見て、今度は俺の方から誘ってみるさ」


「そうですね」


 そこで一度言葉を切ると、ディオンはわずかに睫毛を震わせた。


「こう言ってはなんですが……むしろ自分は、姫さまが素直に陛下を〝父〟として受け入れていることが驚きなのです。正直、心配なくらいに」


 だろうな、とグウェナエルは口にこそしないが同意する。


(ほかならぬ俺もこれは予想外だ。……拒絶されるよりは、まあマシだが)


 立場的に致し方なかったとはいえ、ルイーズは五年間──人生のほとんどを、この未開の地〝ルエアーラ幽谷〟で引きこもりながら過ごしている。

 普通なら、慣れない他者に遭遇しただけでも取り乱しておかしくない。

 にもかかわらず、ルイーズはいっそ違和感を覚えるほどに受け入れていた。


(ベアトリスの件もそうだが、やはりあの子は少し物わかりがよすぎるな)


 物事のすべてを達観しているように見える。およそ五歳児とは思えぬほど。

 一方で抱っこをせがんできたりと、時折、見目通りの子どもらしさも持ち合わせているし、どうにも掴めないものを持った幼子だ。我が娘ながら攻略にはなかなか時間を要しそうだ、というのがグウェナエルの率直な感想であった。


「ところで、ディオン。魔界はいまどうなっている?」


 グウェナエルは、わずかに声音を落として尋ねた。


「魔界、ですか。こちらに来てからは、自分もごくたまに様子を見に戻るくらいだったので、ある程度の現状しかわからないのですが」


「かまわん。状況さえわかればいい」


 即答すると、ディオンは苦笑しながら「承知」と頷いてみせた。


「まず、そうですね……。現在の魔界は、陛下が封印される前とは体制が大きく異なっています。かつて陛下がおひとりで支配していた地は大きく三つに分かたれ、それぞれの地を各魔王が治めている状態です」


 魔界──それは、その名の通り悪魔が棲みつく世界だ。

 人界とはクウェアータ森林という濃霧の森を通して繋がっているが、普段は立ち入り禁止になっているために、人も悪魔も互いの世界を行き来することはない。


「そこまで変わって、人界との関係に変化はないのか?」


「ええ、人界とはとくに変わりありません。……クウェアータ森林は、陛下とミラベルさまの件があってからより警備が強化されたようですが」


「はっ……ま、そうだろうな」


 グウェナエルがミラベルと別れることになった地。それがまさに、このクウェアータ森林であった。あの〝最後〟を思い出すと、いまだに苦いものがこみ上げる。


「それで? 魔王はともかく、大魔王はいないのか」


「いたらびっくりでしょう。いったいどこから持ってきたんですか、その称号」


「作ればいいだろう。俺など死んだようなものだし」


「なにを寝ぼけたことを……。一部、陛下の座を継ごうと〝自称〟で名乗りあげた悪魔はいたようですが、それらは総じて魔王に潰されてますよ」


 えらく剣呑な目をして、ディオンがわざとらしく肩を竦めてみせる。


 その様子がなんともツボを突いて、グウェナエルはつい苦笑してしまった。


「物騒だな」


「悪魔なんて別名〝物騒〟みたいなものです」


「まあ、否定はせんが。とくに人からすれば、我らの文化は到底理解できんものだろうからな。ミラベルも、階級の奪い合いについては常に嫌悪を示していた」


 悪魔の階級は上から大魔王、魔王、上級悪魔、中級悪魔、下級悪魔と続く。魔界の悪魔の六割は中級悪魔で、その他はだいたい一割ずつという内訳だ。

 階級は完全に実力主義で、己の称号より高位なものを得たかったら、その称号を持った相手を倒せばいい。すると、物理的にその者より強いことが証明されて階級が入れ替わる。難しいことなどいっさいない、至極明快で、至極単純な文化だ。

 とはいえ、最高位の〝大魔王〟という称号においては特別だった。

 なにせこれは、魔界でたったひとりしか得られない称号だから。

 その称号を得た者こそ、史上最強の悪魔として魔界の覇者に君臨するのである。


「しかし、そうか。ならばせめて、封印される前に大魔王の称号だけでも置いていけばよかったな。あのときはそこまで頭が回らなかったが」


「いやいや……そんな爆弾だれも背負えませんし、ぽんと置いていかれても困るでしょう。現在の魔王三名だって、どうせ陛下の足元にも及びません」


「わからんぞ。なにせ封印前に消費した魔力は回復しきっていないうえ、五年も眠っていたせいで身体がえらく鈍っているからな。いまおまえに奇襲をかけられたら、案外一本取られるやもしれん」


「ご冗談を。──まあ、姫さまに危害を加えようとするなら話は別ですが、あなたに限ってそれはないですしね」


(……どこまでも従者の鑑だな、こやつは)


 本気でやり合ったら、本当にいい線までいくかもしれない。

 なんにせよ、自身が去ったあとの魔界が気がかりだったグウェナエルとしては、どんな形であれ均衡が保たれているだけで吉報だった。


「で、その魔王たちの名はわかるか?」


「はい。ひとりは魔王ブレイズさま。かつて、陛下に挑み敗れた者ですね。あれからさらに力をつけて、上級から魔王へのし上がったそうです。現在は東のランベス炎獄の地を支配していると聞きました」


「ああ……あいつか。たしかに、骨のあるやつだとは思ったな」


 グウェナエルは、かつて戦ったときの記憶を思い起こした。

 ブレイズはとにかく野性味に溢れ、血の気が多い。常に力を求めており、己よりも強い悪魔に喧嘩を売っては高みを目指す、ある意味悪魔らしい悪魔だった。

 魔界にいた頃は、しょっちゅう相手をしてやっていた気もする。

 まあ、グウェナエルからしてみればまだまだヒヨっ子悪魔でしかなかったが、どうやらこの五年でまた成長したらしい。


「もうひとりは、魔女王ララさまですね」


「ララ? あのとんでも能天気なララ姫か?」


「ええ、そのララさまです。能天気ぶりは相変わらずなようですが、彼女、あれでも実力者ですからね。ちなみに、支配しているのは北のカルタッタ氷山脈付近です」


 ララはブレイズとはむしろ真逆な性質で、能天気、マイペース……捉え方を変えれば、温厚かつ超平和主義な悪魔だ。異常に〝美〟へのこだわりが強い点は厄介だが、ディオンのいう通り、実力はある。魔王の座に就くのも納得ではあった。


(ブレイズに、ララ。すでに癖が強いな)


 よいのか悪いのか、と思わず苦笑してしまいながら、グウェナエルは尋ねる。


「で、最後のひとりは?」


「エヴラールさまですよ。陛下もよく知るお方でしょう?」


「……エヴラールだと?」


 脳裏に浮かんでいた名前のどれでもない、予想外の悪魔だった。

 グウェナエルは内心面食らって、思わず片眉をつり上げながら腕を組む。


「あの男が魔王など……正直、信じられんが」


「自分も最初に耳にしたときは驚きましたよ。陛下の側近のなかでも目立った印象はありませんでしたし、あまり権力には興味がなさそうに見えていたので」


 エヴラール。その男はかつて、グウェナエルが大魔王として魔界を支配していた時代にそばに置いていた配下のひとりだ。

 当時の階級は上級悪魔で、魔力量も実力も申し分ない。加えて頭もきれるため、参謀、そして懐刀としても優秀な側近だった。

 グウェナエルも背中を預けられるほどには信頼を置いていたし、配下のなかでもとりわけ気にかけていた者でもある。

 だが、ディオンの言う通り、とにかく〝王〟である想像がつかない。


(……どちらに転んだか。ふむ、考えたところでわからんことだが)


 グウェナエルはしばし思考を巡らせたのち、静かに立ち上がって窓へ近づいた。

 星々が瞬く空を見上げれば、薄がかりの霧越しに欠けた月が見える。


「ディオン。俺は明日、魔界に戻る」


「様子を見に行かれるので?」


「ああ。なにはともあれ、状況を確かめねば今後の方針が決められんからな」


「承知しました。姫さまはいかがされますか?」


「俺と行きたいと言えば連れていくし、ここにいたいのならその意思を尊重する。その場合は、魔界の状況を確認でき次第、こちらに帰ってくるつもりだ」


 ディオンは瞳孔をわずかに広げながら、静かに問うてくる。


「こちらに、ということは……魔界はもうよろしいので?」


「俺はかつて、魔界より愛する者──それも〝人間〟を選んだ裏切り者だぞ。魔界が破綻し崩御しかけているならまだしも、現状問題なく成り立っているなら、いまさら俺の出る幕はないさ。俺にはもう守らねばならんものもあるしな」


「……なるほど。承知しました。陛下のお心のままに」


「その〝陛下〟というのもやめろ。大魔王という階級も捨てたいんだ、俺は」


 悪魔階級は、古より根付いた概念、文化だ。

 悪魔である限り、この世に生がある限り、そう易々と捨てられるものではないことはグウェナエルとてわかっている。


(少なくとも魔界を支配する者ではなくなった以上、配下でもない者に〝陛下〟と呼ばれるのは筋が通らんだろ)


 そんなグウェナエルの意思を察したのか、ディオンは苦笑しながら了承した。


「ならば、親しみを込めて〝グウェンさま〟とお呼びしても?」


「ああ、かまわん」


「グウェンさまも、よろしければディーとお呼びください」


「いや、それは遠慮しておく。あまりおまえと親しくなりすぎると、ルイーズに変な嫉妬を向けられそうだろう。嫌われたら困る」


 ルイーズは、ディオンに対してそれこそ全面の信頼を置いている。

 誰にも脅かされることのない、不可侵的存在。

 まだ幼く心も身体も完成しきっていない彼女にとって、ディオンの存在自体がなによりも強固な地盤であり、剣であり、盾なのである。

 それはある種の〝軸〟と言ってもいい。


(とりわけ母親を失ったばかりで不安定な状態だからな。俺がディオンを支配しているように見える様子はあまり見せない方がいい)


 そこまで考えたとき、なぜだか唐突に、ディオンに倣って忠誠の証を見せてきたルイーズを思い出した。同時に、胃がキリキリと痛み始める。

 誰かに跪かれてこうも背筋が凍るような気分になったのは、初めてだった。

 正直、あの感覚はもう二度と体験したくはない。


「……なにはともあれ。これからもルイーズをよろしく頼むぞ、ディオン」


「はい。たとえこの世界が滅びようとも、自分だけは姫さまの……ルイーズさまの味方でありますから、どうかご心配なさらず」


 頷いて返し、グウェナエルは憂いを宿しながらふたたび月を見上げた。

 それは熟しきった果実のような、淡く赤みがかった──少々、不吉な夜だった。


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