命の恩人①
アレクセイが八歳のとき、弟ができた。
母は違うが、愛らしい顔をした弟を、アレクセイはそれなりに可愛く思っていた。茶色い癖毛や金の瞳は父親似だったから、父親がやたらと可愛がるのも仕方ない気がしていた。その分、父から向けられる眼差しが冷たくなった気がしたが、小さい子供の方が可愛いのは当たり前だろう、と自分に言い聞かせた。
アレクセイは、国王になる勉強をきちんとして、その成果を出せば良い。父たる王はそれを認め、褒めてくれるのが常だった。
ある日、家庭教師に褒められたことを報告すると、父は不満げな表情をして「そうか」と告げた。おかしいな、と思った。いつもなら「良くやった」と言い、褒めてくれるのに。
不安になると、いろいろなことが気になるものだ。九歳になったアレクセイの理解力は、弟が生まれたばかりの頃には気づかなかった、様々なことに気づかせた。使用人の噂話や、家庭教師のひと言、母の言葉。アレクセイはそれらを繋ぎ合わせて、自分の置かれた状況を理解した。
父と第一王妃の間には、長年子供ができなかった。治癒士が「もう子供は望めない」と言ったので、第二王妃が選ばれ、晴れて子が生まれた。アレクセイである。長子として王家を継ぐための教育がなされ、アレクセイも、それを当然のものとして受け入れてきた。
ところが第一王妃に、子供ができたのである。奇跡だと言われたそうだ。健やかに生まれた男児は、すくすく育った。
喜んだのは父である。第一王妃と父とは、政略結婚にしては珍しい「愛し合う夫婦」だという。幼い頃から友好を深め、信頼しあい、愛が生まれた仲らしい。第一王妃に似た瞳を持つ弟を、父は溺愛し、ずいぶんと長い時間を共に過ごして可愛がった。
「もし彼女に子ができるとわかっていたら、第二王妃を迎えることはしなかったのに」
父からそう言われ、母が泣いているのを目にした。
そうして、自分は父に望まれない存在なのだと、アレクセイは気づいた。
王城内に不穏な風が流れ始めたのは、さらに数年経った頃だった。弟が三歳になり、このまま健康に育っていくだろうと判断されると、父は弟に、王としての教育を与え始めた。
王になるのは、アレクセイのはずなのに。おかしい、と思った時、アレクセイの食事に毒が盛られた。
その頃すでにラグシル公爵家との婚約は結ばれていたため、薬学に長けた公爵家の叡智によって、一命は取り留めた。回復したアレクセイは、本格的に命の危機を感じた。
アレクセイの食事に、毒が盛られていた。毒見役が居たはずなのに、誰もそれを指摘しなかったのだ。自分の周囲には敵ばかりだと、彼が気づいた瞬間である。
死にたくない。そう思ったアレクセイは、半ば衝動的に城を飛び出した。魔法が得意だったアレクセイは空を飛び、人の来なそうな森を見つけた。
あの森なら、誰にも見つからないかもしれない。森でのんびりと暮らす木こりの話も読んだことがある。王になんてならなくていいから、毒なんて盛られず、のんびりと生きたい。そう思って、森に降り立った。そこが「魔獣の森」であることを、この時まだ彼は知らなかった。
暗く、深い森だった。
昼間だというのに、木々の隙間から漏れてくる光は頼りなく、アレクセイはサモフの火を灯して進んだ。喉が渇いたら、水を出して飲んだ。そこまでは良かったが、だんだん足が疲れ、動けなくなってきた。お腹も空いたが、木の実すら見当たらない。たまに動物の気配がするけれど、捕まえる術を知らなかった。
夜になったのか、だんだんと冷えてくる。幼い体には、夜の寒さはこたえた。縮こまって体温の低下を抑え、できるだけ動かずに体力を温存しようというのは、本能的な対処だった。
夜が更け、しーんとして何の音もしない。自分の呼吸と、たまに鳴る腹の音だけが大きく聞こえて、アレクセイは寝付けなかった。
その時、がさ、と音がした。
ふんふん、と鼻を鳴らす音。
はあはあと響く、低く乱れた呼吸。
ぐるる……とうなる、腹の底に響く声。
ぎらりと光る、獰猛な瞳。
暗闇に紛れてよく見えなかったが、やばいものが近くにいる、という感覚はわかった。絶対に見つかってはいけない。息をひそめて、存在感を消そうとする。
アレクセイの努力の甲斐もなく、その獣は、のし、のし……焦らすようにゆっくりと近寄ってきて……目が合った。
「ひいっ!」
「ぐおおっ!」
飛び上がったアレクセイは、持てる力を全て駆使し、魔法を使って逃げ出した。獣は、当然のように追ってくる。一度は引き離した荒い呼吸が近づいてきて、獣臭がし、鋭い爪が背中を引っ掻いた。
「ぎゃああ!」
熱く感じる痛みに悲鳴を上げた瞬間、つまずいてバランスを崩した。傍の急斜面を転がり落ちていく。あちこちぶつけて、張り出した枝に引っ掻かれて、止まったときには満身創痍だった。幸いにして、獣は追ってこなかった。
「……僕、死んじゃうんだ」
小さなアレクセイは、ぽつりと呟いた。
獣からは逃げられたが、体は痛いし、お腹が空いている。食べ物を得られる予定はない。魔法を使う気力もほとんど残っていない。
死にたくなくて城から逃げたのに、死にそうだ。
「死ぬのは怖いよお……」
死んだ後は、何にもなくなる。それが、アレクセイには怖かった。ぐず、ぐず。啜り泣く声が森の木々に吸い込まれていく。
がさ、と足音がして、アレクセイの体は緊張した。きっと獣だ。さっきのが、やっぱり追いかけてきたのかもしれない。体は強張る。縮こまる。見つかりたくないのに、気配は徐々に近づいてくる。
「ひいぃ……」
目を閉じて悲鳴を上げるアレクセイのすぐそばで、何か大きなものが動く気配がした。
「……なあにしてんだ、坊主?」
「……あ、え……ひと?」
恐る恐る顔を上げたアレクセイの目に映ったのは、小汚い大男であった。たくさんの道具を身につけていて、何となくこの森に詳しそうだ。
「たすけて……僕、僕、死んじゃうぅ……」
「はあ? 何だっておめえ、そんな綺麗なカッコして、こんなとこで……」
その男は、森の奥で泣きじゃくる子供を至極迷惑そうに眺めた。子供の胸元に飾られた王家のブローチを見て、さらに顔をしかめる。
「おいおい、オレの手には負えねえぞ……」
「お腹すいたの、寒いの、僕、死にたくないの……」
「……おめえ、家のモンが迎えに来たら、オレは悪くねえって全力で庇えよ」
「……?」
男の荒々しい物言いは、貴族のアレクセイにとっては初めて聞くものだった。すぐには理解が及ばないアレクセイを見て、男はため息をつく。
「喋る元気もねえのかよ……仕方ねえなあ、ったく。何か食わせてやるよ」
大きな腕がアレクセイを持ち上げ、肩にかついだ。土と汗の混ざった、すえたようなにおいがする。しかしアレクセイには、そんな不潔さは気にならなかった。
ただ、大きな肩と、しっかりした足取りに安心して。
「おいおい……寝ちまったじゃねえか」
男が呆れた通り、疲れ果てたアレクセイは、一瞬で寝ていたのであった。




