お菓子の神さま
アパートの一室。
昼間なのに明かりも点けられず、薄暗い室内に、
一人の幼い男の子がいた。
すぐに帰ってくるから。
両親はそう言い残して家を出て行き、もう長いこと帰ってきていない。
水道から水こそ出るものの、食事は作り置きの僅かな食べ物のみ。
それも食べ尽くしてしまって、もうずっと食べ物を口にしていない。
しかし、その男の子はそれでも決して、
自分一人で家の外に出ようとはしなかった。
両親から、勝手に家の外に出てはいけないと、
そう言い聞かせられていたから。
だが、とうとう空腹で目がまわって、床に尻もちを突いた。
立ち上がろうとするが、かえって体勢を崩して、
そのまま床に倒れ込んでしまった。
体に力が入らない。意識が遠のいていく。
「・・・どうして、パパとママは帰ってこないんだろう。
ぼくがいい子にしてなかったからかな。」
薄れゆく意識の中、その男の子は自問自答していた。
遙かなる雲の上。
白く靄のかかった世界で、その男の子は目を覚ました。
「ここは、どこ?
ぼく、家の外に出ちゃったの?」
きょろきょろと周囲を見渡すと、
少し離れたところに、一人の老爺がいるのが目に入った。
その老爺は、白髪に白髭で、白い布のようなものを着ている。
そんな老爺が音もなく近付いてきて、その男の子に話しかけた。
「目が覚めたか。体の具合はどうだ?」
言われて、その男の子は気がつく。
腹を絞られるような空腹感はどこかへいってしまっていた。
「・・・うん、お腹は大丈夫。
もしかして、ぼくは死んだの?
あなたは神さま?」
「いいや、まだだ。今のお前は言わば仮死状態。
そして私は、お前たち人が言うところの、神だ。
今日はお前に、ご褒美をあげようと思ってな。」
「ぼくにご褒美を?どうして?」
「お前が善い子にしていたからだ。」
「ぼくはいい子じゃないよ。
だからパパもママも帰ってきてくれないんだ。」
悲しそうな顔で応えるその男の子に、
神と名乗った老爺は微笑んで、
その男の子の頭をやさしく撫でた。
「それは、お前が善い子かどうかには関係がない。
お前の両親は、自分の都合で家を出ていったのだ。
それでもお前は両親の言いつけをちゃんと守って、
大人しく両親が帰ってくるのを待っていた。
それは、十分に善いこと。
だからご褒美に、何でも一つ願い事を叶えてあげよう。
だが・・・」
「だが?」
「気をつけなさい。
願い事が叶ったら、お前は元の場所に戻ることになる。
そこでは、お前の体は一時的に仮死状態になるほどに衰弱している。
息を吹き返しても、すぐに食べ物を食べなければ、
本当に死んでしまうだろう。
お前が、願い事を叶えたらもう死んでもいいと思うのなら、
それでも構わない。
しかし、願い事を叶えた後でも生きたいと思うのならば、
自分の命が助かるような願い事にするといい。」
つまり、神と名乗った老爺の言うところによれば、
その男の子は何でも一つ願い事を叶えてもらえる。
しかし、その男の子は衰弱していて瀕死の状態なので、
少なくとも食べ物が手に入る願い事でなければ、
すぐに死んでしまうだろう、ということのようだ。
すると、その男の子は、少し考え込んでからこう応えた。
「じゃあ、おうちをお菓子の家にして欲しい。」
「お菓子の家?」
「うん。
絵本で、お菓子の家をみたことがあるの。
お菓子の家があれば、お腹もふくれるし、
きっと、しあわせな気持ちになって、
パパもママもみんな仲良くできると思うから。」
「そうか。
では、お前の願い通り、お前の家をお菓子の家にしてやろう。
物をお菓子に変える魔法の杖をあげるから、それを使いなさい。
だが、忘れるでないぞ。
戻ったらまず食べ物を食べるんだぞ。
それから、この願い事は、
お前の両親の行動には一切影響しないだろう。
だからお前は、自分のやりたい事をするといい。」
「うん、わかった。ありがとう、神さま。」
願い事が叶ったその男の子は、眠るように意識を失った。
そうしてその男の子は、物をお菓子に変える魔法の力を手に入れた。
瞬間、止まっていた命が息を吹き返した。
目を覚ますとそこは薄暗い家の中。
その男の子は、床に倒れ込んで、少しの間だけ意識を失っていたらしい。
横たわった目の前には、横向きになった部屋の光景。
倒れた時にテーブルから落としてしまったらしく、
床には水が溢れたコップや錠剤だのボールペンだのが落ちていた。
起き上がろうにも、体が上手く動かない。
先程までの記憶が蘇る。
あれは夢か幻か、神と名乗った老爺は、お前は衰弱して瀕死だと言っていた。
すぐに食べ物を食べなければ、今度こそ本当に死んでしまうという。
震える手を目の前に持ってくると、
そこには、小さな飴細工の杖が握られていた。
「・・・これ、魔法の杖かな。
でもとにかく、まず何か食べなきゃ。」
その男の子は、手にしていた飴細工の杖を口元に運んで、弱々しく舐る。
甘味が口の中に広がって、いくらか意識がしっかりしてきた。
「これが魔法の杖だったら、全部食べたらだめだよね。
他の何かを食べ物にしなきゃ。」
舐って欠けてしまった飴細工の杖を口から離し、差し出して念じる。
すると、目の前に転がっていたコップが、
色鮮やかな飴細工のコップに変わった。
その男の子は手を伸ばして、飴細工のコップに齧りついた。
「・・・おいしい。
でも、今度は喉が渇いたな。甘い飲み物がほしい。」
横たわったままでそう念じて、床に溢れて広がっていた水を啜る。
すると水は甘い砂糖水に変わっていた。
飴細工のコップと砂糖水で、いくらかは体が動くようになったようだ。
起き上がって手近なメモ帳を手にとって、飴細工の杖を向ける。
すると、メモ帳はくしゃくしゃになって、
ふわふわのポップコーンに姿を変えた。
そうして、その男の子は、
テレビのリモコンを麩菓子に、ボールペンをスナック菓子にと、
家の中の物を次々にお菓子に変えては飢えを満たしていった。
お菓子でお腹を満腹にするというのは、子供の夢の一つだろう。
その男の子は、そんな子供の夢を叶えることができて、しあわせいっぱい。
飢えも満たすことができて、人心地つくことができた。
しかし、静かで薄暗い家の中では、
そんな気分もすぐに消し飛んでしまった。
「お腹はいっぱいになったけど、パパもママも帰ってこないな・・・。」
神と名乗った老爺は言っていた。
物をお菓子に変える願い事は、両親の行動には影響しないと。
つまり、この家で待っていても、両親はもう帰ってこないのだろう。
「せっかく、物をお菓子に変える魔法をもらったのに、
ここでじっとしててもしようがないよね。
もっといい子にすれば、パパもママも帰ってきてくれるかも。」
好奇心溢れる子供を留め置くことはできない。
物をお菓子に変える魔法を自由に使ってみたい。
そうすれば、両親が帰ってきて褒めてくれるかもしれない。
そんな一心で、その男の子は家の外に出る決心をした。
家の中と外界を隔てる玄関の扉に飴細工の杖を向けると、
玄関の重い扉は大きな板チョコレートに姿を変えて、
子供の力でも簡単に外すことができるほどに軽くなった。
板チョコレートの扉を外し、家の外に出ると、
その男の子は振り返って、家の中に向けて飴細工の杖を振るった。
すると、薄暗い家は、その男の子の願い事のとおりに、
お菓子の家に姿を変えたのだった。
そうしてその男の子は、家の外に飛び出していった。
外はいつの間にか夕暮れ時になっていて、
あちこちの家々から夕飯の支度の匂いが漂っていた。
「もうすぐ夕飯の時間か。いいなぁ。
でも、ぼくにはこれがあるから、もう寂しくないよ。」
その男の子は飴細工の杖を振るった。
すると、道端の草が砂糖菓子に姿を変えた。
何の迷いもなく草の砂糖菓子を口にすると、
口の中に砂糖菓子の甘い味がいっぱいに広がった。
お菓子の甘い味は、一時でもその男の子の寂しさを紛らわせてくれた。
「物をお菓子に変える魔法で、他の人も助けてあげよう。
パパとママに褒めてもらえるように。」
そうしてその男の子は、道端で一人歩いている小さな子供に声をかけた。
「きみ、ひとり?
寂しいなら、お菓子をあげようか?」
しかし、話しかけられた子供は、不審そうな顔をして走っていってしまった。
通りの先にその子供の母親がいたらしく、
子供が母親に抱きつく影が夕暮れで伸びて、その男の子のすぐ近くまで迫る。
しかし、お互いの影が交わることは決して無かった。
その男の子はちょっと寂しそうに、しかし気を取り直してその場を後にした。
それからもその男の子は、困っているであろう人を見つけては、
飴細工の杖で物をお菓子に変えて分け与えようとした。
公園で一人寂しくブランコを漕いでいる子供。
杖を突いて億劫そうにしている老人。
焦燥して頭を抱えている背広姿の男。
などなど。
しかし、その誰も、
その男の子が差し出すお菓子を受け取ろうとはしなかった。
それどころか、迷惑そうな顔を向けてくる有様。
無理もない。
その男の子は至って真剣に他人の心配をしたつもりだった。
しかし、見ず知らずの人から食べ物を差し出されて、
何の疑いもなく受け取る人は少ない。
それでも、その男の子はくじけず、
困っている人にお菓子を差し出しては断られ続けた。
ところがやがて、小さな女の子に悲鳴をあげられてしまい、
鬼の形相の警官がやってきたところで、
その男の子は諦めて、その場から走って逃げるしか無かった。
走って息が切れて口元を拭うと、手には真っ赤な血糊が広がっていた。
物をお菓子に変える魔法で、困っている人をしあわせにしたい。
その男の子が良かれと思ってしたことは、しかし誰もしあわせにはできなかった。
日がすっかり沈んだ夜の闇の中、
その男の子は人目を避けて、小川に架かる橋の下でうずくまっていた。
頭上の町からは、電柱が飴細工になって倒れてしまっただの、
道路標識の表示板が板チョコレートになったせいで事故が起こっただの、
小さな子供にお菓子を渡そうとしていた人がいたらしいだの、
大騒ぎになっている喧騒が聞こえてくる。
しかし、幼いその男の子には、事の重大さがよくわからなかった。
「物をお菓子に変える魔法を使って、
みんなをしあわせにしたかっただけなのに。
どうして誰も喜んでくれないんだろう。」
しょぼくれた顔で咳を一つ。
すると、口元を抑えた手がまた赤く染まった。
「物をお菓子に変える魔法があっても、体はよくならないよね。
やっぱりパパとママは、ぼくの病気が嫌で、
そのせいで家に帰ってきてくれなくなったのかな。」
それは真相の一部ではあるが全部ではない。
しかし、幼いその男の子には、そんなことは知る由もない。
自分の病気が両親を遠ざける原因なのだろう。
そんな身を切るような罪悪感と焦燥感に駆られて、
その男の子はよろよろと立ち上がろうとした。
しかし今度は、空腹ではなく病に足を取られ、地面に倒れ込んでしまった。
「あれ・・・体が動かない。おかしいな。
物をお菓子に変える魔法のおかげで、お腹はいっぱいのはずなのに。」
動かぬ身では体を仰向けにするのが精一杯。
ごろんと転がって空を見上げると、
そこには満天の星空が広がっているように見えた。
「きれいだな、お星さま。
あのどこかにも困っている人がいるのかな。
もしそうなら・・・」
星空に向かって伸ばした腕が脱力して、パタリと地面に横たわる。
地面には、その男の子が作った血と涙の溜り。
そこに、手からこぼれ落ちた飴細工の杖が転がって、
血と涙に塗れてグズグズと溶けて崩れ去ってしまった。
それから、その男の子が住む町は、ちょっとした騒ぎになった。
突然、家や電柱がお菓子のようになってしまった。
倒壊の危険があるので、すぐに避難する必要がある。
子供を狙う不審な人がいる、子供を出歩かせないように。
すると今度は、川原に幼い子供が倒れているのが見つかった。
こちらは救急車で病院に運ばれ、間もなく死亡が確認された。
御伽噺が現実になったかのような、
子供のいたずらのような出来事で大人たちは大忙し。
そんな騒ぎなのだから、町から一人の子供がいなくなったことなど、
誰も気にも留めなかった。
その男の子がこの世からいなくなって。
関係があるのか無いのか、世相は混乱していった。
災害、病、紛争、天変地異。
人々は傷つき、苦しみ、お互いに争い合うようになっていった。
それから、長い長い年月が経過して。
地球が太陽の周りを幾度も周って、
その軌道の変化が影響を及ぼすようになるほどの、長い年月の後。
科学技術や医療は進歩し、
町では車が宙を浮いて走るようになり、
不治の病とされていたいくつかの病気は治療可能になった。
それまで不可能とされてきたことが実現可能になった世界。
しかし、そんな時代になってもなお、人々はお互いに争い傷つけ合っていた。
「その食い物を俺に寄越せ!」
「やれるものならやってみろ!どうせみんな死ぬんだ。」
そんな殺伐とした喧騒が、町を包み込む。
建物の窓ガラスは割られ、あちこちから火の手が上がっている。
煙の合間から空を見上げると、昼間なのにも関わらず、
そこには大きな星の姿がくっきりと見えた。
大きな大きな、太陽よりも大きく見える星。
あまりにも大きなその星は、地球の影になってもなお、
太陽からの光を反射して、自身も地球も明るく照らしている。
そんな大きな星が今、地球めがけて迫ってきていた。
地球にぶつかる前に爆破するとか、軌道を変えるとか、
様々な試みはしかし全てが失敗に終わっていた。
遠くない先に、大きな星が地球に衝突する。
避けられない破滅が、目に見える形で迫ってきて、
人心は荒廃していた。
何をしようとも、大きな星が地球に衝突すれば皆死ぬ。
誰もが諦めていた、その時。
頭上の大きな星が、ひときわ大きく輝いたかと思うと、
突如として色とりどりの塊に姿を変えたのだった。
頭上の星の変化に気が付いた人々は、
争い合う手を止めて、何事かとその姿を見上げている。
すると、どこかで点けっぱなしになっていたラジオから、
慌てたような喜んでいるような、焦燥した声が聞こえてきた。
「繰り返しお伝えします。
地球に衝突するはずだった星が、突如として変化しました。
国際機関の観測結果によれば、
蔗糖、つまりは砂糖かそれに類するものに、
星の成分が丸ごと置き換わってしまったようだ、ということです。
それに伴い、その形状や質量が大幅に変化した結果、
地球へ衝突したとしても一部、影響も極僅かで済むとみられます。
繰り返します。
地球の破滅は防がれました!
もう人々が争い合う必要は無いのです。」
情報は駆け巡り、あちこちから歓声が沸き起こる。
そうして人々は、ともかくも破滅を免れ、
お互いに争い合うのを止めることができた。
これは何の奇跡か。
頭上でお菓子になって崩れてゆく星を見上げて、人々は、
名もなき神に感謝したのだった。
終わり。
子供が好きなお菓子の家をテーマに、
今週は皆既月食があったので、星も扱った話にしました。
物をお菓子にする魔法があったら楽しそうですが、
よく考えると扱いが難しく、子供が扱う場合は問題になるかも。
そんな着想で話を作り始めて、
でも最後には男の子が報われるような結末にしようと思いました。
お読み頂きありがとうございました。