第7話 父との再会
◇
身体の力がガクッと抜ける感覚と同時に、ルイーズを包んでいた光が解けた。
「姫さま……っ」
ぽてっと尻もちをついたルイーズのもとへ駆け寄ってきたのは、顔面を蒼白にしたディオンだった。どうやらあの真っ白な空間から放り出されたらしい。
「ディー……?」
「いったいなにが……!? 突然、姫さまが光に包まれて──」
なにかを言いかけたディオンだったが、ふいにハッと息を呑み、口をつぐんだ。
彼が見上げた先を追ってみれば、なんと石碑の上に〝父〟が浮かんでいた。
「パパ」
ルイーズはほぼ無意識に呟く。
その小さなひとことに「パッ!?」と目を剥いて後ずさったのはベアトリスだ。
唐突に大魔王グウェナエルが現れたともなれば、混乱するのも無理はない。
気の毒に、棒立ちしたまま絶句してしまっている。
だがもはや隠せる状況でもないので、ルイーズは早々にごまかすことを諦めた。
「……くくっ。いやはや、まさか娘に起こされる日がくるとは思わなんだ」
瞑目していた彼は、トン、と軽く地面に降り立つと、ようやく瞼をあげた。
「これほど幸福な目覚めはないな。とても気分がいい」
ルイーズへ視線を落としたグウェナエルの面持ちは、ただ穏やかだった。
微笑を浮かべた彼が歩みを進めると同時に、ルイーズを支えるように付いていたディオンが一歩下がった。姿勢を正して片膝をつき、胸に手を当てて頭を垂れる。
一方、ルイーズはどこかぼうっとしながら〝父〟を見上げた。
「ふむ、ミラベルによく似ている。人寄りなのだな、ルイーズは」
「……うん。ルゥ、ママにそっくりなの。でもね、パパにも似てるんだよ」
思いのほか優しげな物言いに、ルイーズの緊張は容易く解けた。
よろよろと立ち上がり、グウェナエルに向かって「だっこ」と両手を伸ばす。
「なんだ。さっそく甘えてくれるのか?」
グウェナエルはどこか嬉しそうに目を細め、ルイーズを抱きあげた。
(ん? 視界が高い?)
抱えられてみると、ディオンよりも幾分か背丈があるようだった。
そのぶん地面との距離も生まれるが、グウェナエルはしっかりとルイーズを抱えてくれているので不安はない。存外、その抱きかかえ方はこなれていた。
「この耳はね、パパとおそろい」
ルイーズはグウェナエルの左耳に右手を伸ばす。
空いた左手で自身の髪を払い、いつもは隠している耳を露わにしてみせた。
「ね?」
「……ああ、本当だ。俺の耳とそっくりだな」
グウェナエルの声は低く落ち着いた響きを伴っていた。それでいてしっとりと鼓膜の奥まで届くので、いっそ心地よく、なんだか眠たくなってきてしまう。
(怖いけど、怖くない。不思議な感じ)
懐かしい、と表現してもいいのかもしれない。生まれたばかりのルイーズが父と過ごした時間はわずかだったはずだが、心や身体が覚えているのだろうか。
「ねえ、パパ。ママと会えた?」
「会えたさ。ルイーズのおかげでな。おまえが連れてきてくれたのだろう?」
「ママ、ずっとパパに会いたがってたから」
ルイーズだけが見えていたわけではないのなら、やはりあれは都合のいい幻覚などではなかったのだろう。
ならば、さきほど感じた家族の絆も気のせいではない。
「あのね、ルゥもね……パパに会いたかったよ」
「……俺もだ、ルイーズ。眠っている間、深淵に囚われた意識のなかで幾度となくおまえたちのことを考えた。たかが五年、されど五年──愛娘の成長をこの目で見られなかったことは、俺のなかで最大の過失になるだろうな」
悔いを噛みしめながら述べ、グウェナエルはルイーズの髪越しに口づけた。
慈愛に満ちたそれは、ルイーズの不安定だった心を優しく包んで癒してくれる。
思わずぐりぐりとグウェナエルの肩に額を押しつけると、その様子を見ていたディオンが「姫さま……」と涙声で呟いたのが聞こえた。
「ディオン。おまえにも、世話をかけたな」
「っ……いいえ、陛下。自分は賜ったお役目をまっとうしたまでに過ぎません。なによりこれは自分で選んだ道ですから」
「くく、そうか。相も変わらず律儀なやつだな」
ディオンはもともと、大魔王グウェナエルの配下だったのだという。
だが遥か昔、とある出来事で命を救われミラベルの使い魔になることを決めたとき、グウェナエルは『おまえはおまえの道を行け』と快く送り出してくれた──。
ルイーズは以前、ディオンからそう聞いたことがあった。
「……少し、待ってくれないか」
ふいに震えた声で会話を遮ったのはベアトリスだ。
「わたしには、もはやなにがなんだかわからないのだが……本当に大魔王グウェナエルなのか? パパとはなんだ。ルイーズさまは、人ではない、と?」
「いかにも、俺はまさしく〝大魔王グウェナエル〟だが。ルイーズに関してはどちらとも言えんな。人でありながら悪魔の血を持つ。どちらの純血でもない」
グウェナエルの手が、慈しむようにルイーズの頬に触れた。
「……どこの誰かは知らんが。おまえもこの国の人間なら知っているだろう? 大魔王グウェナエルと大聖女ミラベルが犯した〝最大の罪〟は」
静かに返された言葉に、ベアトリスは両眼を見開いて身を硬くする。
(うん。まあ、びっくりするよね。でも、大魔王を前にしても取り乱さないのはすごいかも。さすが、騎士さま。精神力がつよつよだ)
封印されていた大魔王が目の前で解き放たれたというのに、ベアトリスは困惑した様子を見せながらも冷静さを失ってはいなかった。
そのことに素直に感心しながら、ルイーズは彼女を見遣る。
「……ごめんね、おねえさん。ルゥのこと、こわくなった?」
名前を知ったあとも『おねえさん』と呼んでいるのはわざとだ。今後のことを考えれば、なるべく距離を引き離しておく方がいいと思ったから。
「そんな……そのようなことは、ありません」
だが、ベアトリスはまたもや予想外の反応を示した。
「──ルイーズさまは、わたしの天使さまなのです」
ベアトリスは、一瞬だけ悲しそうに瞳を曇らせる。そのままディオンのとなりに並ぶよう前へ進み出ると、同じように片膝を地について頭を垂れた。
「たしかに驚きはしました。ですが、ルイーズさまが心優しく温かいお方だということはもう存じております。どうして怖いなどと思いましょうか」
「でも、ルゥは……」
「あなたがたとえ〝罪〟であっても関係ありません。なにせわたしは国から捨てられた身。むしろ、潰えるはずだったこの命を救われた瞬間から、わたしのすべてはルイーズさまのものです。あなたを否定するようなことだけは、絶対にしない」
向けられたのは、思っていた以上に重量のある言葉。
ルイーズは一瞬びしりと固まりながら、その重さに妙な既視感を覚えた。
「……ルイーズさまの御父上殿。さきほどのご無礼、どうかご容赦を。申し遅れましたが、わたしは貴殿の娘さまに命を救われたベアトリスと申します」
「ふむ。ルイーズにか」
「はい。ルイーズさまがわたしを見つけてくださらなかったら、わたしはすでにザーベスの亡霊となっていたでしょう。改めまして、心からの感謝と、忠誠を」
忠誠?と、ルイーズは目を瞬かせて首を傾げた。
一方、グウェナエルはベアトリスの騎士然とした態度に機嫌をよくしたらしい。
満足そうに目を細めると、深く顎を引いて応える。
「害のある人間ならば排除しようと思っていたが、やめておこう。ルイーズが救った命ならば、父親の俺も守らねばならないからな。その命、大事にするといい」
「はっ。寛大な御心に感謝いたします」
上に立つ者──覇者としての風格には、さすがのルイーズも圧倒された。そしてふと、自分もディオンやベアトリスのようにへりくだった方がいいのかと迷う。
いくら娘とはいえ、ほぼ初対面だ。それも大魔王。抱っこされている時点でいまさらな気はするが、ルイーズとしても大魔王の機嫌は損ねたくない。
なんといっても、今後、末永く付き合っていくだろう相手だ。
「パパ、ごめんね。ルゥ、おりるよ」
「うん? なぜだ」
「おろして」
眉尻を落としつつ、グウェナエルは名残惜しそうにルイーズを降ろしてくれた。
地に足を付いたと同時、ルイーズはタタッとディオンのもとへと駆ける。
「こら、どこへ行く」
ディオンとベアトリスの真似をして、その場に片膝をついてしゃがみ込む。胸にちょんと手を当て、ぺこりと頭を下げれば、小さいながらも立派な忠誠ポーズだ。
もちろん、敬意を向ける相手は、絶賛硬直中の父親である。
「パパ……じゃなかった。おとうさま……じゃない。えっと、ちちうえ……?」
「そうですね。正式な場では父上がよろしいかと」
「うん。じゃあ、父上。お会いできて、うれしいです」
小声で助言してくれたディオンに感謝しつつ、最大限のお淑やかさで告げる。
だが、グウェナエルは片手を顔に当て、なぜか悲愴な様子で天を仰いでしまった。
「……やめてくれ、ルイーズ。おまえはそんなことしなくていい。娘だろう」
「でも」
「呼び方も〝パパ〟でいいんだ。ミラベルを〝ママ〟と呼ぶのに、父親だけ父上なんて他人行儀すぎるしな。頼むから、普通の親子らしく接してくれ」
大股で歩いてきたグウェナエルに、ルイーズはまたもや抱き上げられる。
(パパにいらないって言われたら、ママのとこに行こうって思ってたのに)
どうやらこちらも、思っていた以上にルイーズへの愛が深いらしい。
これでは逃がしてはもらえなさそうだ。
純粋に嬉しい気持ちはあるけれど、一方でやはりどこか慣れないこそばゆさを感じてしまいながら、ルイーズはグウェナエルに抱きついた。
「……じゃあ、パパも〝ルゥ〟でいいよ。ママも、ルゥって呼んでたの」
「そうか。ならばそう呼ぼう。──ルゥ」
「うん」
グウェナエルは安堵を滲ませながら目許を和らげて、ルイーズを撫でた。
「さて……目覚めたからには、このような悪質極まりない場所にもう用はないな。早々に立ち去るとしよう」
「ルゥのおうち、帰る?」
「そうだな。ミラベルの記憶上ではルエアーラ幽谷だったが、相違ないか?」
「うん。でも、帰れるかな?」
戻るにも、まず道がわからない。そのうえ、このザーベス荒野は、一度足を踏み入れてしまえばもう二度と出られないとも言われている場所だ。
だからこそ、ルイーズたちも立ち往生してしまっていたわけで。
(おうちなんて、もう二度と帰れないかもって思ってたけど)
ルイーズが頭を悩ませたところで、グウェナエルはパチンと指を鳴らした。
その瞬間、グウェナエルの足元に見たことのない魔法陣が浮かびあがる。同時に、あたりに吹き飛ばされそうなほどの強風が巻き起こった。
「……っ!?」
「ふむ……想定内ではあるが、封印前に消費しつくした魔力はまだ回復しきっていないようだな。まあ、問題ない。転移くらいならばできるだろう」
「てんい?」
「空間移動の闇魔法さ。知っている場所へならどこへでも飛べる。ルエアーラ幽谷はミラベルの記憶を辿ればいけるはずだ」
「ママの、記憶?」
「さきほど封印が解かれたときに、ミラベルの記憶の一部を共有してな」
呆気に取られたルイーズは、つい振り返ってディオンを見てしまう。
するとディオンは、少し気まずそうに苦笑した。
「記憶の件はわかりかねますが……。空間移動──転移魔法は、闇魔法でも最上級に値する古の魔法だと言われています。使えるのは魔王レベルの者のみでしょうね。不甲斐ないですが、上級の自分には使えません」
「え。パパ、すごいね?」
「それほどでもない。どれだけ力を有していても、肝心なときに守れねばなんの意味もないからな」
なにか含みを持たせて返したグウェナエルは、ディオンとベアトリスにそばへ寄るよう指示を出した。ベアトリスはしばし躊躇っていたものの、ルイーズが手招いたことで意を決したらしい。おずおずと魔法陣に足を踏み入れる。
「陣から身体を出すなよ。出した部分だけこの場に残るぞ」
さらっと恐ろしいことを告げたあと、グウェナエルはふたたび指を鳴らした。
──その瞬間、ルイーズたちはザーベス荒野の景色から消える。
そうして瞬きの刹那、次にルイーズの視界に映ったのは。
「ルゥの、おうちだ……」
ひどく懐かしい、もう二度と帰れぬと思っていた大好きな我が家であった。