2-4 メイディと乗馬
「馬に乗ったことは?」
「ないよ。買うお金も、飼うお金もなかったから」
「そうか。大丈夫だ、サルロに任せれば何も心配ない」
「ぶるるん」
自慢げなサルロの緑のたてがみが、風になびいている。背景に広がる草原の緑に溶け込むような、美しい色合いだ。
その隣に立つメイディの頭は、サルロの前脚の付け根辺りに位置している。しなやかな筋肉を包む毛並みもまた、きれいな緑色だった。
「乗馬は楽しいぞ。これだけは、俺の趣味と言っていい」
「なのに、乗馬クラブには誰もいないんだね」
「俺が通ってた頃はかなりの人数が通ってたんだが、いつの間に辞めたんだろうな。まあ良いだろ、今日はお前に乗馬の楽しさを教えてやる」
「ぶるん」
首筋をアレクセイに撫でられ、サルロが嬉しそうに目を細める。
「アレクがいいなら、いいけど。『恋人のふり』しに来たのに、誰も見てないんじゃ意味が」
だん! メイディの爪先をかすめるように、サルロが足を踏み鳴らす。危ない。そっと一歩後ずさり、サルロから距離を取った。
「サルロと約束したんだよ。今日はメイディを乗せて、散歩の楽しさを教えてやろうって。な?」
「ぶるるん」
「今更、約束を破るわけにはいかねえ。メイディも、それでいいだろ?」
「私は、いいけど……」
歯切れが悪いのは、アレクセイにとっては不都合なのではないか、と思うからだ。
恋人のふりをして、それを他の人に見せて。そうして、「メイディはアレクセイの恋人だ」という事実を積み重ねていく予定だったはずなのだが。見ている人がいないのでは、そんな噂も生まれない。
気にはなるが、メイディとしても、頑なにこだわるつもりはなかった。何しろ目の前にいるのは、緑の毛並みが美しい馬魔獣。
「……いつか、乗ってみたいと思ってたの」
騎士団は、馬魔獣を移動に使うことがある。その乗り心地は最高に気持ち良く、危険な任務に向かうのに、つい気分が高揚してしまう。そう父が話すのを聞いて以来、一度でいいから馬魔獣に乗ってみたいと思っていた。
「乗るというよりは、乗らせてもらうというのが正しい。なあ、サルロ。お前、普段は俺以外を乗せないもんな」
「ぶるう」
鼻を鳴らし、アレクセイと見つめ合うサルロの眼差しには、信頼の光が見える。
「他の人が乗ろうとしたらどうなるの?」
「背中から落とされて蹴り飛ばされる。手加減はしてくれるが、それでも俺の従者は2人大怪我をさせられてる。お前を乗せるよう、説得するのは骨が折れたよ」
「どうやって説得したの?」
「好物をたらふくやると約束した。今日のサルロの夕食は、エルノー地方で採れた人参だ」
「ぶるぶるん!」
ひときわ嬉しそうに、サルロが鼻を鳴らす。
農業に力を入れているエルノー地方で採れる野菜は、美味しいと評判だ。高くて普段は買えないが、昔、虫食いのある訳あり芋を食べたことがある。ほくほくと甘く柔らかくて、とても美味しかった。
エルノー産の人参が好物だなんて、なかなかのグルメである。気持ちがはやるのか、サルロはその場でぽくぽく、足踏みをしている。
「サルロ、よろしく頼む」
脚を折って屈むサルロの脇に立つと、アレクセイに腰を持ち上げられ、屈んでもなお自分の頭と同じくらいの高さの背に横座りする。
その毛並みは、非常に滑らかだ。もし雨が降っても、水は玉となってするんと落ちるだろう。制服に包まれた自分の尻も、つるんと滑り落ちそうで、メイディの肩は緊張した。
「たてがみとか、掴んでいいの? 落ちちゃいそう」
「どこも掴まなくていい。サルロは、俺たちを絶対に落とさねえよ。落ちそうになったら、風で支えてくれる」
アレクセイは、そう言いながらメイディの後ろにまたがった。彼が胴体を数回撫でると、大きな背がゆらりと揺れ、サルロが立ち上がる。
落ちないとわかっていても、怖い。メイディがとっさに掴んだのは、隣にあるアレクの腕だった。
「何だよ、いっぱしに怖がりやがって。お前くらいのやつなら、平気な顔して乗ると思ってたぜ」
「高いところは得意じゃないの。落ちそうで、怖い」
「サルロの上なら大丈夫だって。行くぞ」
見えていた景色が、急に後方へ流れ始める。サルロが走り出したのだ。揺れは全くなく、滑るように景色が移ろう。
こんなに速く移動しているのに、メイディの髪は少しもなびかない。不思議な気持ちだった。ただ、お日様によく温められた午後の空気のような、まどろんだ気配に包まれている。
「落ち着く……」
「だろ? サルロ、少し緩めてくれ。風を感じるくらい」
「ぶるん」
ふわっ。
肩まで垂らしているメイディの髪が、少しだけ持ち上がった。お日様の匂いが後方に流れ、草の香りのする微風が、爽やかに顔に吹き付ける。
「ああ……気持ち良い」
素晴らしい開放感だ。学院の壁はどんどん遠くなり、今は視界を草原の緑と空の青が占める。
「気持ち良いだろ? サルロと走ってると、余計なことは何にも考えなくて済むんだ」
「そうだね。確かに、そうかも」
気持ち良い風が肌を撫でる。照らす日の温かさと、風の香りと、移ろう眺め。それに集中していると、ほかの考えは浮かんで来ない。
「これだけじゃねえ。サルロは魔獣だからな、こんなこともできる」
「……あれ? うわ、うわ、うわ、浮いてる! こわ……怖いよアレク!」
「高いとこが苦手ってのは本当なんだな。安心しろ、俺が付いてる」
アレクセイの両腕が、メイディを包む。ぎゅ、と落ちないように抱き締められて、ようやく、息をする余裕ができた。
「ふう。……テレルナ」
「相変わらずの棒読みだな。20点」
「今日は誰もいないんだから、別にいいでしょ」
慣れたやりとりに、震えていた心が少し落ち着く。遠くを見るのはまだ怖くて、メイディは、視線を少しだけ揺らした。
「……あ、羽が生えてる」
「飛ぶときだけ広げるんだ。サルロの羽はきれいだろ? 光を浴びると、輝いて見えるんだよ」
サルロの左右から伸びる大きな羽は、緑の表面に虹色の光沢を帯び、輝いていた。なんて美しいのだろう。感嘆するメイディの目の前で、たっぷりと広げた羽の表面が、風を浴びてそよそよ波打っている。
「自分で飛ぶのと、どっちが好きだ?」
「生身で飛ぶのは怖いんだって。落ちたら怪我するよ、危ない」
「落ちないだろ。飛んでて落下する奴なんて、見たことねえぞ」
「……」
黙り込むメイディの顔を、アレクセイが覗き込む。
「まさか、お前」
「あるよ、落ちたこと! 飛行術の成績だけは最低だったんだからね」
「『落ちたら怪我するから気をつけろ』ってラルド先生が言うの、冗談だと思ってたんだが。お前か……」
「魔法で空を飛ぼうなんて危険な発想、貴族のものなの。皆、小さい頃から飛行術を学んでるって聞いて驚いたよ。街では誰も飛んでないんだから」
そもそもが、高度な魔法である。自分の体を飛ばし、方向や速さを正確に制御する。失敗したら落下、あるいは追突。そして怪我。危険すぎて、平民の間では子供の頃から「飛行術を習わないのに飛ぼうとするのはやめろ」と言い含められる。光魔法と同様に、訓練なしには行えない魔法のひとつだ。
メイディの母は、酒場で働いていた平民だ。飛行術を教えようとする父を「危ないから絶対だめ」と止めていたので、メイディは空を飛ぶ魔法を使ったことがなかった。
ところが貴族学院に入ってみたら、飛行機は魔法実習の初回の内容。皆当たり前のように飛んでいる中で、メイディだけが何度も墜落した。
「飛んだほうが速いし、便利なのにな」
アレクセイが呟く。
もちろん、その通りだ。飛べば、地面の起伏や建物を無視して直進できる。熟練すれば、明らかに速い。熟練する方法が、貴族以外にはないだけなのだ。
「わかってる。だから私の卒業研究、空飛ぶ魔導具なんだよね」
魔導具は、素手で触れれば、紋様で決められた魔法を発動する。空飛ぶ魔導具を作れば、飛行術を習わない者でも、空を飛ぶことができる。事故にあった時の対処も紋様として刻んでおけば、命くらいは守れるだろう。
「空飛ぶ魔導具? 金かけて作るもんじゃないだろ」
「貴族にとってはね。自分たちで飛べるし。荷物を運ぶ使用人の人たちも、下級の貴族だから飛行術を使えるもんね。でも飛行術を使えない平民が使えれば、画期的な魔導具になるよ」
空を飛んで移動できれば、行動範囲が広がる。荷物を乗せて空を運搬できれば、商売もやりやすくなる。
「まあ、高いから使えないんだけどね」
巷に流通する魔導具は、どれも高価だ。火をつける程度の簡単な魔導具でも、目が飛び出るほどに高い。魔導具がひとつもない家も多く、もし魔導具を持っていれば、代々手入れをして受け継いでいく。
小さな魔導具でも、そんな扱いなのだ。人が乗るような大きな魔導具は、魔獣の血が大量に必要だから、とんでもなく高い。メイディだって、アレクセイからもらった大金貨がなければ、設計で終わるところだった。
「ふうん……。実際のところ、人間を飛ばす魔導具なんて、作るのは無理だろ。複雑すぎる」
アレクセイの指摘は、もっともだ。
魔導具で飛行の制御をするのは難しい。中に人を乗せるとして、その重さ。向かいたい方向。風の強さ。変数が多すぎて、魔力を通すと一定の魔法を出力するだけの魔導具では、安定した飛行をするのは困難だ。メイディも、そう思っていた。
「こないだ行った『星満亭』では、光魔法を再現してたでしょ?」
「ああ、そうだな。だがあれは、あの建物の広さがあるからこそ、できるものだろ」
「わかってる。でも私、細かい作業は得意なんだよね」
複雑な紋様を刻んでいけば、空飛ぶ魔導具はできるはず。メイディの仮説は、あの星満亭を見て確信に変わったのだ。きっとではなく、必ずできる。
「だからあそこに連れて行ってくれて、本当に良かった。もう少し紋様にもこだわろうと思うの。今はまだぐちゃぐちゃだから、あの店みたいに、綺麗な紋様に整えたい」
頭の中が魔導具のことでいっぱいになっていくメイディの肩を、アレクセイが軽く叩いた。
「それは帰ってから考えろよ。ほら、景色を見てみろ。もう飛ぶのにも慣れただろ」
そう言われて、メイディはやっと、視線をサルロの向こうへ伸ばす。
地面はいつの間にか、はるか遠くになっていた。木々が爪と同じくらいの大きさに見える。普段なら恐怖に震えて動けなくなるような高さだが、不思議と落ち着いている。サルロの乗り心地の良さが理由か、それともアレクセイの温もりのおかげだろうか。
どこまでも続く地平線の上には、空が広がる。遮るものは何もない。沈みゆく夕日の周囲は濃い橙色で、地平線から離れるにつれ、徐々に濃い青に変わる。
「この時間の空はきれいだろ? 大きな虹の帯みたいで」
「虹の帯……確かに。幻想的な光景だね。心が洗われる」
「だよな。だから俺は疲れてるとき、この時間にサルロと飛ぶんだ」
アレクセイの声が、メイディの耳を柔らかくくすぐる。きれいな空と、穏やかな風と、低く優しい声。
「お前に見せたかったんだよ。楽しいだろ、サルロと飛んで空を見るの」
「……うん、楽しい。ありがと」
サルロに乗って空を飛んだって、飛行術は上手くならない。空飛ぶ魔導具も完全しない。ただ気持ち良いだけ。ただ、伸びやかな気持ちになり、心が晴れ晴れとするだけ。
今までのメイディなら無駄だと切り捨てたはずの時間が、今日はやけに尊いものに思える。そう考えると、お礼の言葉は自然に出てきた。
つい緩んだメイディの頬を、アレクセイの指先が撫でる。
「お前のその目、俺は好きだぜ」
「……テレルナ?」
「今のは『ふり』じゃねえよ」
アレクセイは、苛立ったように髪をぐしゃりと乱す。
「ちっ。悪かったな、関係ないときに触れて」
「アレクに触られるのは嫌じゃないよ」
「無自覚なんだよなあ、その発言」
そう言うアレクの頬に少し橙が差す。夕日に紛れて染まる頬は、年相応の青年らしい、照れた表情。
「私も、アレクのその顔が好き」
「……っ! あーっ、もう。馬鹿か、お前は!」
「え、何で?」
頭を抱えるアレクセイと、首を傾げるメイディ。ふたりのシルエットは、暮れゆく空の色にだんだんと紛れて行った。




