1-1 報酬は大金貨十枚
いつもありがとうございます。どうぞお楽しみください。
「今をもって、君との婚約は破棄する」
貴族学院の卒業パーティ。行き交う生徒たちは、響き渡る声に足を止めた。最も目立つ会場の中央で、人目を引く容貌の男女が向かい合う。
「婚約、破棄……」
片方は、波打つ銀髪の優美な女生徒。青年の言葉を復唱すると、橙の瞳をすっと細める。美しい顔は、それだけで鋭い印象に変化した。
「ああ。俺は君との婚約を破棄し、彼女と共に生きることにした。メイディ・ジュラハール男爵令嬢。俺の……愛する人だ」
向かい合うのは、ひと組の男女。金の髪を揺らし、青い瞳を涼しげに輝かせる彼は、隣に寄り添う女生徒の腰を抱いて引き寄せた。背の低い、黒髪の彼女ーーメイディは、彼に寄り添う。女生徒の反応を伺う緑の瞳は、場にそぐわぬほどに落ち着いていた。
これは、計画的な婚約破棄。時は、半年前に遡る。
***
夏の盛りが終わり、吹く風にどことなく暮れゆく香りが混ざり出した初秋。メイディ・ジュラハールは、貴族学院の図書室の片隅で、机上に本と紙を広げていた。外気の変化など感じるはずもない、薄暗く、静かな空間である。
カリカリカリ、と乾いた音を立ててペンが紙を走る。垂れた黒髪を耳にかけ、詰めていた息を吐くと、疲れが一気に押し寄せた。
「あー、目が疲れた。……ラミーよ」
文字を追っていた目を閉じ、小さく詠唱する。ぽわ、と目元に宿った不思議な光は、目の奥に蓄積した疲労を少しだけ和らげた。
「おい、お前」
突然聞こえた声に、肩が大きく跳ねた。メイディは、慌てて机上を整える。紙や本を重ね、書いていたものを隠してから、声の主を確認する。
金の髪に青い瞳、品のある顔つき。その胸元には、白い花の紋章が縫い込まれていた。
胸に輝く白い花は、光の精霊を象徴するラミーの花。かつてこの国の礎を築いた王が光魔法に長けていたことから、彼への敬意を表するため、王家の花とされている。王家の花を制服の胸元に抱くのは、高位貴族の子息だけ。見知らぬ相手だが、メイディよりはるかに高位な存在なのは間違いなかった。
「学院内では身分の別なく、学問に邁進せよ」などと謳われてはいるが、それは理想である。現実には、身分違いの交流なんて成立しない。少なくともメイディは、入学してからこの方、高位貴族との交流を持ったことはなかった。
「ごめんなさい」
だからメイディは、先回りして謝罪することを選んだ。何の用か知らないが、怒られるのは嫌だ。
「頼みたいことがある」
「聞きましょう」
メイディの謝罪を無視して、要求が突き付けられる。高位貴族の彼は、ただの依頼人だ。受け入れる姿勢を見せると、彼は隣に腰掛けてきた。
始まりは、友人であるエミリーのレポートを手伝ったことだ。初年度を終えようとしていた頃、留年の危機に瀕したエミリーに頼み込まれ、メイディは資料集めを手伝った。メイディがその9割に貢献したと言っても過言ではないレポートを提出したエミリーは、無事に単位を取得できた。
無事に進級が決まったエミリーは、「あげられるものがないから、現金でごめんね」と謝礼をくれたのだ。その額は、伯爵令嬢の彼女にとっては妥当であり、男爵令嬢のメイディにとっては相当の大金であった。
特待生として入学したメイディは、授業料こそ免除されるものの、実習費や教材代はどうにか自力で捻出していた。常に金欠に悩まされていたメイディにとって、エミリーからもらった報酬は、心底ありがたいものだったのである。
その後、エミリーの紹介で、他の生徒からも手伝いを求められるようになった。
貴族学院での生活には、お金がかかる。いくらあっても足りないくらいだ。だからメイディは、引き受けられる依頼は全て引き受けた。
実技の練習相手、レポートの代筆、探し物など……いろいろとこなしているうちに、メイディは「学院内の何でも屋」としての地位を密かに確立することとなった。
「俺の願いを叶えてほしい。もちろん、ただでとは言わねえ」
そう言うなり、彼は懐から出した袋を机上に置いた。じゃら、と音がする。
おっと、この音は。
メイディの浅ましい耳が、ここぞとばかりに貨幣の音を捉えた。低くて、重たい音だった。かなりの額が入っているようだ。
彼が袋の口を緩めると、くすんだ金色がわずかに覗いた。
「大金貨十枚。報酬は、先払いだ」
「だい、きん、か……」
庶民が一月働いて稼げるのが、およそ金貨一枚。金貨十枚で、大金貨一枚。その十倍を、しかも先払いで。
とてつもない大金だ。目がくらむような心地のメイディの口は、欲望のままに勝手に動いた。
「やります」
即答すると、大金貨の袋が、メイディの目の前に押しやられる。両手で支えると、ずっしりした重みを感じる。これが自分のものになるなんて、夢みたいな気分だ。
大金貨十枚。それがあれば、卒業までのお金に困ることはもうない。それどころか、今欲しいものが何でも買える。メイディの頭の中は、既に大金貨の使い道でいっぱいだった。