言語が分断された世界で
「亮介!そんなところで何をしているの!?早くこっちにいらっしゃい!」
母親のいらだった声にはじかれるように、僕はその場所を後にした。
隣町と隣接する鉄条網には、高圧電流が流れている。だから、絶対に触れてはいけない。
これが、生まれた時からの常識だった。
―ダメだったか。
公園と公園の境目にある鉄条網。隣町の風景は、いつもここから見るだだっ広い原っぱだ。
それはどこまでも広がっていて、肉眼では家一軒見ることが出来なかった。もちろん、人も。
だから、二週間前、この場所から初めて人間を目にした時は、内心ひどく興奮したものだ。
だが、自分の町以外の人間と接触することは、たとえどんな些細なことであっても、僕たちの身分では強く禁止されている。おきてを破ったら即ブタ箱行きだ。
そのため、このことは残念ながら誰にも口外できなかったが、その日の感動は密かに書き記している日記に克明に記してある。
結局、あいつはその姿を認めてから二週間、俺が勤労業務の帰りにそこを通りかかる時はいつも、原っぱの真ん中に唯一たっている大木の木陰にいた。
何をしているのだろうと気にはなったが、あいにく木は鉄条網からは絶妙に遠く、一瞬通り過ぎただけではわからなかった。
ラストチャンスだった今日、自宅にあった双眼鏡をこっそり鞄の中に入れてくることに成功したため何とか確かめたかったのだが、よりによって肝心のあいつがいない。
―クソ。これでまた振り出しか。
結局僕は、少なくともここにいる間にはじいちゃんとの約束を果たせなかったわけだ。
こみあげるいらだちをやり込めるように、俺は小さく地面をけった。
「おにーちゃん!?いい加減起きて!」
「ん…ああ…。今何時?」
「10時。全く。今日から新しいとこ行くっていうのに。」
「…まあいいじゃん今日くらい…」
A区の朝は通常6時と決まっている。休日でもそれは崩れない。なぜならうちは農耕を生業とする身分だからだ。農作物の世話に実質休みはない。生まれてからずっと、学校と農作業の繰り返しで一日が終わった。
しかし、それも昨日まで。僕は晴れて、今日から中央区にある国立中央中等教育学校に入学することになった。ここは、区の中でも2人しか入学できない最難関の教育機関である。毎年それぞれの区の幼年学校に通う12歳の子供たちに向けて一斉に入学試験が課されるしくみだ。俺はまあ、決して勉強が好きなわけではなく、いたって平凡な脳みそをしているのだが、とある秘策を使って区2位まで上り詰めた。まあ、その仕組みがばれたら確実にブタ箱なんだけど。
「全く。だらしないんだから。労働免除になったとたん寝坊なんて。」
「まあいいじゃん、出発は夜なんだし。それにまあ…いつ帰ってこられるかわからないしさ。」
「何黄昏てんのよ馬鹿兄貴。シーツ変えるんだからどいてよね。」
「あーわりいわりい。」
ひょっとすると今生の別れが洒落にならないかも知れないのでほのめかしたのだが、全くつたわらなかった。無理もない。ここにいる人は全員、中央区の本当の正体に気づいていないのだから。
何も知らない妹を横目に、僕は忌々しいバッチのついた規定服に袖を通した。
「あ、亮介くん!こっちこっち!」
つつがなく荷造りを終え、家族との別れを終えると、時間は夜の七時を回っていた。
よく言えばレトロで趣があり、悪く言えばぼろくて時代遅れの駅舎に行くと、見慣れた瓶底メガネの幼馴染が立っていた。というか明らかにリュックの大きさが合っていない。端的に言うとダサい。同じ規定服なのにどうしてここまでダサく見せることが出来るのか、不思議だ。
「もう…おそいよ亮介くん…乗り遅れでもしたらどうするのさ。」
「よう瓶底メガネ。わりいわりい。でもそんなに心配しなくても大丈夫だって。つか、乗り遅れるも何も、ここで俺たち乗せなかったらやばいのはたぶん中央の使いの奴らだろ?知らんけど。」
「まあそうだろうね。中央中学への入学を拒否して脱走を図った先輩の結末を考えるとその可能性が高い。あれ以来検閲も厳しくなってるし、だからこそこうしてそのノート一冊持ち込むのだって一苦労なんだけど。っていうか、新しい学校でもその呼び方したらほんとに怒るからね?計画も協力してあげないよ?ただでさえもう戻ってこれないかもしれないのに。ううっ…もう帰りたくなってきた…」
「あーわかったわかった悪かったよ士郎。それよか、本当に大丈夫なんだろうな?」
「うん。もちろん。いいね、亮介くん。これが最後の打ち合わせだからね。もう時間がないし、一回しか言わないからよく聞いてよ。」
これまでとはうってかわった士郎の真剣なまなざしが、もう引き返せないところまできたことを物語っていた。茶番はここまでである。俺は、二人で最後の打ち合わせをするため、駅舎の待合室に向かった。今日は3月の10日。あの日、真実を知ってから、俺はこの日が待ち遠しかった。何としてでも、中央区の真実にたどり着くために。そのためには、何としてでもこのノートを中央区に持ち込まなくてはならない。
長年守ってきた秘密を吐露し、この作戦に頭の切れる士郎を引き込んだのは、いわば一種の賭けだった。




