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はるかな未来の幸せを。

作者: 伊崎詩音

よしっ、と作ったおかずとご飯をお弁当に詰めて詰めて、結果的に大きな弁当箱を3つを専用の保冷バッグの中に詰める。


栄養バランスを考えながら、効率よくエネルギーに変えられて、身体をしっかり作れるように作ったメニューは、アイツの所属するクラブチームの栄養管理士にも太鼓判を貰えるくらいの出来だと自負するレベルの仕上がりだ。


これを食べて、しっかりと練習をこなして次の試合でも結果を出してもらわないと。


「まー」


「よく待てて良い子ね、勇斗。ママと一緒にパパにお弁当を届けに行こっか」


「ぱー」


渾身の出来栄えに満足していると少し離れたところから舌足らずな声が聞こえて来る。


最近、ようやく簡単にではあるけれどパパやママと喋れるようになった我が子、勇斗だ。


よちよち歩きでこちらにやって来るのを見て、思わず頬が綻ぶ。


あと4か月で2歳になるこの子はまだまだ可愛いの盛り。もちろん、大きくなったからといってこの子が可愛くなくなるとは思わない。


やがて反抗期が来て、親に反発するような頃も来るのは重々承知しているけれど、それも我が子が健やかに育った証。


この子の事が煩わしくなる事はないと、私も夫もしっかり心に刻んでいる。


抱き上げた勇斗が腕の中でキャッキャッとはしゃぐ様子に頬を綻ばせながら、私は完成したお弁当を入れた保冷バッグを自分の鞄の中に入れ、背負う。


勇斗と合わせると少し重いけどこのくらいなら問題ない。私もこれでも鍛えている運動はバリバリの体育会系だからね。


それにしても子供がいると背負うタイプのバッグは必需品であるとよく分かる。

荷物を運びながら、子供を抱っこしたり構うのに両手が空く背負い鞄は本当に重要なアイテムの一つだ。


なにより容量が大きい。おむつや簡単な着替えなどなど、色んなものを常備品として鞄に詰めておけるのも魅力的。


そんな必需品とお弁当を入れたバッグに、子供用の小さな靴を履かせた勇斗を抱きかかえて、私は家の外へと出て行った。


市街地のアパートメントである今住んでいる部屋は見晴らしもさることながら立地や広さ、機能性や防犯性にも優れた、良い物件だと思う。


まだ婚約どころか、ただカップルだった今の夫の後を追って、日本を飛び出してヨーロッパはイタリアに住むようになって早6年になったところ。


今ではすっかり海外での生活にも慣れ、イタリアのサッカーリーグでエースとして奮闘する夫と結婚したのが4年前。我が子を授かったのが約2年前となると、月日の流れというのはとても早くなっていると改めて感じる。


「まさか、日本を飛び出てイタリアで生活することになるとは、思いもしなかったけどなぁ」


実家の家業を継ぐこと以外考えてなかった学生時代は、自分でも驚くくらいそれ以外の事をかなぐり捨てて家業に打ち込んでいた。


それはサッカーに打ち込んでいた今の夫も同じで、私達は競うようにして切磋琢磨し合っていたのだけれど、それがまさか夫婦になって、私は今すぐに家業は継がずに夫をサポートするために一緒に右も左も分からない海外生活に飛び込むことになるとは、当時は思ってすらいなかった。


「というか、そもそも結婚するなんて考えてなかったもんねー?」


「まぁ?」


腕に抱える我が子に冗談めかして話しかけると不思議そうな表情をして見上げて来る。


本当に可愛い。私が子供好きだっていうのは、高校3年になってようやく気が付いたことの一つだったけれど、それよりも何よりも私と夫が結婚すること自体が、当時は考えられないというか、本来なら有り得ない事だったのだから。


「女の子になって気が付いたらもう8年経つんだもんなぁ。たった8年と言うべきなのかちょっと迷うけど、まさかその間に結婚して、子供出来て、なんて過去の私には考えられないよね」


何せ、8年前まで私は正真正銘の男子高校生。子供を産むとか、夫と結婚するとか、そんな次元とは全く話が別な、夫とは家が隣の幼馴染でどちらが先に夢をかなえるかの良きライバル兼親友的な間柄だったのだから。


高校二年の春に母校で起こった大事件を原因に、女の子の身体になってしまった私は当初は元の姿に戻ろうと、なんとかその原因を突き止めようと奔走していたのだけど、紆余曲折があり私が女の子として今後の人生を歩んでいくことを決めたのが高校三年生になってから。


そこに行きつくまでの間に、必死になって支えてくれた夫にすっかり惚れてしまったり、女の子として最初の親友になった子と夫を奪い合ったり。


いろんなことを経験してたら、イタリアのクラブチームのスカウトマンに引っこ抜かれた夫を追って、イタリアまでやって来ていたというのだから、我ながら中々とんでもない半生だと思う。


その半生の中には、一般人のそれを軽く凌駕するとんでもないストーリーがあったりするんだけど、それはもう昔の話。


今はすっかりその時の名残もほとんどなくて、ごく稀にその時関連の噂を聞いた時に、極秘に調査したりするくらい。


ま、そんな非日常の事は置いておいて。今は結婚4年目のイタリア生活について語るとしよう。


今住んでいる街の名前はトリノ。イタリア北西部にある比較的大きな街だ。

過去にはイタリアの首都になったことがあることもある古都で、日本で言うところの京都がその印象に近いかも知れない。


風光明媚な観光地を数多く有していて、世界遺産に登録されている旧王宮があったり、何故かエジプト博物館があったり、あと有名な自動車メーカーの博物館もある。


そんな色んな歴史を内包した、良い街だ。気温も、夏は30度を超えることは少ないし、冬も実家の東北の寒さに比べればなんてことはない比較的温暖といえる気候だと思う。


西には雄大なアルプス山脈が連なっていて、自然の気配もしっかり感じられる。そのことについては個人的にはとても良い条件の一つ。


東京は何度か行ったけど空気が本当に合わなくて、あっという間に体調を崩してしまったのだ。

そんな私の体質的にもこの街の空気というのは生活もしやすくて、ちょうどいい。


「まぁまー」


「なぁに?」


抱える勇斗が辺りをキョロキョロしてから私たちはアパートメントを出て、市内を走る路面電車の駅へと向かう。


何がある訳でもなく、喋り続ける我が子に相槌をうちながら、座席に座って私もちらりと外を眺めると、ずらりと並ぶ石レンガ造りのアパートメントや商店の数々が延々続くと思われるほどに長く続いている。


日本では見ない、だけどここ数年で見慣れた風景に目をやりながら、私は夫が練習をしているスタジアムへと向かった。






路面電車で最寄りの駅に到着するとそそくさと関係者用の入り口へと向かうために歩みの速度を上げていく。


夫がチームでもしっかりと成果を上げている選手なだけあって、妻である私の顔も割れている訳だ。


パパラッチとは少し違うけど、辺りをうろついている記者に何かと付き纏われたりすることは少なくない。


前に一度だけ、無理矢理路地裏まで引きずり込もうとした横暴な輩もいたりしたのだけれど、その時はそれはもうボコボコにして警察に突き出している。


私に勝とうなんて一般人には百年早いと言うやつだ。

私だって、プロリーグに該当するものがないだけで、その道では世界を取れると自負している。生半可な輩には負ける気は毛頭ない。


因みにその事件は翌日には朝刊の一面を飾り、見出しには『アジアから来たスーパースターの奥様はスーパー侍ガール』的な文字が踊っていた。

2人で爆笑したのを覚えている。


「お待ちしていました奥様。我がチームの誇る旦那様は練習を終えたところですよ」


「奥様は止めてよ。でもありがとう、いつもの場所にいるの?」


「えぇ、今頃腹ペコでしょう」


スタジアムの関係者入り口にやって来て、関係者用のパスを掲示して署名やらなにやらの手続きを慣れた手つきで行うと、入り口の警備の人がやって来たので少し会話をして、夫が待っている場所へと向かった。


時間もちょうどいいらしい。まぁ、お昼だし長年通っているので大体この時間にお昼休憩が入ることも知っているので、特に驚きも何もある訳ではない。


廊下を進み、スタッフの人達とも軽い挨拶を交わしながら進んで行くと、やがてガヤガヤと一際人が集まる場所へとたどり着く。


所謂社食。このクラブチームの選手やスタッフの為に用意されたレストラントだ。


お昼という時間帯もあり、多くの人で賑わうその場所でキョロキョロと夫を探していると、スタッフや選手からあっちにいたよと指さしで教えてもらう。


私がここに通い始めてもう6年になるので、すっかりこの食堂での当たり前の光景として認知されているらしい。


ちなみに、ごく稀にナンパして来る人もいたのだけれど、その人はもれなく夫に笑顔の怒りをぶつけられて震えあがっているので、イタリアの伊達男達にも私には手出し無用という不文律が出来ているようだ。


そもそも、新聞に載るほどの腕っぷしの強さもバレているので、いくら私が魅力的な女性に見えても、大き過ぎる棘に誰も触ろうとは思わないだろう。

ましてや、今は子供も釣れているのだからなおさらだ。


「おっ、奥様が来たぜ」


「おーい、こっちだこっち」


そのレストラントの一角、スタッフさん達に教えられた方向へと向かうと、何人かの選手が手を挙げているのが目に入る。


どうやらあそこに夫はいるらしい。気さくな選手たちにこちらも手を挙げて答えると、手招きを受けたので、少しだけ歩調を速めてその場へと進んで行く。


「練習お疲れ様」


「お疲れ、我らがマドンナ。それと未来のスーパースター。今日もお目にかかれて嬉しいよ」


「おいおい、開口一番に口説くなよ。後でぶっ飛ばされるぜ?ま、俺らのチームの女神であることは俺も異論は無いけどな」


「お前も口説いてるじゃねぇかよ。俺も異論はねぇけど」


口々に私に声をかけるのは流石はイタリアの伊達男と言ったところ。女性には声にかけずにはいられない性なのだとよく分かる。


その女性が10年前程は完全な男子だったことを知られたら、彼らが一体どういった反応をするのか、少しばかり気になるところでもある。


ま、流石にリスクとリターンを考えると良いことがなさそうだから語ることは今もこれからもないだろうけど。


「お前ら、人の嫁を口説くとは良い度胸だな」


「良いじゃねぇかよ。女性は口説けば口説くほど綺麗になるんだ。お前はちょっと口説かなさ過ぎだぜ」


「日本人の悪いところだぜ。それだけで美しい女性はもっと美しくなるのに」


如何にも不機嫌といった様子の表情をして現れた夫に、チームメイトたちは褒めないお前の代わりに褒めているんだと口々に言う。


まぁ、確かにあまり夫は私が綺麗だとか、そういう褒めの言葉をかけて来ることは少ない。


代わりに日頃からの感謝の言葉は毎日もらっているので、あまり文句はないけれど、夫に直接褒められた日には舞い上がる自信しかない。


「ええぇい、いいからどっかに行けよお前ら」


「ははは、馬に蹴られる前に退散するさ。では、我らがマドンナまた後で」


「未来のスーパースターもじゃあね~」


夫にしっしっと追い払われて、席を離れていくチームメイトの人達に勇斗と一緒に手を振りながら彼らを見送る。

喧騒にまぎれた彼らの姿が一通り消えると夫は全くと肩を竦めてから私に向き合った。


「悪いな。相変わらず軽い連中で」


「悪気あるわけじゃないし、良い人達なのはよく分かってるから平気だよ。それより、ハイお弁当」


練習用のウェアから、休憩用のそれに変えてある恰好の夫にお弁当を手渡すとありがとうと頬を緩ませながら返されて、私も思わず頬が緩む。


「ぱーぱー」


「おう、勇斗もありがとな」


「ぴゃーっ!!」


勇斗なりの労いの言葉なのか、舌足らずの言葉で夫を呼ぶと、夫も勇斗に手を伸ばして頭を撫でてる。それに嬉しそうに声を上げているのを見て、何とも言えない感情が胸を埋め尽くす。

幸せ、と言うのはこういうことを言うんだと思う。


キャッキャッと喜ぶ勇斗とひとしきりじゃれた後にお弁当の包みを開け、夫は手を合わせていただきますと言ってから、お箸でお弁当をもぐもぐとかき込み始める。


世界で活躍するサッカー選手である夫は身体が資本。食事に気を遣うのは妻である私の仕事でもある。


元より、私もスポーツマンだった経験もあり、女の子になってから始まった母の熱心な指導もあって、この辺りの身体を作り、エネルギーをしっかり供給する献立造りは手慣れたものだ。


最近では、メニューを見たクラブの管理栄養士と一緒にクラブ全体の献立を考えたりすることも多い。


元々実家は純和風の家系というのもあって、メインで覚えていたのも和食が中心だったのだけれど、こちらに来てからは管理栄養士の方とのレシピの共有もあって、洋風のレシピもだいぶ増えて来た。


「んまー?」


「あぁ、美味いな。勇斗と一緒に昼は済ませてるんだよな?」


「こっちに来る前に済ませてるから大丈夫。育児だって身体が資本だもの、食事はちゃんと摂るって」


心配性な夫に食事をちゃんと摂ったのか聞かれて、当たり前に摂ったと答える。


何かと育児は体力を使う。


勇斗が生まれたばかりの頃は夜泣きやら何やらで食事もうまく取れなくて、心配させたのが原因だけれど、今は家事の一部はお手伝いさんに任せているのもあって問題ない。


海外はこういう部分が進んでいるなと度々思うところの一つだ。

逆に日本の方が便利だなと思うことも多々あるので、その辺は一長一短というところだろう。


「どう、練習の調子は」


「良い調子だよ。監督からもコーチからも良い反応もらえてるし、チーム自体の成績も良いし。ジェネラルマネージャーからはイタリア国籍をとらないか?って相変わらず耳にタコが出来るくらい言われてるけどさ」


苦笑する夫は会話の合間にも、もぐもぐと箸を進めて次から次へとおかずやご飯を口の中に放り込んで行く。


そんなに詰め込んで、むせないか心配になるというかちゃんとよく噛んで食べてね?とは思うんだけど、そこはやっぱり男の人ということなのかな。


凄いペースで減っていくお弁当を見るのはなんだかんだ楽しいし、嬉しいから私も特に強く言うことはないんだけれど。


「あははは、それはちょっと困るなぁ。引退したら、今度は私が実家を継ぐんだから」


「何回も言ってるんだけどな。それに、俺はやっぱ日本人だから。背負うならやっぱ日本の国旗とユニフォームだなって思うよ。いつかサムライブルーで世界取るのが、俺の夢だからな」


熱心に夢を語る夫のその言葉も、私は何度となく聞いてはいるのだけれど、その度にこっちも身が引き締まる思いだ。


夫の身体を作る食事を作るのも、ストレスの少ない私生活を送ってもらうべく、家事は私が専業でやったりなんかして彼がサッカーに集中できるような環境を、率先して作ってあげないとその夢は叶わない夢になってしまう。


家事に関してはお手伝いさん込みだし、お金は夫の稼ぎで沢山あるので、その辺りの手間やお金で削れる時間はしっかり削らせてもらっているけれど、食事はやっぱり気を遣う。


特に国際試合等の前に行うドーピング検査等の時は尚更だ。風邪薬やサプリメント等にドーピングに引っかかる成分も多いので、本当にデリケートな部分でクラブの栄養士の方と一緒になって沢山勉強をしていたりする。


「俺が引退するまで、世話を掛けさせる。悪い」


「どこが悪いの?それに、こっちこそ昔散々お世話になったんだから、このくらい大したことないよ。私がやりたいと思ってることやってるだけだし」


夫はこうして私に色々手間を掛けさせていることに多少の負い目を感じているみたいだけど、そんなものは負う必要はない。


なんなら学生時代の私が女の子になったばかりの数年間の彼の心労気苦労を考えれば、なんてことはないと思う。


何せ幼馴染が目の前で姿形が変わっていく様子から、男に戻るための協力、男女の精神の狭間で揺れ動く私の精神的身体的なサポート、などなど当時の夫がしてくれた目に見えない気遣いや気苦労は今の私のそれよりずっと苦しいモノ。


なにせ自分の意志に関係なく、他人に振り回されるのだ。それは夫が時折評価されている、鋼のような精神力の強さがあったからだと思う。


……その鋼のような精神力のせいで、私が彼に惚れたことを自覚してアタックするようになってからも明確な進展が少なかったのも事実なんだけど。


なにせ結婚するまでいわゆる婚前交渉はしないとまで言ってくるような男。


誠実さの塊と言えば聞こえはいいけれど、こちとら身も心も捧げるつもりで三つ指揃えて待っているのに、その目前で待てをくらったのは、非常にヤキモキさせられる時間だったことをよく覚えている。


その代わりに、今は、いや昔からだったのは分かってるんだけど、とても大事にしてもらっている。子供が生まれてからは本格的に肝が据わったようで、昨年はなんとヨーロッパリーグでアジア人初の得点王に輝いた。


イタリア国内も、日本も、世界中がこのとんでもない偉業を讃え、各国の新聞の一面を飾るほど。


妻である私も鼻が高く、度々記者からのインタビューに答えることもあるくらいには、彼の活躍というのはスポーツ界で大変目覚ましい活躍なのだ。


「……どうした、ニヤニヤして」


「ううん。私の自慢の旦那様が、明日の試合は何点決めてくれるのかなって」


「おいおい、ハードル上げるなよ。結構大変なんだぞ?一点入れるのだって」


「ふふっ、分かってる」


勘弁してくれと肩を竦める彼をからかい、ミニトマトを摘まんで彼の口元に運ぶと彼は渋々といった様子で口を開けてミニトマトを口の中に入れて咀嚼する。


日本のトマトもおいしいんだけど、さすがはトマト料理の本場イタリアはその種類が段違いで、トマトというだけで何種類もの違いがある。


色、形、味、を料理に合わせて使い分けるこの国の料理は酸味と塩味のバランスが良いのが多くて、本場のイタリアンは本当に美味しい。


「あーぅ、あー!!あー!!」


「どうしたの勇斗?」


「飽きたんだろ。1歳児がここまでおとなしく出来ただけ立派だよ。俺は食ってるから少し遊ばせて来たら良いさ。今ならみんな大歓迎だぜ」


腕の中でおとなしく抱きかかえられていた勇斗がもぞもぞと身じろぎをしながら声を出し始めたので、夫の言う通り遊ばせに行くことにする。


幸い、このチームはとても子供に優しい。勇斗の顔を見ると笑顔で手を振り、子供好きな人は一緒に遊んでくれたりするくらいには。


「ははは!!元気なのは良いことだぞ!!未来のスーパースター!!どれ、おじさんとサッカーの練習はどうかな?」


「監督。お疲れ様です」


そこにやって来たのはこのチームを率いる監督さんだ。今は恰幅のいいおじさまだけれど、元はイタリアを代表するサッカー選手だったそうで、それはもう有名な人だったらしい。


このチームを率いるにあたり、当時チームコーチだった彼が夫の全国大会の活躍を偶然見て、スカウトを飛ばしたという彼がこの大舞台で羽ばたくきっかけをくれた人でもある。


因みにチーム1の子供好き。こうして夫の昼食を持ってくる私達親子にはとても良くしてくれている。


「ありがとう我らがマドンナ。今日も君の王子様は素晴らしい動きをしていたよ。明日のホーム試合での活躍も楽しみだ」


「光栄です。明日の試合も応援させていただきます」


「それは良い!!チケットはすでに?」


「はい、おかげさまでとても良い席を」


明日このホームスタジアムで行われる試合のチケットはすでに購入済み。明日は勇斗と一緒に夫とチームを精いっぱい応援するつもりだ。


それを聞いて、監督さんはとても満足そうな笑みを浮かべながら、床に降ろしてよちよちと歩き回る勇斗と遊んでくれている。


「相変わらずよく出来た女性だ。サポーター達からも勝利の女神と語られる貴女が来てくれるなら、明日の試合もきっと快勝出来るだろう」


「ふふっ、精いっぱい応援させてもらいます」


少し恥ずかしい話なのだけれど、先ほどから言われているマドンナや、勇斗を指して言っている未来のスーパースターなどの他に、チームサポーターの一部が私のことを勝利の女神、なんて呼んでいる。


私が直接スタジアムに観戦に来ているときはチームは負け知らずなことからついたあだ名みたいで、最近では日本でもそのあだ名が伝わって、日本代表戦を観戦した時に勝った時も、日本の新聞やニュースで取り上げられるくらいになってしまった。


正直、偶然だと信じたい。というか真面目に恥ずかしいのだけれど、そうやってチームの勝利のゲン担ぎとなるのなら恥ずかしさを押し込めて、出来る限りの応援をすることにしている。


……実を言うと、私が来ることそれで夫が張り切ることで本当に勝利の女神というか、私達が制御出来ない部分でとある作用が起きていたりするのは本当だったりするのだけれど、流石にそれを言っても証明のしようが無かったりする。


なにせ科学では証明出来ない分野。

そもそも私達夫婦は純粋な人間の範疇から飛び出してしまっていることにも由来するのだけれど、これは生涯、私達とその関係者にしか語らない、語れない真実だったりする。


まぁ、一応本来はちゃんと人間として生まれているので許してほしい。

私達が制御している、制御出来る部分とかじゃなくて、良かれと思って張り切ってしまう別の存在がいるんだよね。


「おぉっ、ナイスシュートだ。流石は未来のスーパースター、将来有望だな!!」


「ひゃあぁぁっ!!」


小さなボールを蹴って遊ぶ勇斗とそれを誉めちちぎる監督を見ながら私はただただ頬を緩める。

私たちが掴み取った平和が、こうして目の前で実感できる時ほど、うれしいことは無い。


「ご馳走様。今日も美味かった」


「お粗末様。今日は早く終わるんだよね?」


「あぁ、試合前の調整くらいだからな。よぉーし、勇斗。パパと遊ぶぞ~」


「ぱー!!」


そうしている間に、お弁当を食べ終わった夫が空になったお弁当箱と保冷バッグを手にこちらにやって来て勇斗と遊び始める。


彼は少し子供が苦手だったんだけど、勇斗が生まれてからはすっかり子煩悩で、疲れていても遊ぼうと言われたら遊ぶし、オフの日は率先して勇斗の世話をしてくれているのはとてもありがたい。


こうして、お昼の休憩が明けるまで私たち夫婦と勇斗、そしてチームメイトの人達と私たちは交流を深めていた。









夜、先に帰っていた私達と試合前日のため普段より早めの時間に帰って来た夫と夕飯を取り、勇斗と夫が一緒にお風呂に入っている最中に、私は食器を洗って、洗濯機を回す。


家の掃除は、私たちが留守にしている間にお手伝いさんが済ませてくれているから、そちらはお任せ。


今ではロボット掃除機という便利なアイテムもあるしね。時折、勇斗が追いかけて遊んでいるのが微笑ましい。


「まー」


「おい、勇斗、素っ裸で逃げるな」


お風呂から上がって、脱衣所から逃げ出した勇斗を追いかけて、夫がパンツ1枚で出て来る。


あなたも半裸で出てきている辺り同じようなものだ。明日の試合前に風邪なんてひかれたらたまったものじゃないので、黙って寝巻のジャージをぶん投げて渡す。


「ぶっ、何すんだよ?!」


「おバカ、あなたが風邪ひいたら元も子もないでしょ。私が勇斗の着替えはやるから、自分のことをしっかりしてね」


投げつけられて不服そうにしているけど、真っ当なことを言われた彼はいそいそと投げ渡されたジャージを着始める。


食器を洗うのもひと段落していたし、私も手を洗ってから足元でじゃれついているすっぽんぽんの勇斗を抱きかかえて、勇斗の着替えを始めた。


あっちこっちに逃げようとする勇斗を手早く捕まえて、おむつを履かせてパジャマも着せるのは意外と大変なのだけど、だいぶ手慣れて来た。


「うぅーばー」


「ば~」


良くおしゃべりをする勇斗にちゃんと反応を返してあげると勇斗は嬉しそうに手足をばたばたさせて声を上げる。


まんまるい身体をころころさせて、表情もその都度変わる自分の子供を見るのは、それはもうなんとも言えない胸を満たされる気持ちになる。


私も、すっかり母親になったなぁ、と思うところだ。10年前まで結婚なんてお見合いか何かで済ませればいいだろうなんて考えていた元野郎とは思えないと自分でも笑ってしまうくらいには。


「ありがとう、助かった」


「こちらこそ、お風呂入れてくれてありがとうね。私も入って来ちゃうよ」


「あぁ、その間に寝かせておく」


着替え終わった夫と入れ替わりで、私もお風呂の準備を始める。その間に夫が勇斗を寝かしつけるのが最近のルーティンだ。


こうして私が一息つける時間を少しでも作ろうとしてくれるのは、相変わらず気遣いの塊みたいな人。だからモテるんだよねぇ。


学生時代、そして結婚前のバチバチの女の戦いを思い出して苦笑いしながら私は着替えとタオルを片手に浴室に向かう。


夫の学生時代は先輩に言い寄られたり、気が付いたら私の親友の女の子と夫に気持ちを伝えあったり、イタリアに来てからは言い寄ってくるイタリア美女たちを蹴散らしたりとそれそれは大変だった。


特に先輩の話とイタリア美女を蹴散らすのは大変だった。言い寄る先輩もそうだけど、イタリア美女はなんたって抜群のプロポーションを誇るまさしく美女。


男性からしたら魅惑的に映ること間違いなしのそれを使ってガンガン夫に迫っていくのを私も身体を張って蹴散らすという血を血で洗うような女の戦いがあったのだ。


ホント、男のころには考えられないことばかりだ。それくらい夫に惚れこんでいたともいうし、もちろん今でも愛している。恥ずかしくてあんまり言えてないけど。


「ふぅ」


浴槽のお湯に全身を浸しながら、大きく息を吐いた私は明日の試合の応援をいかにするかを考えながら、たっぷり1時間の入浴を楽しんだのだった。












翌日、ホームスタジアムでの試合は非常に順調な試合運びだった。

前半半ばに素早く切り込んだ味方のFWが味方のスルーパスを受けて、テクニカルにかかとを使った見事な1点を入れて1-0のリードをしたまま前半を終えたところ。


「ぱー!!」


サポーターの声援に交じって小さな体で精いっぱい応援している勇斗を微笑ましく見守りながら、私もドキドキしている心臓を落ち着かせようとしながら、今日の試合が無事に終わるように思い続ける。


勝つこともそうだけれど、何より怪我が怖い。試合中には思いもしない怪我をしてしまうことが多い。


ひと試合でとんでもない距離を走り回るサッカーは疲労での怪我も多ければ、選手同士での競り合いによる怪我も多い。


そうなれば、ひどいと選手生命にかかわることもある。そんな怪我をしないかが私の一番の不安で、そうならないようにいつも試合の時は祈るようにピッチを見つめている。


「今日は勝利の女神様も観戦してるからな!!快勝間違いなしだぜ!!」


「違いない!!世界最高のチームに勝利の女神さまがセットになれば負けなしだぜ!!」


「「「うおぉぉぉぉぉぉっ!!!!」」」


盛り上がる私の周囲のサポーター達の言葉に思わず頬が赤くなる。スタジアムのスクリーンにはアップされた私の姿も写っているから尚更。


それを見てさらに盛り上がるスタンドの様子に選手たちは大笑いしながら一緒に盛り上がっている。


チームメイトたちに茶化されながら、夫は背中をバンバン叩かれているのが少しクスリと来る光景だったりもする。


「ぱー!!!ぱー!!!!」


「頑張って」


そんな地元サポーターたちの熱烈な声援を受けて、後半を告げるホイッスルが鳴り響く。まだまだ試合は一点差。相手に得点されれば試合は振出しに戻る。

まだままだ気の抜けない試合に同じように熱烈な応援をする勇斗と、見守る私は小さく応援を続けた。





試合が動いたのは後半15分頃のことだった。攻め込んできた相手チームに対してディフェンスを固めるチームメイトたち。


試合が自分たちに有利だとしても、相手は自分たちと同じ名門チーム。油断をすれば一瞬で守備を掻い潜られて、ゴールまで肉薄される手強い相手。


そんな両者一歩も譲らない中、相手のパスに飛び込む鋭い味方のパスカットに、夫は素早く反応して前線を持ち上げる。


夫のポジションはMF。ボランチとも称されるこのポジションは攻撃にも守備にも強くかかわる特に運動量の多いポジションで、夫はその中でもトップ下と日本では呼称される花形のポジションの一つ。


そんな重要なポジションに着く彼の最大の武器は、その全体視野の広さと世界トップクラスと称されるボールさばきにある。


「――っ!!」


パスカットをした味方の姿を目視した瞬間、ちらりと周囲のディフェンダーの姿を確認すると、その相手ディフェンダーのマークから自然と外れるような位置へと移動する。


不意打ちのパスカットに視線が向き、ディフェンスもそちらを注視している間にマークから素早く外れた夫は、ほとんどボールを弾ませること無くパスを受ける。


技術的にこの時点で高等技術らしい。上手い選手とはパスを受けるのが上手いのだと監督さんが言っていたっけ。


そうして受け取ったボールを蹴り出し、一気にピッチを駆け上がる。

疾風迅雷、いや夫なら風林火山の火の如しか。


迫って来た相手ディフェンダーの1人を躱すとそのドリブルのスピードは一瞬でトップスピードに上がる。


その様子に、サポーターのボルテージは同じようにうなぎのぼりに上がっていき、凄まじい声が辺りから湧き上がってきている。


「いけっ!!!!いけっ!!!!!」


「あーーーーーっ!!!!」


思わず、私の応援にも力が入る。勇斗もフェンスにしがみつきながら手足をばたばたさせて喜んでいる。

その声援が届いたのか、それとも別の何かか。そこからは彼の独壇場と言って差し支えなかった。


夫の輝かしい功績は相手選手も良く知っている。どれほど自分たちにとって危険なプレイヤーなのかも、彼らは当然分かっているので、一瞬で外れたマークをすぐに立て直し、更に三人がかりでプレッシャーをかけて来る。


それをまず一人、フェイントを一回二回と入れた後にターンをして躱す。次に迫って来たディフェンダーを近くまで来ていた味方にパスを出し、その味方がワンタッチですぐにパスを夫に返す間に、彼は二人目のディフェンダーを抜き去っていた。


三人目は文句なしの芸術的な股抜き。相手の足の間にボールを通して、実にあっさりと三人のディフェンダーを躱して見せた。


残るはゴールを守るキーパーのみ。ゴクリと喉を鳴らして見守る中、振りぬかれた右足から放たれたシュートは。


「「「わああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」」」


この歓声が示す様に、ゴールの向かって左上、ポールと飛び上がったキーパーとのわずかな隙間に見事に突き刺さり、ゴールネットを揺らした。


ガッツポーズをする私と轟雷のように響き渡る歓声の中、ゴールを決めた彼はノリノリで得点を決めた時のパフォーマンスを決めて周囲へとしっかりアピールし、その間に近づいていたチームメイトたちに飛び掛かられて、揉みくちゃにされていた。




結果、試合は3-0の快勝。文句なしの完全勝利で試合を終え、試合後のヒーローインタビューは流れを一気に引き寄せた夫へと向けられた。


「相変わらず魔法のようなボールさばき、見事でした」


「ありがとうございます」


「今日はチームの勝利の女神とも言われている奥様と息子さんもご覧になっていた様子ですが、見事勝利を決定づけたゴールを決めた感想や奥様への一言などを」


「妻にはいつも感謝しています。彼女の支えがなければ、今私はここに立っていない。いつも感謝は伝えているつもりですが、改めてありがとうと。それにサポーターの皆さんの声援も力になります。今回はホームでの試合でしたが、ぜひアウェーでの試合でも今日のような熱烈な応援をお願いします」


そんなヒーローインタビューの答えに、それらを映すカメラは一斉に私と勇斗を映すのを感じ取る。


やっぱり少し恥ずかしいけど、堂々としながら膝の上に座る勇斗の手を取って、カメラへと手を振ると、スタジアムからは再び大きな歓声が沸き上がった。


「美くしい奥様で羨ましい限りです。では監督、よろしくおね――」


インタビューは続いて監督へと続き、私達家族への視線は一旦外れる。その間に、チームスタッフに囲まれるような形で、私と勇斗はスタンドから足早に立ち去り、関係者入り口へと案内されるのだった。










「お疲れ様」


「サンキュー。お前と勇斗の応援のおかげだな」


チンっとグラスを軽く当てて、2人そろってワインを煽る。私はあまり強くないけれど、お酒は嫌いじゃないし、夫に至ってはチームでも有数の酒豪としてチーム内では知れ渡っている。


今日は大事なホーム戦での快勝ということで、簡単だけど祝勝会としてこうして二人でお酒を楽しむことにした。


「本当、いつもお前の声援には背中を押されるよ。その歓声の中でもいつもお前の声だけはどんなに小さくても聞き取れるんだ。勇斗の声もな。あの時、高校最後の全国大会決勝の時もそうだったよ」


「もう、その話は何回も聞いたって。その声援に応えるあなたが一番凄いのよ?」


その話は、もう何度となく聞いた話。高校最後の全国大会、その決勝。


当時、私達が抱えていたトラブルや問題がひと段落し、彼の怪我も無事に完治して、落ち目の名門学校と後ろ指を指されていた母校のサッカー部を全国優勝させた、夫を一躍有名に押し上げたあの試合は、私もよく覚えている。


あの時は、お互いたくさんの障害を乗り越えて、私も女の子として生きる覚悟を決めて、彼も自分が異性として私が好きな事を認めて、紆余曲折の末に恋人になった直後の試合。


ゲームは0-3。母校のチームが一点も取れないまま迎えた後半戦。誰もがほぼ試合が決まったようなものだと思っていたあの時。


ピッチに俯いている彼らを、もとい当時の不甲斐ない夫を見て、スタンドから私がキレ散らかしながら喝を飛ばしたのだ。


ハッとしたように顔を上げる当時の夫の目に、メラメラといつも通りの闘志が戻ったのを見た私は、勝っても負けても良いから悔いのない様にだけと思っていたのだけど。


「いや、俺の力の源はいつだってお前であって、家族だよ。当時の俺はお前に一番カッコいいところ見せたかったし、今だって勇斗にいつまでもカッコいい親父でいるのがモチベーションの一つだ。そうじゃなかったら後半とアディショナルタイムで4点なんて取れるもんか」


そう、この男。後半の45分とアディショナルタイムの約5分。合計約50分の間に相手ゴールに4本ものシュートを突き刺し、奇跡の4-3逆転優勝などというまるで漫画のような展開をやってのけたのである。


その劇的な逆転劇は全国ニュースを飾り、今のチームの監督。当時はコーチだったあの監督さんに目に留まり、高校卒業後にすぐにイタリア1部リーグの名門クラブに加入。


この6年間でメキメキ頭角を現し、5年前から日本代表に選出、五輪にも参加し、ベスト11に選ばれたり、昨年はイタリアリーグの得点王に輝いた。


今や世界屈指の名ストライカーでありゲームメイカー。定期的に他のクラブからの移籍の打診をされるくらいのスタープレイヤーにまで成長している。


「勇斗に誇れるような親父になりたいってのが、今の一番のモチベだけど。やっぱり、ここ一番の力を出す時はお前の声援が一番だよ」


「それはそれは、嬉しい限りってやつかな。勇斗にはやっぱりサッカーをしてもらいたい?」


ここでふと思い至った疑問をぶつけてみる。夫としては長男の勇斗にどのような夢を追ってほしいのだろうか。

やはり、背中を追ってほしいと言う願望は無きにしもあらずな気はするけど。


どうなのか聞いて見ると、彼は思ったよりも悩んだ様子で、おつまみのチーズを齧っていた。


「うーん……、サッカーじゃなくても良い。何かスポーツに打ち込んで欲しいなとは思う。俺とお前の子供だ、スポーツの才能はそれこそ未知数だろ」


「ふふっ、それは間違いないわね」


私も勉強より運動が得意な、もしその道の大会でもあれば世界一をもぎ取って来る自信がある程度には運動能力に長けている。


確かにそんな二人を両親に持つあの子のスポーツの才能は計り知れないものがあると思う。

扉の向こう、寝室のベビーベッドですやすやと寝息を立てているだろう我が子を思って、私は頬が緩む。


「何でもいい。サッカー、野球、テニス。お前に似れば柔道なんかも良いのかもな。勇斗がこれからすくすく大きくなっていって、カッコイイと思ったスポーツとかこれをしたいんだって思うスポーツに打ち込んでくれたら、俺としては嬉しいよ」


そう言って、一息つくようにワインを口にする。


一体、我が子はどんな将来を描くのか、私も今から楽しみだ。私としても是非スポーツの道に進んでくれたらな、とは思うところ。それに対して、でもと彼は口を開いて見せた。


「もしスポーツ以外の、たとえば研究者だとか、プログラマーとか、そういうスポーツ以外の夢を持ったとしても、俺は全力で応援するよ。それが親だからな、親の期待通りの夢だけを追わせるのは違う。俺たちの子供はその子達自身が選んでこそ、意味があると思う」


「……そうだね」


私にもその言葉は突き刺さるものだ。10年前くらいの、学生だった私は、実家の家業を継ぐことしか考えてなくて、それしか自分にはないと思っていた。


でも、それは少し違うんだと、自分が女の子として生きる決断をする段階で気が付いた。


真っすぐ、用意されたレールを真っすぐ走ることだけが、私の人生(レール)ではなかった。


横を見れば後ろを振り返れば、そこにはたくさんの可能性や出会いが沢山あって、そちらに向かったって全然構わないことに気が付いたのだ。


そういう事もあって、こうすべき、こうあるべきと勝手に凝り固まっていた当時の私の考えを変えてくれる切っ掛けをくれたのも夫だ。

でなければ、私は今頃、実家に戻って家業を継いでいる頃だろう。


幸い、その件については私の両親も危惧していたらしく、最終的に継いでくれればそれでいい、俺はあと20年以上現役を張る自信があるから、それまでは自分のために自由に生きて欲しいと、イタリアに来る前に父に言われた。


勇斗にも、そういう自由な選択を用意してあげたい。


「ただ、まぁ、一つ懸念もあってさ。将来、俺が現役を引退するなり、イタリアから日本のクラブに移籍することがあったりとか、最終的にはお前の実家を継ぐのが約束だろう?」


「約束、ではないけどその方が嬉しいかな」


将来、多分40を越えた頃に日本に戻り、実家の家業を継ぎたいとは考えている。それがどうかしたのだろうか。


「そうするとさ、勇斗にも自動的に継がなきゃいけないって気持ちが生まれるかもしれないだろ?昔のお前みたいにさ。それに、俺らの代でお前の家の歴史ある家業を潰すのは俺としても嫌だしさ」


「うん」


「その、だからさ、そのだ」


「うん?」


急に煮え切らない態度になった夫に首を傾げていると、おほんっとわざとらしく咳ばらいをして何やら覚悟を決めた様に改まって、こちらに向き合う。


「二人目、作らないか」


「……ぷっ」


やたら決め顔で、そんなことを言うものだから思わず私はおかしくて噴出してしまう。


キリっとカッコつけた表情で言うような事でもないだろう。あんまりおかしくて肩を震わせていると、やがて夫も不思議そうにしていた表情からそれはそれは不機嫌そうな顔に変わる。


それがおかしくて、私は更に声を上げて笑ってしまった。そうすると、みるみるうちに夫の機嫌は悪くなっていきやがて面白くなさそうにワインを豪快に煽り始める。


「ごめんごめん。だってそんな決め顔で言うことじゃないじゃん」


「俺からしたら真面目だったんだよ。それをそうやって笑うなよ」


「ごめんって、ね?拗ねないでよー」


視界に入り込もうとする私から逃げるように拗ねた夫はプイっとそっぽを向くと、乱雑にワインのボトルを傾けてどぼどぼとグラスに注ぎ込む。


男の人はプライドが高いから、こういうことにはデリケートなんだよね。それが可愛いんだけど、可愛いなんて言うともっと拗ねるから言わない。男の子は女の子にはカッコつけて生きていたい生き物なのだから。


それに、だ。


「だって、そんなこと言わなくても私は全然平気だよ?」


「タイミングがあるだろ。ムードだってある」


「その割にはさっきのムードはちょっとないなー」


「……」


あ、しまったまた拗ねた。もー、こう言うところはいつまでも子供なんだから。


肝心なところでヘタレるのも相変わらず。男の子は何時までたっても変わらない、なんて何かの話で聞いたけど、最近は良く実感することが多くなった気がする。


それだけ、私が女の子として、自然に生きていけているという証拠でもあるのかな。


ま、ともかく、へそを曲げた旦那様の機嫌を治すとしましょう。男の子の機嫌を一発で治す魔法の言葉でね。


「ごめんって。怒らないでよ。ほら、ね?」


多少無理矢理身体をねじ込んで、彼の膝の上に向かい合わせになるように腰を降ろすと、私はそのまま首の後ろに両手を回して、ちゅっと唇と唇を合わせさせる。


私達は、あまり日常的にキスはしない。恋人同士だった頃は割と気が向いたらしてたけど、結婚して、勇斗が生まれてからは子育てに追われて中々そういう雰囲気にも思考にも向かなかったから。


「……そういうの、ズルいだろ」


顔をお互いお酒なのか、恥ずかしさからなのか、真っ赤にさせて視線を交わせると、やがて重なり合うように影が一つになった。

















情熱的な夜からさらに数日。夫のオフの日に合わせて、私達家族は住んでいるアパートメントからほど近いポー川という河川のほとりにあるヴァレンティーノ公園という大きな公園へとピクニックにやって来ていた。


「まぁまー」


「あら、リスね。おいで」


広場で勇斗を自由に遊ばせていると、勇斗が何かを見つけたようで指を指している。その先を見つめるとリスがチチチッと鳴き声を上げながらひょっこり顔を覗かせていた。


動物はあまり得意じゃないんだけど、リスの一匹くらいなら大丈夫かと声をかけると。


「……」


「……ちょっと目を離した隙に何してるんだ?」


数分後、私を中心にリスの大群が押し寄せているすさまじい光景が出来上がっていた。


体質的に、動物に非常に好かれやすい私は子供のころから牧場や動物園のふれあいスペースに行くとこうして囲まれて身動きが取れなくなるんだけど、まさか野生のリスにやられるとは思わなかった。


あれよあれよという間に集まって来たリスたちが私と勇斗を取り囲むまでものの数分。少し席を外していた夫が戻って来てこの光景になっていたら、何があったのかと頭を抱える気持ちはよく分かる。


「リスがいたから、おいでってしたら……」


「お前、自分の体質を考えろよ」


「だってぇ……」


呆れる夫を他所にたくましい我が子は数匹のリスと追いかけっこに講じている。あの子も私と同じ体質のはずなので、動物には何かと好かれやすいようで、リスたちが危害を加える様子はない。


そんな事をしたら、私と夫がちょっと本気を出すだけなんだけど。そこは野生動物、力の差をしっかり認識している筈だ。


「まったく、こういうところは妙に抜けてるよな」


「こんなに来るとは思わないじゃん」


「まぁ、それは確かに。ほら、お前ら来過ぎだ。散れ散れ」


夫に散るように言われて何匹かのリスは森の木々の中に帰っていく。それでも10匹程度のリスたちは私達の周囲で好きなように遊んだりしていた。


それは勇斗と遊ぶリスも同じで、キャッキャと声を上げて追いかける勇斗が転ばない程度のスピードと距離感で逃げ回っている。


「ふふっ、楽しそう」


「そうだな。はた目から見ると、お前も中々楽しんでるけどな」


カシャリとシャッターを切る音が聞こえたと思うと、口角を上げて笑う夫が満足そうにスマートフォンの画面をのぞき込んでいる。

どうやら写真を何枚か撮ったらしい。


「中々可愛いと思うぞ、これとか」


「ちょっと、なんかバカみたいじゃない」


「良いじゃんか。SNSに投稿するか」


「あっ!!ちょっと!!」


彼が撮ったのは、リスと追いかけっこをする勇斗の写真の他に、頭の上にリスを乗せている私の後ろ姿だ。

可愛らしいようで、なんだか間抜けにも思えて、抗議するけど夫はちょちょいとスマホを操作すると自身のSNSにその写真をアップしてしまったらしい。


「自慢の妻の可愛い姿だ。世界中の野郎に自慢しないとな」


「なによそれ、もうっ」


くつくつと笑う夫に変わらず抗議するけど、彼は笑うだけで素知らぬ顔。子供用のボールを片手に勇斗とリスの下へと行ってしまった。


全く、こういうところは油断も隙もないんだから。


憤慨する、と表現してもまぁ実際にそこまで怒っている訳ではない。ちょっと恥ずかしい位なので我慢するとしよう。勝利の女神なんて言われるよりは断然イイ。


「勇斗、行くぞ~」


「ぱー!!」


「チチチッ」


優しくボールを蹴って勇斗に取りに行かせる夫とそれを追いかける愛息子、そして今日の遊び相手のリスたちが一斉にボールを追いかけ始める。


リスたちは器用にボールを前に進ませて勇斗へボールを程々に遠ざける。遊んでもらえる範囲をそれなりによく分かっているらしい。元から人慣れしたリスならではの行動だと思う。


「あぁう~。あー!!」


お喋りしながらはしゃいでボールを追いかける我が子をリスに囲まれたまま眺める。なんとも平和な日常だ。改めて、かけがえのない日々を手に入れているんだと実感する。


男のままだったら、一体今頃どうしていたのか、仮に結婚していたらどういう父親になっていたのか、今では想像することも出来ない。

最近では、昔の自分の昔の顔もあまり明確に思い出せなくなってきた。何せ男の子の頃の写真は世界中を探してももうない。


私を男だったと認識しているのはごく一部の人たちだけで、その人たちも今では私が男だった何てこと、わざわざ話題に上げない限りは忘れているくらいだろうと思う。


そのくらい、当たり前に変わって、そのくらい私は変わったということだ。


「ふふっ」


そんな事を頭に思い浮かべて、自然と頬が緩む。もう考えてもどうしようもないことだというのに、最近はよくそんなことを思いだすのは、昔を懐かしんでいるのか、忘れないように私が率先して思い出そうとしているのか。


何にせよ、この日常が今の私の日常。母になった私が、今の私だ。


「まーまー!!」


「はいはい。なぁに?」


遠くから見ているだけだった私を呼ぶ愛おしい声に、私はゆったりと歩みを進める。

それに合わせてリスたちも進むものだから、まるで何かの行進だ。


「ボスリスか?」


「今日の晩御飯はクルミだけにしてあげる」


ふざけたことを言う夫の今日の晩御飯はクルミだけにしてあげると心に決める。優しいから殻剥き機だけは置いて行ってあげるわ。


「よし、俺が悪かった。夜はレストランに行こう、チームメイトに良い店を教えてもらったんだ。どうやら、日本食が食べられるらしい」


「ふぅん?でも、海外の日本食レストランってなんか違うことが多いのよね」


「それは仕方ないさ。正確には日本風ってだけだからな」


秒で手の平を返した彼が提案したのは、チームメイトに教えてもらったという日本風レストランを今日のディナーにしようと言うもの。


ただ、海外の日本食というと、まぁ海外の人がこんな感じと日本を想像して作った料理が大半なので、あまり期待はしていない。最悪、日本食なら私が家で作る。


肉じゃがくらいなら、しらたき以外の食材はイタリアでもがんばれば手に入るのだ。


「ま、良いか。日本風レストラン楽しみね」


「着物の着方が間違っててもあまり文句を言うなよ?」


「保障出来ないわ」


「おいおい……」


日本風を名乗るならしっかりきっかり日本を正しく主張してもらいたいものだ。こちとら生まれも育ちも純日本家屋の人間。着物の着付けも完璧なのだから。


なんだか少し張り切っている自分を自覚しつつ、どんなものなのか少し楽しみだ。少しでも日本を感じられたら嬉しい。

勇斗にも日本語を勉強させないとなぁ。


そんな事を思いながら、私もボール遊びに混ざり、慣れない足取りでボールを蹴る。


ぽーんと遠くへ行ってしまったボールを見て、あ、やべって思ったのはご愛敬だ。運動神経はあっても、サッカーの経験なんて学生時代くらいだ。ボールを蹴る感覚なんてここ数年無いので、思いっきり力加減を間違えた。


「まー……」


「お前な」


「ちちっ」


勇斗、夫、リスにそれぞれ三者三様の呆れの反応を返され、私はたはははと誤魔化しの笑いを浮かべるしかない。

さっきも言ったようにサッカーの経験は素人に毛が生えたレベルである。


高い運動能力も、身体の使い方を分かっていなければただ力を持て余すだけになるのだ。仕方ない。


「ったく、取って来るからちょっと待ってろ」


「ごめんね~」


「まーまー」


呆れる夫に謝り、非難がましい声を上げる我が子を抱き上げてごめんごめんと頬を摺り寄せて謝る。

夫だけにボールを取りに行かせるのは忍びないので、私達もボールが転がっていた方に向かい、また遊び始める。


そんな日常。そんな日々。これが私が女の子になった、その決断をした、その先の未来の話。

過去の私へ。その時の貴女がこの未来と同じものを手にするかどうかは分からないけど、その選択をした未来の私は、かなーり幸せです。


だから、心配せずに、ただ貴女が思うままに、勇気をもって決断して。


そうすれば、少し違う未来になっても、きっと同じように笑っていられるはずだから。

アイツが向かってしまった未来には、きっと向かわない筈だから。


「幸せって、こういうのなんだね」


「なんだよ、今更。今まで幸せじゃなかったのか?」


ボール遊びをしながら、近くにいた夫にそう問いかける。夫は、今までそうじゃなかったのかと悪戯めいた笑みを浮かべて私に問い返す。


私はそれに応えるべく、勇斗を抱き上げて夫の胸に飛び込んだ。


「幸せ。昔も今も、これからだってずっと」


「しーあー」


「ははは、だな。ずっとだ、ずっと」


「うん、ずっとずっとだよ」


ぼすんと音を立てて彼の胸に飛び込んだ私達を受け止め、両手でギュッと抱きしめた彼と、彼と私の間に挟まれて、嬉しそうに笑う我が子、勇斗。

これが、私の幸せ。私達の幸せ。


ずっとずっと、(はるか)先まで続いて行く幸せだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 誰の未来、というのも野暮な話なので、幸せそうでとても良いのです。 まずはそれだけを。 学生時代の話や、サッカーの本場に着いていくバイタリティ、夫を支える献身、勝利の女神と言われたりと、し…
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