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アイスティーを飲み終わるまで

作者: 海岳 悠


「そんな急にどうしてだよ!」

 静かな喫茶店に俺の声が響き渡る。

 何事だと、何人かはこちらの方を向いた。


「ごめん、ずっと前から決めていたの」

 ボブショートでグレーのワンピースを着た彼女は申し訳なさそうに、下を向いてそう言った。


 テーブルの上には、明日の日付が書かれた航空チケットとアイスティーがあった。


「もう、ここに来るのも最後か」

 俺は全身の力が抜け、椅子にへたりこんだ。


 俺と彼女は大学に入ってから一日も欠かさず、喫茶店『エレル』に通い続けた。特に通い続ける理由があったわけではない。ただ、なんとなく俺と彼女の中でそういうルールができていたのだ。


 今日もその一日に過ぎないはずだった。まさか、彼女が留学をすると宣言するまでは。しかも、出発は明日だと言う。


「小さい頃からそうだったよな」

 相談せずになんでも自分で決めてしまう彼女の癖。


 アイスティーが入った容器の外側には、たくさんの水滴がついていた。もう、喫茶店に入ってからだいぶ経つだろう。


 彼女は何も言わず、じっとアイスティーを見つめている。


 物心着いた頃から、俺の隣にはいつも彼女がいた。二人で、花火を見て、海に行って、山を登って、これからもずっとそんな日常が続くことだろうと思っていた。だから、自分の想いを伝えるチャンスなんていくらでもある。そう、慢心していた。


 今、俺と彼女は岐路に立たされている。これから、一人で歩んでいくのか。それとも、二人で歩んでいくのか、選択を迫られている。彼女は一人で進むことを決断した。


 俺は――?


 頭の中で浮かぶ言葉は、どれも正解とは程遠いなにかに感じられた。


 お互いに次の言葉を探す。今日は珍しく彼女のアイスティーがあまり減っていない。まだ、話し足りないということだろうか。


 自分の鼓動の音しか聞こえない沈黙が流れる。喫茶店のBGMがあってよかった。そうでなければ、俺はこの空間に押しつぶされてしまうところだった。


 一体いつから、こんなに彼女を意識するようになったのだろうか。


 歳を重ねるたびに、ただの幼馴染という距離に満足できなくなった。もっと、彼女との過ごす時間を大切にしたかった。幼馴染としてではなく、恋人として。


 でも、いざ彼女を目の前にすると、このままで良いのではないかと思ってしまう。彼女の笑顔が、告げたことによって変わってしまうのなら、今のままで良い。そう、いつも自己完結させていた。


「あっ!」

 さっきまでの申し訳なさそうな顔はどこへ消えてしまったのか。いつも通りの明るさを取り戻した彼女は、元気よく声をあげた。


「どうしたんだよ急に」

不貞腐れたように俺が言うと、彼女は勢いよくアイスティーを飲み始めた。


 半分以上あったアイスティーは彼女のブラックホールに吸い込まれていく。

 彼女は、ぷーはと言いながら、どんとアイスティーをテーブルに置いた。空の容器がひとときの終わりを告げる。


 喫茶店で彼女と過ごす時間は、彼女がアイスティーを飲み終わるまで。特別な日でもそれは変わらない。それが、俺と彼女が決めたルールなのだから。


「留学ね、三年後の今日までだから終わったら真っ先にこっち来るね! もちろん、いつも通り十七時にこのエレルで」

 彼女はテーブルに広げていたものを鞄に詰めながらそう言った。


 やっぱり、行ってしまうのか。行かないで欲しいと言いたい。でも、それを言ったところで、彼女の決断は揺るがないだろう。変わらないのならせめて、笑顔で送り出してやろう。


「わかったよ。行ってきなよ」

 俺は必死に口角を上げた。全然うまく笑えない。笑うことを意識するのは、こんなに難しいとは知らなかった。心の奥底で騒ぎ立てる想いが邪魔をする。消えろ、消えろと願っても消えてくれない。


 怖くて、彼女の顔を直視できない。

 ありがとう。そう彼女の声だけが聞こえた。


 少しほっとした。

 喫茶店はコーヒーを注ぐ心地よい音と香りが充満している。


 顔を少し上げると、彼女の顔がずっと近くにあった。あまりの近さに少し後ろに仰け反る。


「一つだけ約束して」

 彼女は真剣な表情で俺に迫る。


「……なんだよ?」


「つぎ、私に会ったら真っ先にエレルって言うこと!」

 彼女は俺から離れ、顔の目の前に指を一本立てながらそう言った。


「……?」


 エレル? エレルとはこの喫茶店の名前だけど、そんな三年ぶりくらいで二年間通い続けた店の名前を忘れるのだろうか。あれ? ちょっとまて、この店で会う約束をしているのに――。



 カランカラン



「あっ」

 彼女の姿は俺の目の前から消えていた。

 また、やられた。


 考え込むと周りが見えなくなる俺の癖を利用して、彼女は訳のわからないことをさぞかし意味があるように言って、自分の姿をくらます。決まって、何か気まずい時にこれを使う。


 彼女らしい。


 彼女のさよならは似合わない。


 今日も、アイスティーを飲み終わるまで。





 喫茶店の外では、セミが鳴いている。


 待っていても待っていなくても、桜が散り、梅雨を乗り越えれば、燦々とした太陽が降り注ぐ。それは、何年経とうとも、変わることはない。


 今年もちゃんと夏はやってきた。


 喫茶店の外に目をやると、ネクタイをしっかりと締めたサラリーマンが、ハンカチを額に当てて、顔を歪ませている。


 おそらく、外は地獄だろう。壁一つ隔てて、天国と地獄がくっきりと分かれている。少なくとも、このエレルは快適だ。


 俺は三年ぶりにアイスティーを飲み帰ってくるという彼女を待っていた。少し、そわそわしながら。


 二人がけのテーブルの上には、水と読みかけの小説と黒いコンパクトなケースがあった。そのケースをゆっくりと開ける。中には、銀色で光を当てると星のように輝く指輪が入っていた。


 彼女は喜んでくれるだろうか。ちょっぴり不安だ。

 

 もう一度だけ、彼女と二人で歩むチャンスが欲しかった。どうしても、俺には諦めることができない。


 彼女がいなかった三年間はなんとなく日々を重ねるだけだった。


 初めて、孤独を味わった。喫茶店の二人がけのテーブルに座るのが癖で、いつも片方の席が空いていた。その時に、ああ一人なんだって実感する。


 指輪のケースを握り締め、ズボンの右ポケットにしまう。



 カランカラン



 その音とともに、凛と涼しげな顔が俺の視界に現れた。

 夏の匂いを纏いながら、ひんやりとした店内に温かみをもたらす。幾分か、強ばっていた表情も緩んだ気がする。

 

 やっと、二人になれると思った。


 ボブショートだった黒髪は、鎖骨あたりまで伸びていた。化粧なんてだるくてしたくないと言っていたのに、今日はしている。白かった肌は少しこんがりと焼けていた。


 あっちでの生活が言葉にせずとも、感じられた。


 彼女は一瞬こちらに目を向けて、二人がけの空いている方の席に座った。


 視線がばったりと合ってしまわないように、俺はあちらこちらに視線を向ける。

 西日がビルとビルの隙間から溢れ、俺の右頬を照らす。


 口の渇きを潤そうと、目の前にある水を一口飲んだら、言葉まで飲み込んでしまったようだ。沈黙が時間をゆっくりにさせる。


 右手が指輪ケースを握った。

 ふうと一つ息を吐く。



 沈黙を割いたのは俺ではなく彼女だった。



「ごめんね、急に行っちゃって」



「いや、気にしてないよ。俺もその……」

 次の言葉を探していると、彼女は横から言葉を挟む。



「そういえば、ラインのトップ画のねこ可愛いね! ねこなんて飼ってたっけ?」彼女は俺にそう訊きながら、店員さんを呼んでいた。


 テーブルの窓際にあったメニュー表を取り、アイスティーを頼んでいるようだった。


「なんか頼む?」


「いや、いい」と答え、右ポケットに触れた。



「じゃあアイスティーだけでいいです」と言って、メニュー表を元あった場所に戻す彼女の手を見て、俺は目を疑った。さっきまで見ていたはずの指輪が彼女の指にはめられていた。もちろん、俺があげたものではない。


 冷房はちゃんと効いているはずなのに、額の汗がとまらない。もし、彼女と俺の立場が逆なら、すぐに訊いてきたことだろう。でも、俺にそんな勇気はなかった。


 何かの間違いであってほしいと思うことしかできない。


「それで……?」

 彼女は首を横に傾げた。


「えっ? なにが」

 少し声が上擦る。


「ねこだよ! ねーこ」


「あーねこね。この前飼い始めたんだ。なんか、家に一人だと寂しくて」

水が入った容器の外側にできた水滴を指でなぞりながら、そう言った。


 この前といっても、彼女が留学に飛び立った一ヶ月後に飼い始めたから、かなり前のことだ。無性に話し相手が欲しくて、バイトで貯めたお金を全て注ぎ込んで買った。彼女がいなくなった日々を支えてくれたのは間違いなく、ねこだ。


「ふふっ……けんちゃん変わってないね。昔からねこ好きだったもんね」

 その瞬間にやっと、幼馴染の彼女と話しているんだと思った。


 どこか、他人事というか、客観的にこの場を見ていた。俺という登場人物が久しぶりに会った心寄せている女の子と話している。そんな映像を傍観していたような感じだった。


 俺が噛み締めるようにそうだねと言うと、彼女はまたふふっと笑った。

 彼女の笑顔をまた見て、心が落ち着いた。冷静になると、こんなにも体中に力がはいっていたのかと驚く。


「それにしてもこっちは暑いなー」

 そう言うと、彼女は腕を天井に向けて伸ばした。

 たまにちらつく彼女の指輪にどきりとさせられる。


「アメリカだって大差ないだろ。俺はこっちよりも暑いのかなと思っていた」


「なにー? 私が黒く焼けたからそう言いたいのかなー?」

 そう言いながら、彼女はいたずらな笑顔を浮かべた。


 すると、タイミングよく彼女の頼んだアイスティーが運ばれてきたので、俺は反応せずに済んだ。


 テーブルにアイスティーが置かれると、彼女は勢いよく飲み始めた。思わず、その勢いに俺は突っこみを入れた。


「あれー? けんちゃんもしかして、もっと私と話したいのかな?」


「大切にしろよ。アイスティー」と俺が言うと、彼女はお腹を抱えながら笑いだした。そんなにおもしろいこと言っただろうか。


 アイスティーを飲み終わるまで。このルールは彼女の気分によってかなり左右される。夏の暑い日には五分とかからず飲み干して、すぐに帰ることもあったし、なかなか飲み終わらず、一時間以上いたこともあった。つまるところ、このルールは彼女のさじ加減によって決まる。


 そして、このルールに俺が参加しない理由は、おそらく水しか飲まないからだろう。水はアイスティーの半分の量しかないから、適正ではないと彼女が判断したらしい。


「あっこれね……やっぱり気になる?」と彼女が言ってきて、一瞬何を言われているのかわからなかったが、確かに、彼女が指さしたのは自分のつけていた指輪だった。


 どうやら、無意識のうちに目で追っていたらしい。落ち着いていた鼓動が突然音を出し、自己主張し始める。


「自分で買ったの……。たまにはいいかなって。それにこれ右手の薬指だし!」

 彼女は鼻をこすりながらそう言った。

 それを見るなり、俺はズボンの右ポケットにある指輪ケースを握り締める。


「そっか」


「けんちゃん……」


「どうした?」


 彼女は残っていたアイスティーを飲み干す。

 そして、テーブルにどんと置いてから、彼女と視線が重なった。


「私がアイスティーを飲み終わるまでというルールを作った意味知ってる?」


 知っているとも。彼女がどんな思いでこのルールを作ったのか。だって、いつも二人でいたじゃないか。俺は右手を握り締める。


 だから、もうこういうことはやめにしよう。


 静かに俺の前から消えようとする彼女の左腕を掴む。


「……っ」

 彼女は俺の目を見てくれなかった。柔らかい腕から伝わる微かな震えに俺は目を細めた。そうか、彼女はこういう気持ちで俺の目の前から消えていたのか。



「おめでとう。ちゃんと左手につけてやれよ」

 彼女が嘘をつくときの鼻をこする癖。あの頃からちっとも変わっていない。そっとズボンの右ポケットに入っている指輪を見られないように隠す。



「そっか、バレてたか……ありがとう」

 彼女の声は震えていた。



「また、今度ゆっくり話そう」

 彼女の目をしっかりと見て、精一杯の笑顔でそう言った。いつからかな、作り笑いをするのがこんなに上手くなったのは。



 彼女が幸せならそれでいいと、心の中で何度も呟く。

 

 こんなことなら、会いたくなかった。

 現実はどんな虚像よりも残酷だ。



「ごめん、今日すぐあっちに戻るから……また、夏になったら来るね。アイスティーを飲みに」


「ああ、わかったよ」


「じゃあ」と彼女は手を振って、俺の目の前から姿を消した。



 カランカラン



 出入りするときに鳴るベルがいつもより、俺の耳に残る。



 アイスティーを飲み終わるまで。それは、俺が彼女と話していられる時間。とても、しあわせだった時間。



 そして、彼女が俺と過ごしたいと思ってくれた時間。

 

 でも、もうそれは――。

 

 右手に握り締めた指輪ケースをゴミ箱に捨てる。ゴミ箱の中に吸い込まれていく様子を見届け、肩を落とす。

 彼女にとって、俺はただの登場人物Aでしかない。ヒロインの隣にいることは、もう許されないのだ。



 夏になったら――その言葉が俺の心をざわつかせる。


 おそらく、彼女の顔を見たら色々と思い出してしまう。

 楽しい思い出も、悲しい思い出も。


 彼女に想いを寄せていた自分のことも。

 それがもう叶わないことも。


 彼女の残していった夏の匂い。

 夏は彼女を俺の元へと連れてきてしまう。



 もう――。


 もう、夏なんてなくなればいいのに。



 空になったアイスティーの容器を見ながら、静かにそう呟いた。


  

<了>


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