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夢のまた夢の夢

作者: 王子

 ラグドリウス=ゴロニアスは、レースカーテン越しに差し込む光で目を覚ました。

「ご主人様、お目覚めのお時間でございます」

 いつもそうするように、召使いが恭しく頭を垂れて枕元に立つ。

 ラグドリウス=ゴロニアスは猫の国の若き王であった。飢える国民はなく、隣国との関係は良好で百年近く争いはなく、天性の政治手腕で国民からの信頼も厚かった。

 猫王がベッドから出ると、整毛職人が深々と一礼してから毛に櫛を入れ始める。日頃から手入れされている真っ白な長毛は、日の光を受けて眩しく輝き、この国に慈愛と威厳をあまねく行き渡らせるかのようだった。

「朝食はクロワッサンとソーセージ、サーモンのサラダ、南東より取り寄せた紅茶をご用意しております」

 召使いの言葉に「ああ」と返事をしながら、猫王のまぶたが徐々に下がる。

 季節は春。極東に浮かぶ島国には「春眠暁を覚えず」という言葉があるらしい。

 穏やかな朝の陽射しの中、南東から船に運ばれる茶葉を想像する。遥か遠国から海を渡り、熱い湯に身を踊らせた茶葉は、熟成された芳醇な香りで部屋をいっぱいに満たすだろう。

 そして、ずるずると夢の世界へと落ちていく。


 夢だった。

 ゴロニアスは、レースカーテン越しに差し込む光で、夢から覚めた。

 国王になった夢を見るなんて、身の程を知らなければ。

 ベッドの中、濡れたように艶やかな黒毛を手で撫で付けながら、まだ夢うつつである。

 幼い頃から野心家であったゴロニアスは、国王になることを夢見ていた。しかし猫の国の王は世襲制で、ラグドリウスの家系にない一介の貴族に生まれた自分では、いくらあがこうとも国王にはなれないと成人する前には知っていた。

 それからは貴族として誇り高く生きることを心に決め、家名を汚すまいと品行方正を心がけ、慈善事業に勤しみ、社交場でのにこやかな腹の探り合いに神経をすり減らしてきた。好きなことを楽しみ、望んだ職に就き生きる同年代の若者達が妬ましかった。しかし、これからは少し丸くなれるかもしれない。

 舞踏会で目にした白猫は、他の雌猫の中でも群を抜いて美しかった。手を取って共にステップを踏めば気持ちは更に高揚した。電光石火で結婚を申し入れると、あっという間に段取りが進み、なんと翌日には式を控えている。

 式の準備も終わり、今日は久々にゆっくりできる。ゴロニアスは再び羽毛布団の中へもぐり込み、静かに寝息を立て始めた。


 夢だった。

「あなた起きて」

 妻がカーテンを開け放ち、部屋に差し込んだ強烈な日光は、ゴロウを夢から覚めさせるのに十分すぎた。灰色の毛は寝癖であちこちはねている。

 まさか、国王になる夢を見る貴族になった夢を見るなんて。

 寝ぼけ眼で今見た夢を思い返そうとしたが、思い出したところで仕事が休みになるわけでもないので面倒になってやめた。

「パパ、また遅刻しちゃうよ」

 娘はもうカバンを背負って登校する準備を整えている。

「そうだな。分かった、分かった」

 まだ眠たい目をこすりながら洗面所に立つ。歯を磨きながら、先ほどの夢がどうにも気になってまた考える。国王や貴族の生活は幸せなのだろうか。少なくとも、お金に困らない生活は羨ましい。舞踏会での出会いも悪くない。

 ゴロウは友人のつてで今の妻と出会った。快活で心優しく、子供に十分な愛情を注いでくれ、ぐうたらな夫でも見捨てない。娘は妻によく似た気質で、多くの友達に恵まれ、学校ではよく気配りができて世話好きだと聞いている。パパにもよく世話を焼く。

 国王や貴族のように、有り余る資産や守るべき名誉はなくても、この家族に囲まれて、まあまあ楽しい今の仕事があれば十分に幸せだ。

 貴族も貴族で大変だなと同情しつつ、顔を洗って洗面所を出る。

 食卓に、食パン、レタスとトマトのサラダ、スクランブルエッグ。そしてコーヒー。南東の紅茶よりもコーヒーの方が好きかもしれないなと思った。

 あまりのんびりしてはいられない。食事と支度を済ませて家を出れば、ギリギリ間に合うかどうか。娘の予言が的中しないことを願いながら、トマトにフォークを刺す。

 いつもの時間、いつもの車両に乗り込んで、いつもの吊革に手をかけて、職場の最寄り駅まで運ばれていく。車窓から春の陽射しが入り込む。

 眠い。

「春眠暁を覚えず」とは先人の言葉で、春の朝に寝過ごしたときの言い訳に使われる。寝過ごさずにこうして電車に揺られているのだから、先人よりも勤勉なのではないか。いや、起こしてくれたのは妻だった。

 そういえば、来月は十回目の結婚記念日だ。そろそろプランを練らなければ。

 電車の振動は心地よく体を揺すり、レールの継ぎ目を通過する音は子守歌のようだ。

 とにかく眠い。ゴロウのまぶたは、既に限界を迎えていた。


 夢だった。

 頭上の鉄道橋を列車が通過する轟音に、老猫ゴロウはビクリと夢から覚めた。

 ああ、またか。

 遠い日に見た光景は、国王や貴族の夢と違って、つい最近のことのように鮮明だった。

列車が走り去ると、フゥと短く息を吐いた。こう何度も若い頃の夢を見るようでは、もうじきなのかもしれない。

 ゴロウの娘は妻のように美しく育って嫁に行き、妻は四年前に先立った。

 妻を亡くしてからは、橋の下に居を構え、独りのんびりと暮らしてきた。

 ゴロウの齢は二十歳、人間でいえば九十六歳にもなる。

 国王でもない、貴族でもない、若い時期もとうの昔に過ぎ去った老猫ゴロウは、名も知らぬ雑草の上で大の字になり、その時を待つ。吹く風が灰色の毛を揺らしていく。

 徐々に視界が狭くなり、抗うことのできない眠気に襲われる。

 妻を愛し、娘を社会に送り出し、自分の役割を全うし、与えられたありふれた人生を精一杯に駆け抜けて、幸せを存分に噛み締めた老猫ゴロウ、今まさに覚めることのない夢の旅路へと出立する。


(了)


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