命の恩人③
「おっさん! 倒したよほら、見て!」
「見てるっての。すげえなあアレク、お前、何でもできるじゃねえか」
アレクセイは熊の魔獣の上に立ち、胸を張る。シャツとズボン1枚の身軽な姿だ。光の魔法で身体を強化し、「素手で魔獣を殴り倒す」という荒技をやってのけたのだ。
魔獣を狩って生計を立てるディッケンにとって、魔獣の森は庭のようなものらしい。解毒の方法、怪我の応急処置、襲われた時の身のこなし、敵意の感じ方。それぞれに合った魔獣の元へ案内し、アレクセイの能力を磨いてくれた。
最近は、武器を奪われても対処できるよう、身体強化の魔法を教わっている。彼の出身であるランドルンの武家で伝わる秘術らしく、できる者は珍しいそうだ。ディッケンは、そんな秘策までアレクセイに教え込み、文字通り「自分の命を自分で守る」方法を身につけさせてくれた。
「ありがとう、おっさんのおかげで僕、強くなれてる……あれ?」
一瞬目を離した隙に、ディッケンの姿が消えた。きょろきょろと見回すアレクセイの耳が、複数の足音を感知する。重たい音だ。魔獣ではない。武装した人間の足音……のように、聞こえる。
ディッケンを探すのを一旦やめ、警戒するアレクセイの視界に現れたのは、見たことのある王国騎士の鎧であった。ディッケンは、この気配を感じて身を隠したのだと察する。
「……殿下」
久しぶりに聞く呼び名に、アレクセイの表情はすっと抜け落ちる。貴族らしい、感情を露わにしない顔つき。
「お前は……セルロス」
「殿下……お覚悟を」
第二騎士団の副長であるセルロス。その後ろから騎士たちがぞろぞろ現れる。アレクセイを囲むような隊形だった。
剣をこちらに向けるのを見て、彼らは、アレクセイを見つけて殺すよう指示されているのだと悟った。
振り下ろされる剣を避け、飛んでくる魔法を打ち消し、騎士の背後に回って蹴りを入れる。魔獣を相手してきたアレクセイには、人間の動きは遥かに遅く、弱いものに感じられた。
「……城へ戻りましょう、殿下」
諦めたセルロスは、アレクセイに剣を向けたことなど忘れたような涼しい顔で、そう告げるのだった。
「……いったい、魔獣の森でひと月も、どうやって生きておったのだ?」
城に連れ戻され、父王にそう問われても、アレクセイは「それは言えない」としか答えなかった。自白剤を飲まされても、ディッケンとの約束で「言えない」のは本当だから、それ以上の情報を明かさずに済んだのだ。
ディッケンは、「バレたら殺される」「だからオレのことは誰にも言うな」と、何度も何度も言っていた。アレクセイにも、自分の身を匿っていたことが知れたら、ディッケンが何らかの罪に問われるだろうことはわかっていた。
それでもディッケンの身が危ういだろうことは、なんとなく想像がついた。アレクセイは日々、「魔獣の森の密猟者が捕まった」という噂が流れないよう、祈りながら生活した。
同時に、自分の身の振り方についても考えた。逃げたところで、騎士団をあげて捜索されてしまう。森へ逃げても、他国に逃げても、アレクセイが王位継承の第一位である限り、命は狙われ続ける。ディッケンに命を守る術を教わったとはいえ、いつか下手を踏んで、命を落とすだろうことは容易に想像がついた。
「大丈夫ですよ、第一王子殿下。殿下は真面目に勉学に励み、優秀でおられます。成果を示し続ければ、皆、王太子になるべきは殿下だと認めるはずですよ」
「……俺の父は?」
「……国王陛下も、そうでございます。そもそも、長子に難がないのなら、そのまま継がせるものですから」
アレクセイは、そう囁く男にうろんな眼差しを向けた。
ラグシル公爵。彼の娘は、アレクセイと婚約を結んでいる。当然、アレクセイが王太子にならないと困る立場である。だから、こんな風にアレクセイを励まして、教育を投げ出さないように仕向けているのだ。公爵が貼り付けた笑みの裏にある画策くらい、幼いアレクセイにも透けて見えた。
「……難があれば、継がせないこともあるのか」
むしろ、アレクセイの興味を引いたのはその言葉だった。
調べてみると、多くはないといえ、難のあるーー例えば、病弱であったり、不具であったりする長子の代わりに弟や妹が家を継ぐ例はあったという。
王家には今のところ、そのような例はない。劣った国王であっても、臣下が良きように支えてしまえるからだ。
しかし、アレクセイがよほど「国王として不適格」であったなら、父としても大手を振って弟を王太子にできるのではなかろうか。
誰もが「こいつは王にはしたくない」「こいつを王にしたら、国が大変なことになる」と思うような振る舞いをすれば良い。
「……あーあ、勉強したくねえなあ」
「殿下……? どうされたのですか、そのようなことを仰って」
「どうもこうもねえよ。何だって俺は、毎日毎日勉強しなきゃなんねえんだ。……飽きた。外行ってくる」
「え……お待ちください、殿下!」
傍若無人に振る舞えば、家庭教師は顔を引き攣らせた。
「……今日の飯は不味かったぞ。どうにかしろ」
「で、殿下……しかしこれは、以前殿下が美味しいと仰ったもので」
「俺は魔獣の肉しか食いたくねえんだよ!」
理不尽なわがままを言えば、料理長は「魔獣の森から帰ってきて、殿下の味覚はおかしくなった」と噂話をし。
「おい、サルロの毛並みが乱れてるぞ!」
「それは先程、自分で乱したもので……」
「だったらすぐ整えろよ。俺が即位したら、お前はクビだな」
将来得る権力を振りかざせば、馬番は不安げな表情をした。
「殿下。……近頃の殿下の振る舞いは、目に余ります」
「は? うるせーな。口出すな」
「そのような言葉遣いも、ふさわしくありません。どうなされたのですか? 森から帰って来て以来、様子がお変わりになったと、皆心配しております」
「お前には関係ないだろ」
真面目な婚約者も、表情をくもらせた。
アレクセイは一瞬で社交界の鼻つまみ者になり、城の中では皆に避けられた。ほどなくして、城内では「殿下が即位なされたらどうなってしまうのだろう」と、不安の声が上がり始めた。
計画通りだったが、それは孤独な戦いだった。アレクセイが気持ちを分かち合える相手は、たった一人。
「……おん? また来たのか、坊主」
「いつ来たっていいんだろ。酒が飲みてえ」
「オレは子供には酒を出さねんだよ」
小さなカウンターに、似つかわしくない大男。ディッケンは、魔獣の森で買った魔獣を王都で売り払うついでに、この店で魔獣の森で獲れた素材で料理を出す、知る人ぞ知る魔獣居酒屋を経営しているのだ。
魔獣の森で暮らす間にその位置を教わっていたアレクセイは、頃合いを見計らっては、こうして顔を出している。
「……つまんねえ顔してんなあ、アレク」
「まあな。さっさと城を出されてえんだが、決定打がねえんだ」
「……わっかんねえなあ、オレには。そのまま偉くなっちまえば良いじゃねえか、どうにでもなんだろ?」
「俺は……死にたくはないが、人を殺したくもないんだよ。俺が王になって、絶対に死にたくないんだとしたら、父親も弟も殺すしかなくなっちまう」
エクトーリアジュースを飲みながら、アレクセイは考え込む。その真剣な顔つきも、城では見せないものだった。
「家族を殺さなきゃいけないなんて、楽しくねえ生き方はしない。楽しくなきゃだめなんだろ、おっさん」
「そうさなあ。楽しく生きるのがいちばんだぜ」
そのためには、どうしたら良いのだろう。
自分の後ろ盾となるラグシル公爵家との縁を強引に切るしかない、とアレクセイが決意するのには、もうしばらくかかるのだった。