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3-2 メイディは惑う

「おぬしの魔導具を2、3貸してくれとフーレルが言うんじゃよ。貸したが構わんかの、メイディ」


 ノックをせずに作業場へ顔を出すケビンは、中央に鎮座する魔導具を見て「ほう」と目を細めた。空飛ぶ魔導具の表面に刻まれた紋様は、複雑で規則的。メイディがかつて見た星満亭のように、芸術的な仕上がりだった。

 その前で桶に手を突っ込むメイディは、顔を上げずに答える。


「もう貸したんですよね? いいですけど、フーレル先生が私なんかの魔導具を、どうして見たがるんでしょう?」

「さあのう。何やら王家のほうで必要だというようなことを言っておったが、わしにはさっぱりじゃ」

「王家……」


 その単語が出るだけで、メイディの心は一段沈む。

 アレクセイは王家の人間だった。全てを持っているのに、それを捨てて国外へ出ようなんて、信じられない。


 あれからも、アレクセイはメイディのところへ来なかった。理由はわからないが、だと言ってこちらから会いに行く気にもならない。顔を合わせなくても、アレクセイのことを思い出すだけで、メイディの胸の中は、もやもやしてぐちゃぐちゃするのだ。対面したら、今まで通りには振る舞えない。呑気に「恋人のふり」なんて、できる気がしなかった。


「ふうー……」


 雑念を振り払うために長く息を吐き、目の前の桶から魔獣の血をお玉で掬い取る。隣の桶に入れた土に振りかけ、手でよく馴染ませる。

 魔導具の紋様に込める粘土を作っているのだ。空飛ぶ魔導具に刻んだ緻密な紋様に押し込むためには、粘土にむらがあってはいけない。このような繊細な作業は、手でしたほうが精度が上がる。

 また魔獣の血をすくい、土に練り込む。それにしても、すごい量だ。これだけの魔獣の血を買えたのは、アレクセイが大金貨をくれたおかげだ。大金を払って王家の身分を捨てようなんて、本当に意味がわからない。絶対に、今の方が幸せなのに。全てを投げ打ったら、不幸になるだけだ。


「あああ、だめ」


 気持ちが乱れ、手つきも乱れる。メイディは粘土から手を離した。


 アレクセイのことを考えないために卒業研究に集中しているのに、ふとした瞬間に彼のことが頭に浮かんでくる。一度浮かぶと離れない。頭を振ってもだめだ。

 どんな時でも、相手のことを考えてしまう。これは恋だとメイディは知っている。教えてくれたのはアレクセイだ。本を読み、恋人のふりを試していた頃は、本当に楽しかった。


「考えるのを止められないって、本当だったんだ……」


 アレクセイの笑顔が、照れた顔が、拗ねた顔が蘇る。あの時の楽しかった気持ちが。


 たとえ、自分の勘違いから始まったとしても。まだ好きで、がっかりしていて、いっそのこと忘れたくて、忘れられない。このぐちゃぐちゃした気持ちは、メイディの手には負えなかった。蓋をしようと思うのに、それもできない。こんなに心が乱れたのは初めてだ。


 帰るときに通る空中廊下には、痺れるように冷たい夜風が吹き抜けていた。魔法で防ぐこともできるが、メイディは敢えて風を浴びる。頭を冷やしたかった。


 ここを通ると、アレクセイが「第一王子殿下」であることを知った日の気持ちが蘇る。

 廊下を歩けば、アレクセイと手を繋いで歩いたことが。講堂の傍を通れば、舞空クラブの発表会のことが。中庭を抜ければ、昼食を食べたことが。

 学院の中はアレクセイとの記憶ばかりで、それがメイディの心を乱し続ける。メイディが初めて味わう、恋の感情だった。


 アレクセイのしようとしていることを、改めて考える。婚約破棄をして、第一王子の座を捨てて、国外へ出ることを計画している。


「……そんなの、絶対、駄目だよね」


 今の環境を捨てることが、彼の幸せに繋がるとは思えない。今の身分を全て捨てて、何もない自分になったとき、特別扱いを全て失ったときには、後悔するに決まっている。「持たざる者」の立場から貴族たちを見ているからこそ、メイディは、彼らがいかに無自覚に特権を享受しているかをよく知っていた。

 恋とは、相手の幸せを願うことだ。アレクセイは、今のままの方が幸せに違いない。彼の幸せを思うと、婚約破棄へ協力する気持ちが急速に薄れていくのを感じた。


「ねえ、ねえ、メイディ。あなた、大丈夫なの?」

「うん? 大丈夫だよ、エミリー」

「大丈夫そうに見えないから聞いているのよ……」


 講義が終わって人の溢れる廊下で、エミリーは、這いつくばって教材を集めるメイディに声をかける。


「ごめんねエミリー、ありがとう」

「謝ることじゃないわ。それにしても、どうなっているの? 最近、こんなことばかりじゃない」


 教材が散らばっているのは、廊下を歩いていたメイディに強くぶつかり、鞄を落とさせた生徒がいたからだ。混雑した廊下で追うこともできず、犯人は誰だかわからないまま。


「この間は、講義室の机にごみが入っていたわよね? 歩いていて、水をかけられたこともあったわ。……あなたをこんな目に遭わせるなんて、あなたの恋人は、何をしているの?」

「……アレクが、何か関係あるの?」


 エミリーの挙げた出来事は確かにあったけれど、メイディは特に気に留めていなかった。誰にでも、不注意はあるものだ。確かにやたらと巻き込まれることが増えた気はするが、頭の中がアレクセイのことでいっぱいで、気に病む余裕はなかった。

 それよりも、彼の名前を口にするだけで、気持ちが少し重くなる。メイディの沈鬱な面持ちを見て、エミリーは悲痛な表情を浮かべた。


「気づいていないの? 嫌がらせをされるのは、あの方との関係が原因でしょう。降りかかる露を払って、あなたを守るくらいのことすら、してくださらないなんて……魔獣に心を食べられたというのは、本当なのかしら」

「魔獣に心を食べられた?」

「あっ」


 エミリーはぱっと口元を押さえる。気まずそうに視線を逸らし、「噂よ」と呟いた。


「わたしも、本当のところは知らないわ。ただ、あの方が貴族らしからぬ振る舞いをなさるのは『魔獣に心を食べられたからだ』って、そんな噂を聞いたことがあるの」

「魔獣が心を食べるなんて、そんな話聞いたことないよ」

「わたしもないわ。根も葉もない噂だと思っていたけれど……身分違いの恋なのよ? あなたが困った立場に置かれるのは当たり前なのに、守ってくださらないというのは、ちょっと……」

「悪かったな。寝込んでたんだよ」

「きゃっ!」


 エミリーは肩を跳ねさせ、じりじりじり、と声のした方に顔を向ける。声の主を見るなり、血の気が引いた。


「も、申し訳、ありませ……」

「気にすんな。確かに、俺のせいだ」


 メイディは息を飲む。彼の顔を見るだけで、胸の奥が苦しいほどに締め付けられた。胸の中でもやもやしていた感情が一気にその存在感を増し、噴き出しそうになるのを、胸に手を触れて押しとどめる。


「心配かけたな。手を出した奴には、俺から厳しく言っておくから」

「……アレク」


 その名を呼ぶメイディの声は低く、硬質だった。


「私、アレクと話をしなくちゃいけないと思うの」


 彼の顔を見たら、やるべきことは、はっきりとわかった。この気持ちに収拾をつけるためには、話さなければならない。

 アレクセイと目が合う。その凪いだ青い瞳が、メイディには懐かしくて、忌々しく思えた。

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