卒業
「だけんなんでそうなるとかちゃ」
「なるけん仕方なかろうもん3対5やろ、倍にしたら6対10やんね、だき2番が正解たい、一番簡単な問題ばい、なんで教えてやりようとに文句言うかな」
委員長の部屋の座卓で肩を並べて委員長の参考書を使って勉強していた。
「くそー、じゃ委員長これは」
「あのさ、その委員長ってやめちゃんない、今プライベートばい」
「じゃなんて呼ぶとや」
委員長はすこし言葉を詰まらせながら顔を背けた。
「と、友達はみんな美鈴ちいう」
「じゃ美鈴、これ教えれ」
美鈴はこちらを向いてにっこりと笑った。
「よかよ」
俺の夏休みは美鈴先生の授業にささげられた。
「オラ宿題ば出さんかひゃーたれ共が!おい三山、お前はちゃんと持ってきとろうね」
「あ、いや、うっかり持ってくるとを忘れたばい、明日もってくる」
「嘘付け、今日帰ってバタバタやる気やろ」
新学期、俺は2学期デビューした。夏休みの間に派手な格好を楽しんだ不良デビュー組を尻目に勉学の道を進み始めたのだ。直情型の思い込みとスポンジのような
脳のおかげで俺は学力を飛躍的に上げた。美鈴が驚いて、『いかに今までなんにも入ってなかったかがわかる』と揶揄するほどだ。
「おはよー、持って来たばい」
「おーせんきゅー美鈴」
美鈴が持ってきたのは彼女の家に忘れていた計算ドリルだ。三山がいきなり肩を掴んで顔を寄せてきた。
「なあ、たっちゃん委員長と付き合いようと?」
「は?なんでそうなるとや」
「いや、あちこちで二人で歩いとったり、デパートで買もんしたりしようとがちょいちょい目撃されとーぜ、そのドリルも家に忘れとったっちゃろ」
「ああ、そうやけんが、デパートはただの荷物持ちたい、勉強教えるかわりにこき使われたっちゃ」
「それと、委員長っていいよったとが美鈴げな」
「本人がそうよべち言うけんしょんなかたい」
「あやしかー」
「なんがね」
その時ガラガラと音がしてドアの向こうに先生が現れた。美鈴が声を張り上げた。
「起立!」
先生が教壇に立って挨拶が終わると、俺は先生の下に駆けつけた。
「集めときました師匠」
先生は目を丸くして俺の顔と宿題を交互に見るとにっこり笑った。
「今日は始業式やけん、明日でもよかったとに、今日じゃまずい子もおろう?」
先生は意地悪く笑った。
「最初が肝心ですけん」
俺がキリリとして鋭い目つきになると先生はいっそう笑って頭を撫でてくれた。
月日は流れ、卒業式の日、俺は美鈴に手を引かれて人気の無くなった中庭に向かった。
「こっちこっち、待たせてあるけん」
先生が中庭のケヤキの木の下に立っているのが見える。普段とは違うフォーマルな姿は5年の担任に就任した当時を思い出す。校舎の角から少し進み出て
美鈴を振り返ると照れ笑いしながら早く行けといった身振りをして2歩3歩と下がった。俺は走って先生の下まで行った。先生は俺に気づくと体をこちらに向けて
太陽のように笑った。手に持ったメガホンほどの花束に期待が高まる。俺は先生の前で立ち止まったが、言葉に詰まった。先生も同じようだ。下を向いたり俺の顔を
見たりしながら笑顔が徐々に崩れて口がへの字になった。俺は声をかけようと「せ」を発したが、先生もまた「た」を発して二人とも言葉が止まった。
先生が涙を落とし始めたのを見て、俺の目にも涙が溜まった。
「卒業…おめでとう」
先生が差し出した花束を受け取ってせいいっぱい丁寧な言葉で言った。
「先生、今までありがとうございます」
先生は俺の言葉を聞いてついに声を上げて泣き始めた。
「僕、立派な人間になります、先生が自慢ばできる人間になります」
先生は両手で口と鼻を塞いで嗚咽を我慢している。
「僕、先生が好きでした、これからも好きです、それにそんな自分も好きです、だから、大好きな先生の誇れる人間になります」
先生はなりふり構わず泣き始めた。そして俺の手を握ると俺の手首に数珠をはめた。
「がんばって…」
その言葉は必死で搾り出したように聞こえた。
「先生も、幸せになってください、心から願っています」
先生は俺の背中を抱いて首を交差させると背中を叩いた。そして離れ際、俺の頬に暖かく柔らかい感触のものががぴたりとついた。
俺の脳の中で大桜が満開になり足が地面から離れた。ほんとうにそうなった。
「気の利いた言葉をあげられたらいいんだけど、考えてた事全部ぶっとんじゃった」
「いえ、十分です、これでこの先何があっても大丈夫な気がします」
夢のような気分で別れを終え、親父の待つ駐車場へ行こうと校舎の角を曲がった瞬間目から火花が散った。美鈴の強烈な張り手が飛んできたのだ。
「なぜ…」