第13話 エヴラールが背負うもの
◇
「どうぞ、陛下。適当にお座りください。葡萄酒でよろしいですか?」
「ああ」
エヴラールがグウェナエルを案内したのは己の執務室だ。
この城に話の邪魔をする者はいないが、呑み交わすのなら慣れた場所がいい。とりわけエヴラールにとっては、勝手知ったるこの部屋が一番落ち着く場所なのだ。
(……五年ぶりだというのに、変わりませんね。陛下は)
毅然と座っているだけで、ただのソファが豪奢な玉座に見えてくる。
それは圧倒的な王としてのカリスマ性がなせることなのか、あるいは彼の存在自体がこの世を統べるものとして構成されているのか。
どちらにしても、彼ほど〝王〟に相応しい者は他にいない。過去も未来も、きっと二度と現れないだろう。エヴラールは以前より、そう確信していた。
「改めて。お帰りなさいませ、陛下」
「陛下と呼ぶなと言っているだろう、エヴ」
「そうは言われましても。私にとってあなたは絶対的な君主ですから」
向かい合って葡萄酒で乾杯する。グウェナエルの表情は変わらないが、やはりエヴラールが〝陛下〟と呼ぶたびに、ほんのわずかだけ苛立ちが窺えた。
「……先に言っておくが、俺はもう魔界の覇者に戻る気はないぞ」
静かに告げられた言葉に、心の臓がキンと凍ったような気がした。
驚きはしない。予想はしていた。だが、いざ口にされると受け入れがたかった。
「──私が〝魔王〟となったのは、あなたのためですよ。陛下が魔界にご帰還なさったとき、ふたたびその地に返り咲けるように」
「頼んでいないな」
「私はあくまで一時しのぎの〝魔王〟でしかありません。あなただってわかっておられるでしょう?」
「さあ、わからん」
「多くの者がそれを望んでいるのです。他ならぬ私も、あなた以外を〝王〟とは認めたくない。悪魔を──魔界を統べる者は、グウェナエルさま以外に存在しない」
かつてエヴラールは、グウェナエルの側近だった。
彼のそばで働けることを、なにより誇りに思っていた。天下の座で悠然と佇むグウェナエルが、これからどんな軌跡を辿って魔界を発展させていくのか──それを間近で見守っていられることに、このうえない幸福を感じていた。
絶対的な君主。だれよりも尊敬し、敬愛していたのだ。
だからこそ、彼が魔界を捨てたと聞いたときは信じられなかった。
信じたくなかった。納得がいかなかった。
簡単に封印されるお方ではない。あの方は、魔界の頂点に立つ者だ。そんな道半ばで立ち止まることなど許されない。許してはいけない。
だから、いずれ〝王〟が帰還したときのために玉座を守ろうと決意した。
「……陛下。あなたがそうも頑なに〝王〟に戻ろうとしないのは、王女殿下が──ルイーズさまがいるからですか?」
「……娘を貶せば殺すぞ」
「ちがいます。純粋な疑問ですよ」
心を乱さず答えれば、グウェナエルはそれが嘘ではないと判断したのだろう。どこか投げやりな様子で舌を打つと、葡萄酒を片手に立ち上がりベランダへ出た。
仕方なく、エヴラールも後を追う。
「俺を助けたのはルイーズだ」
「っ!」
「まだ赤子に毛が生えたようなものなのに、あの子は数々の危険を乗り越えて俺のもとへ辿り着き、封印を解いてくれた」
「……そうですか、王女殿下が。利口そうな方だとは思っておりましたが」
「利口だとも。あの年頃の幼子とは思えぬ賢さだ。加えて物わかりもいい。ともすれば〝いい子〟すぎるほどにはな」
グウェナエルは葡萄酒に口をつけ、深紅の双眸を眇める。
「俺がいなかった五年──あの子は、ミラベルとディオンにしか関わったことがなかった。人の立ち入らぬ未開の地に引きこもり、世界のいろはをなにも知らぬまま育ったんだ。そうしなければ許されぬ存在ゆえにな」
掟に背き、大聖女ミラベルとの間にできた、人と悪魔の子。
見つかれば決して生かしてはもらえないだろう。そのような極限状態で、五年も人の目から逃れて生き抜いていたことが、エヴラールはそもそも信じられなかった。
そこまで考えたところでふと思い至り、背筋にひやりとしたものが流れる。
「……ミラベルさまは」
「俺が封印を解かれる前に、病でな」
ガツン、と後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
表情には出さないが、エヴラールは内心動揺しながら葡萄酒を煽る。
(あれほど、愛しておられた方を……)
支配していた魔界を捨てる。そんな決断すら迷いなく下してしまうほど、ミラベルはグウェナエルが守りたかった存在だ。
だというのに、まさか再会できぬまま今生の別れになってしまっただなんて。
「同じように喪った者として、おまえならわかるだろう」
「…………」
ほかでもないエヴラールも、息子のリュカが生まれると同時に愛する妻を失った身である。残された者として、己の子の親として抱く気持ちは理解できる。
(……それでも、私とあなたはちがいますよ。陛下、あなたはいつも多くよりたったひとりの愛する者を選ぶ。あなたこそ多くを選ばなければならないのに)
答えず顔を逸らしたエヴラールに、グウェナエルはふっと微笑を浮かべた。
「なあ、エヴ。──上に立つ気分はどうだ」
「っ……」
「いいものか?」
ぎり、とエヴラールは奥歯を噛み締めた。葡萄酒の入った杯を投げ捨ててしまいたい衝動に駆られながら、必死に激情を押し殺す。
「最悪、ですよ。私には向いていません。知れたことでしょう」
「だが、俺は正直、おまえがこうまで〝魔王〟として上手くやっているとは思っていなかったぞ。民を大切にするおまえらしい支配の仕方で感心した」
「褒められているのか貶されているのかわからないのですが」
くつくつと笑い、グウェナエルはベランダの柵に上半身を預けた。
「俺が王だった頃は、もっと魔界の空気が冷えていただろう。土地も民もすべてが本能的で、ある意味〝悪魔らしさ〟があった。それこそが悪魔の求める世であり、悪魔の住む世界として正しいと思っていたからな」
「正しいではないですか。魔王ブレイズの領地は現在もそのような感じですよ。陛下の頃のように統制は取れていないので、ひどく荒れているようですが」
「無論、そちらを好む者もいるさ。だが、この領地の民のように穏やかな日常を望む悪魔も少なからず存在する。おまえ自身がそれを証明しているだろうに」
返す言葉を失い、エヴラールは口を閉ざした。
たしかに、エヴラールの領地の者は、滅多に諍いを起こすことはない。
争えば罰金が課せられる制度を設けたからだ。領地内はだれもが平和に、夜も不安に駆られることなく眠ることができるようにした。
争いたいのなら、領地の外でやればいい。
階級の奪い合いに他者を巻き込むな、と。
「こうしてそれぞれの地を治める〝王〟があればこそ、民は自分に合った地で暮らすことができる。──俺はいい変化だと思うぞ、エヴ」
「しかしそんなのは結果論にすぎません。あなたが魔界を支配していたあの頃は、だれもがそれを受け入れていたのですから」
思いのほかこの制度が支持され現在の領地体制が確立したわけだが、エヴラールとしては自身が抱いていた長年の不満を魔王の権限を以って解消しただけ。
覇者が戻るのなら、この体制の維持を望むことはない。
「……悪いが俺も、もう上に立ちたいとは思えなくてな。それよりは〝大魔王〟という肩書きすらも捨てて、ただの父親としてルイーズの成長を見守りたい」
グウェナエルの声には、ほんのひと欠片も迷いがなかった。
きっとどれだけ説得しても無駄なのだろうと悟る。
昔からそうだ。このお方は一度決めたことを覆さない。いかなるときも己の定めた選択は最後まで貫き通す。そうして魔界の覇者の座にまでのぼりつめた。
ゆえにこそ、愛したミラベルを守ると誓ってしまった彼は、たとえ封印されることとなっても彼女を守るための選択をしたのだろう。
わかっていた。
嫌味なくらい、いっそ恨みたくなるくらいにわかっていたからこそ、エヴラールは足元がぐらつくような感覚を覚えて歯を食いしばる。
「それよりも──エヴ。俺からもひとつ聞きたいことがあるんだが、いいか」
話題を変えたかと思えば、突然真剣な眼差しを向けてきたグウェナエル。
ハッとして彼を見る。夜闇を背後に、燃えるような紅蓮の瞳に鋭く射抜かれた。
「おまえ、その目……見えてないな」
一瞬、呼吸が止まった。
「……いつから、お気づきに?」
「最初からだ」
まさかこのタイミングで〝目〟について指摘されるとは思っていなかった。
それどころか、気づかれていることすら想定外だった。最初から。何故。そんな素振りはいっさい見せていないつもりだったのに。
「最初に攻撃してきたとき、わずかに軌道がズレていただろう。それで違和感を覚えた。次は剣。打ち込んでくる瞬間に、おまえは目を細めていた。加えて左側の反応が遅い。右はまあまあだったが、そのぶん剣筋が昔とはちがった」
「……相も変わらず恐ろしいお方ですね。あの打ち合いの最中でそこまで読み取れるほどの余裕があったとは」
「あんなもの、俺にとっては寝起きの肩慣らし程度でしかないぞ」
エヴラールはもはや苦笑するしかない。
グウェナエルが本物か否かを確認するための襲撃であったとはいえ、なにも手を抜いたわけではなかった。むしろ八割は本気で殺そうとしていたのだ。
「……稀にいるのですよ。あなたの姿を模して私に近づこうとする愚か者が」
「ふん。姿を模したところで己の力は変わらぬだろうに」
「ええ、ですからわかりやすいですよ。私が殺せなければ、陛下は本物。私が殺せれば、偽物です。はたしてもう何名返り討ちにしたことか」
階級文化が築かれてしまっているせいで、その地位と名誉を奪おうとしてくる輩は五万といる。そうして無謀な挑戦の果てに命を散らす者も後を絶たない。
とりわけ頂点に君臨する〝王〟は、常に狙われる立場にあった。
魔王になりたての頃、城に仕えていた悪魔に夜襲をかけられたこともある。
以降エヴラールは、極力そばに置く悪魔を減らし、危険を遠ざけていた。
「話を戻しますが。……この目は、ブレイズとの戦闘時にやられましてね」
あのときのことを思い出すと、苦々しい気分がぶり返す。
グウェナエルが支配していた魔界全土の一部を、入念な話し合いにて魔王ララに譲渡した直後のことだった。彼女とは利害が一致していたし、なにより互いに納得したうえでの領土分割であったからまだいい。
だが、野心家のブレイズはそこに無理やり横やりを入れてきたのだ。
「陛下の封印後、ブレイズはここぞとばかりに魔界全土を支配しようと目論んでいました。無論、そうならないように私が陛下の後を継いだわけですが……あの性格ですからね。私から権利を奪い取ろうと襲撃してきまして、あわや魔界大戦争ですよ」
「……結果は?」
「互角──引き分けですかね。互いに戦闘の続行不可能になるほどの致命傷を負ったので、ララの采配で両成敗になりました。その後は議論の果てに領土の一部を譲渡する契りを交わし、いまの形に落ち着いたというわけです」
魔界全土を守り抜くことはできなかったが、そもそもすべての悪魔を問答無用でまとめ上げられる者など、グウェナエルのほかに存在しないのだ。
一介の上級悪魔でしかなかったエヴラールにしては奮闘した方だろう。
「で、その目ってわけか」
「はい。あちらの闇魔法の衝撃波をもろに食らった結果、左目の視力はほぼ喪失。右目は光を感知できるほどで、すべてが強くボヤけて見えません」
「ほぼ見えていない……にしては、悟らせないな」
「大抵のものは気配でどうにでも感知できますからね。まあどうしようもないときは探知魔法を使いますが、日常生活で困ることはほぼありませんよ」
とはいえ、グウェナエルの指摘通り、こと戦闘においては影響が多大だった。
そこにつけ込まれたら終わりだと決して口外しないようにはしているが、はたしていつまで隠し通せるやら。
「その状態になったのは何年前になる?」
「二年ほど前です」
わずかな間を置いて、グウェナエルは「そうか」と深く息を吐き出した。
「頼んだわけではないにせよ、結果的におまえにすべてを背負わせてしまったことに関しては、これでも悪いと思っているんだ。魔力を大幅に喪失しているいま、大した役には立てんだろうが……ま、なにか俺にできそうなことがあれば相談しろ」
「いえ、ただただ王に戻ってほしいのですが」
「それ以外だ、馬鹿め。俺はなにを言われてももう王の座には戻らん」
パシッと背中を叩かれ、グウェナエルは室内へ戻っていく。その様子を限りなく不明瞭な視界のなかで見届けながら、エヴラールは「陛下」と声をかけた。
「ひとつ……困っていることがあります。お力を貸していただけますか」
さっそくだな、と振り返ったグウェナエルは苦笑した。
あわよくば、魔界に関わるうちに王の座に戻りたいと思ってくれたら──そんなエヴラールの淡い期待すらも見越しているのだろう。だが、それでもいい。
(……やはり私は、あなたに〝王〟であってほしいのですよ。陛下)




