図書館の賢者
約束よ。
約束だよ。
幼いふたりの指は、きゅっと絡まった。手をつなぎ指を絡め、目を見交わして微笑んで、同時にはにかんでうつむいてしまう。
「約束だよ」
「約束ね」
ふたりはまだまだ幼くて、小さな子供でしかなかったけれど、大人の人たちがするものと同じ『約束』、その大切さをちゃんとわかっていたから。小さな手、細い指をしっかりと絡めあわせて、神の見守る中での誓約をかわした。
「僕が、君の旦那さんになる」
「わたしが、あなたのお嫁さんになる」
ふたりは、結婚の約束をした。
ジャスティン・ライアンズ、六歳。ナデージュ・アーウィング、同じく六歳。ふたりは手を絡めあわせたまま、そっと顔を近づけ、まるで大人のようにキスをした。
ほんの少し、くちびるの触れあうだけのキス。しかしそれはふたりにとって、大きな大きな誓いの証。
「ずっと、一緒にいようね」
「ずっとずっと、あなたと一緒に」
それは、澄み渡る五月の空の下。暖かい風に吹かれての、庭園の隅での出来事だった。
†
あくびを噛み殺しながら、ジャスティンは階段を降りていた。
執事が起こしに来たのは、一時間も前になる。それなのにシャツの裾はトラウザーズの中に入っておらず、ボタンを一個掛け違えていた。
ジャスティンが自分の身なりに気がついたのは、通りがかったメイドが指摘してくれたからだ。彼女は口ごもり、「不作法なことを申しあげますが」と、ひたすらに恐縮していた。まだ若い彼女が、主家の息子にそういったことを指摘するのは勇気がいっただろうに、とジャスティンは申し訳なく思った。
「おはようございます」
そう言って、ジャスティンは食堂に入る。部屋の中にいたのは、父と母。彼らはすでに食事を終え、食後の紅茶とコーヒーに手をつけてた。
「遅かったわね、ジャスティン」
非難がましい口調で、母親のミセス・ライアンズが言う。ジャスティンは肩をすくめた。
六歳で寄宿学校に入って以来、十年。ジャスティン・ライアンズがハイドパーク近くにあるこのロンドンのタウン・ハウスに戻ってきたのは、ほんの数回だけだ。
冬と夏ごとに休暇はあったけれど、そのたびに友人のカントリー・ハウスへ、また別の友人の外国の別荘へと誘われることが多かったジャスティンは、その旨の手紙だけをロンドンの自宅に送りつけた。そして自分は厳しい寄宿学校での窮屈な生活から逃れるように、海に山に、知らない外国への旅を満喫していたのだった。
ジャスティンは、このひと夏をロンドンのタウン・ハウスに滞在することにした。それは今はそこに居を構えている両親に、寄宿学校を出してもらった礼と、大学に進むための挨拶のため。ロンドンにいる時季には毎日の昼餐会、晩餐会、それ以外はカントリー・ハウスで過ごす両親に会うのは、まったく久しぶりだった。
「あなたの顔を見たのは、どれくらいぶりかしらねぇ? いつの間にか、こんなに大きくなって。一フィートくらい伸びたんじゃない?」
「……そんなわけ、ないでしょう」
相変わらず、本気なのか冗談なのかわからない――冗談に決まっているが――ことを言う陽気な母に、ジャスティンはくちびるを尖らせて見せた。
「お母さまこそ、去年の夏は口もとに皺がおありでしたけど、すっかり消えてしまっていますね。僕の知らない間に、若返ってしまわれたんでしょうか」
「あら、まぁ」
扇子で口もとを隠し、ミセス・ライアンズは機嫌よく笑った。
「となれば、僕が大学を出るころには、親子ではなく姉弟になってしまっているかもしれませんね。もしかしたら、お母さまが妹になっていたり」
「冗談は、もういい加減になさい」
ミセス・ライアンズは、扇子の先でジャスティンの頭をぽんと叩く。痛い、とジャスティンは叫び、しかし本当に痛いわけはない。
親子は目を見合わせて笑いあい、下らない話など、と戒めるように咳払いをしたのはミスター・ライアンズ――ジャスティンの父親だった。
「お久しぶりです、お父さま」
そう挨拶をしたジャスティンにミスター・ライアンズは、じろりと視線を向けた。
「相変わらず、騒がしいな。おまえたちは」
「申し訳ございません」
ジャスティンは、まとってもいないスカートをたくしあげる仕草で謝罪をした。それもまた気難しいミスター・ライアンズには気に入らなかったようで、ますます睨みつけられてしまう。
「ろくに休暇にも顔を出さず、その足でそのまま大学か。気楽でいいな、おまえは」
「すべて、お父さまのおかげです。ありがとうございます」
ジャスティンが頭を下げると、ミスター・ライアンズは苦虫を噛み潰したような顔をした。父親のそんな態度には慣れているジャスティンは、父が席に着いたのを見て、自分も座る。執事が、タイミングを見計らったように冷たい水のグラスを差し出してきた。
「まったく、どこでそのような放縦を覚えてきたのやら。アーウィングの姉妹など、あの歳で求婚の申し込みが引きも切らずだというのに」
「アーウィング……」
食前酒を口にしながら、ジャスティンはつぶやいた。
「ナデージュとニネットは、元気ですか」
「おまえが、直接ご挨拶に行けばどう?」
そう言ったのはミセス・ライアンズだった。彼女は上品に口もとをナフキンで拭っている。
「小さいころは、あんなに仲よしだったのね。おまえは寄宿学校に入ってから、ときどき手紙を寄越すだけで冷たいこと。今は、タウン・ハウスにいるということだから、ご機嫌伺いに行ってらっしゃい」
「そうですね……」
アーウィングの姉妹とは、確かにときどき手紙のやりとりをした。ときおり写真が同封されていて、セピア色の色彩の中でふたりが微笑んでいる顔は、しっかり覚えている。
しかし、写真はしょせん写真だ。本物には敵わない。特に、姉のナデージュ――ジャスティンと同じ十六歳の彼女は、さぞ清廉な美女になっていることだろう。
「ナデージュとは、婚約をしているんですよ」
サラダをつつきながら、ジャスティンは言った。
「六歳のときにね。将来は指輪を交換しようと、キスしたんです」
「なら、婚約者を放っておくなんて、ますます性質の悪いこと」
ミセス・ライアンズは、美しく整えられた眉を寄せた。
「あなたがそんなふうにいい加減だから、あちらには求婚が絶えないのですよ。約束が反故になっていないか、確かめていらっしゃい。ナデージュなら、わたしも賛成だわ」
ねぇ、あなた? と、ミセス・ライアンズは夫を見た。新聞を読んでいた彼は妻の言葉に、ああ、とうなずき、またじろりとジャスティンを睨む。
「学業のほうは真面目にやっていたらしいが、遊び癖がついている男など、ナデージュ嬢が袖にするかもしれんしな」
「ひどいですよ、そんなこと……」
「なら、自分で改めて求婚するのだな。ナデージュ嬢が、そんな大昔の約束をまだ覚えていてくださっているんなら、まだどうにかなるかもしれん」
ナデージュたちの話が出たのは、たまたまだった。しかしジャスティンも、双方がロンドンのタウン・ハウスに滞在している今、訪ねていくつもりはあったのだ。姉妹には求婚者が引きも切らず、というのは初耳だったけれど。
父の言葉に、にわかに心配になった。幼いころの約束など忘れて、ナデージュにはもう恋人がいるかもしれない。そうであっても、不思議ではないのだ。
生まれた家に戻ってきたのんびりした気持ちはどこへか行ってしまい、ジャスティンの頭はナデージュと、その妹のニネットのことでいっぱいになった。
ジャスティンがアーウィング家を訪ねたのは、それから三日後だった。
まずは機嫌を伺う手紙を出し、返事を待ち、贈りものとともにさりげなく予定を聞き出し、丁重に訪問の約束を取りつける。そのすべてに、三日を要したのだ。
昔は、こうではなかった。手紙も電話も必要なく、ただ隣家を訪ねて「遊ぼう」と言えばよかった。もちろん姉妹が留守のときもあったが、そのときでもジャスティンはアーウィング家に入り込み、庭師や馬丁に遊んでもらって過ごしたのだ。
すでに、そのような歳ではないのだ。まだ社交界にデビューする日を迎えてはいないとはいえ、互いに紳士と淑女たち。双方が会うためには繁雑な手続きが必要で、それは決してジャスティンを楽しませはしなかった。
「面倒だなぁ……」
昔なじみに会うのだ、このような面倒が必要なのだろうか。昔のようにただ訪ねていくのではだめなのだろうか。ため息をつくジャスティンを、母は苦笑とともになだめた。
「それだけ、あなたたちが大人になったということですよ。それに、面会のお約束は取れたのでしょう? よかったじゃないの」
メイドが、ジャスティンの衣装を整えてくれる。昼用正式礼装だなんて。舞踏会でもあるまいし、と思うものの、これが紳士が淑女を訪ねていく礼儀だと言われれば、仕方がない。
「ミス・アーウィングたちによろしくね。またお訪ねしたいと伝えてちょうだい」
しかも仰々しく、馬車に乗っていくのだ。隣の邸なのに! カントリー・ハウスのように広大な敷地があるのならともかく、馬車を出す手間を考えれば歩いていったほうが断然早い。しかしそれも、しきたりなのだ。
「ちぇっ……」
決して母には聞かせられない舌打ちとともに、ジャスティンは呻いた。
「僕がお父さまのあとを継いだら、こんなばかばかしい習慣はなくしてやる……!」
しかしこれはライアンズ家のみの風習ではなく、貴族とはこういうものだ。やはり貴族の子弟が通う場所とはいえ、寄宿学校での窮屈ながらも自由のあった十年間に慣れた身には、堅苦しく無意味な作法というものが、どうにも耐え難い。
(これが、ナデージュ……と、ニネットに会いに行くんじゃなかったら)
しかしデビュタントののちには、そして結婚相手に求婚するために必要な過程なのかと思うと、考えるだけでうんざりする。
(絶対、我慢できない。……相手が、ナデージュなんじゃなかったら)
彼女になら、こういう面倒な手順を踏んで訪問することにも意義がある。ともすればこれは、この面倒を乗り越えても会いに行きたい女性こそが結婚相手となるべきなのかもしれない、とジャスティンは神妙なことを考えた。
馬車が着き、執事が出迎える。幼いころから親しんできたアーウィング家の執事だけれど、以前のように子供ではない、『ライアンズ家の子息』として丁重に扱われ邸内に案内されれば、自然にすっと背筋が伸びる。
応接室でしばし待たされ、ライオンの頭の着いた籐のステッキを手に、絹張りの椅子に座っていると、ドアの向うから衣擦れの音が聞こえてきた。
思わず、ごくりと固唾を呑んでしまう。
(ナデージュ……)
春の風の中、指を絡めて手を握って、結婚の約束を交した少女。あれから十年、彼女はどのように成長しただろうか。そしてその妹のニネットも。
衣擦れの音が近づいてくるごとに、ジャスティンの胸は大きく高鳴った。いくつもの、軽い足音。ノックの音がして、少々うわずった声で返事をすると、ドアが開く。
「……あ」
現われた姿に、ジャスティンは息を呑んだ。
まず部屋に入ってきた女性は、紫のドレスをまとっていた、襟や袖には淡雪のようなレースが飾られていて、鎖骨の中心には、やはり紫の宝石があった。
紫、という色は難しい。着ようによって、またまとう者の品格によっては下品にもなりかねない。しかし目の前の女性は、まるで紫をまとって生まれてきたかのように自然だ。しかも白とあわせるという難しい着こなしを、難なくこなしている。
続いて入ってきたのは、緑のドレスの女性だ。侍女たちに付き添われ、現われた彼女たちは目を伏せ、それでいてどこか泰然と歩いてくる。
「あの……、久し、ぶり」
椅子から腰を浮かせながら、ジャスティンは声が震えないようにそう言った。それぞれの瞳の色と同じ、紫のドレスの女性がナデージュ、緑の女性がニネットに違いない――そう、彼女たちは『女性』、あるいは『淑女』というべきだった。ジャスティンの記憶にある、野原を駆けまわっていた少女たちではない。
手には、野の花の花環ではなく宝石の飾られた扇。まとっているのは足首の見える綿の短いスカートではなく、手編みのレースの縫い込まれた絹のドレス。
髪は、うなじを見せて結いあげられている。彼女たちのうなじなど記憶になかった。しかし今ではそれぞれに違う色合いの金髪で頭のうえに飾りを作り、きらめく髪飾りでとめている。
紫のドレス――ナデージュが、ジャスティンの前でドレスをたくしあげる。彼女が頭を下げると、耳から垂れているダイヤモンドの耳飾りがきらきらと揺れた。
「お久しぶりでございます、ジャスティンさま」
その声は――どきり、とジャスティンの胸は高鳴った。確かにナデージュのものだったけれど、記憶よりずっと落ち着いて、たおやかだった。まるで、大人の女のような――彼女たちはすっかり大人になっていて、ジャスティンの知らない者であるかのようだった。
「お訪ねいただいて、嬉しいですわ。すっかり、ご無沙汰しておりましたもの」
「そう……だね。お父さまにも、叱られたよ。寄宿学校の間は、休暇にもあちこち旅行して、ろくに帰ってこなかったものだから」
「その、旅行のお話。伺いたいですわ」
ナデージュは、かすかに目を細めてそう言った。その笑顔にもジャスティンは視線を奪われたものの、同時になにか――微かな違和感を覚えて眉をひそめた。
「ジャスティンさま?」
「いえ……なんでも」
違和感など――ふたりが部屋に入ってきたときから、多いに感じてきたことだ。今さらなにをと思うものの、胸中に浮かんだ消えない泡のように、ジャスティンを奇妙な感覚に誘った。
それは、姉と同じく礼を取っていながらひと言も発さないニネットのこともあるかもしれない。いくら年月を経たとはいえ、まだ十四歳。そんな彼女が、まるで舞踏会に出席しているかのようにおとなしく、静かにたおやかに、口を開くことなく立っている。
「座ってください。僕だけ座っているのは、居心地が悪い」
「そうですわね」
ナデージュは淡く微笑み、向かいの椅子に音も立てずに座る。ニネットもそれに従い、目の前には王宮の女王の前にあっても恥ずかしくない完璧な礼儀の淑女が、ふたり。
侍女が、茶を運んでくる。香り高い紅茶をふるまわれ、シード・ケーキにヴィクトリアン・サンドイッチ――アフタヌーン・ティーとしては一般的なメニューだが、ジャスティンの記憶のふたりは、どちらがどのケーキを食べるかといつも揉めていた。
しかし目の前の姉妹は、食べものなど目にも入っていないかのように、しとやかに紅茶を啜るだけ。ジャスティンが口を開かなければなにも言わず、茶器を手にした人形のよう。
「あの……ニネット」
久々の再会以来、ひと言も口を開いていない妹のほうに、ジャスティンは声をかけた。
ニネットの、緑の瞳がジャスティンを見る。しかしそのまなざしは控え目に、決して正面からこちらを見ることはない。
「ええと……、元気、かな」
「はい、ジャスティンさま」
その声にどきりとしたのは、ナデージュの声を聞いたときとは違う意味からだった。まるでその声は、ぜんまい仕掛けの人形のよう――かつてはあれほどに生き生きと弾け、笑い声を立てては走りまわっていた少女のものとは思えなかったからだ。
「お勉強とか、はかどってる?」
「はい、ジャスティンさま」
同じ調子でニネットは言った。彼女は紅茶を啜ることもせず、人形のように椅子に座っている。彼女の目には、香り高い紅茶も美味しそうなスコーンも映っていないかのようだ。
「ニネットは、すっかりおとなしくなってしまったのよ」
少し困ったように、眉をひそめた笑みでナデージュは言った。
「昔は、あんなに元気ではしゃぎまわっていたのにね。クリームのついたケーキが大好きで、木苺のジュースには目がなくて」
そのころの光景を、ジャスティンもまざまざと思い浮かべることができる。ニネットがはしゃぎすぎてナデージュの白いドレスに木苺のジュースをこぼし、木苺はしみになって抜けないのだとナデージュが泣いたことを覚えている。
「でも、いつごろからかしら……ジャスティンさまが寄宿学校に入られてから、くらいかしら。こんなふうに、小さな淑女になってしまって」
「さま、はやめてくれ」
苦笑しながら、ジャスティンは言った。
「いつから、僕たちはそんなよそよそしい仲になったんだ? それに、ここは舞踏会の会場じゃない。昔みたいに、ジャスティンって呼んでくれよ」
ナデージュは、以前の彼女に戻ったような表情をした。控え目な中にも嬉しそうな顔つきに、一緒に野原を駆けまわって遊んだ昔を思い出し、ジャスティンの頬も自然にほころぶ。
「ジャスティンさまが……ジャスティンが、それでいいと言ってくれるのなら。そうするわ」
その口調からは、ナデージュも『さま』などとよそよそしい呼び方をしたくはなかったこと、ただ淑女の礼儀としてそう呼んでいたのだということが見て取れた。
「そうね。ニネット、あなたも昔のように、『ジャスティン兄さま』とお呼びなさい」
「はい、お姉さま」
やはり機械のように、ニネットは言った。ナデージュのようにその顔に笑みが浮かぶのではないかと期待したけれど、しかし彼女の表情は変わらず、作りものの陶器の人形のようだった。
「ニネットは、しっかり淑女としての礼儀を身につけているようだね」
ぴくりとも動かない、まっすぐ視線をジャスティンの後ろあたりにやったままのニネットにどう声をかけていいものか、やや口もとを引きつらせながらジャスティンは言った。
「まぁ、わたしは違うとでもおっしゃりたいようね?」
ナデージュがそう言い、ジャスティンは慌てた。しかしナデージュは昔通り、ジャスティンをからかっただけだったようだ。
口もとに手をやり、楽しげにジャスティンを見る。その仕草には確かに見覚えがあって、ジャスティンはこの居間に入って初めての安堵を感じたように思った。
久しぶりに会う幼馴染みに、ナデージュも緊張していたのだろう。茶を飲み、菓子を食べ、その間に少しずつ打ち解けてきた。
やがて五時が打ち、訪問時間の終わりを告げるころには、ふたりは昔のふたりに戻ったようだった。もちろん子犬のようにじゃれあって転がったりはしないけれど、そのころのことを思い出すくらいに、親しく会話をかわすまでになった。
しかしその間、ニネットはやはり人形のように座ったままだった。勧められれば飲み、食べ、質問には答えるが、それ以上はじっと座ったままだ。視線はジャスティンのほうを向いているのだけれどその瞳は背後の窓に注がれているようで、ジャスティンは、自分が彼女の意識の中にはいないのだと認識せざるを得なかった。
「もう、こんな時間ですね」
「また、おいでくださいませ」
ナデージュは、愛想よくそう言った。そして立ちあがる。ふたりの行動にあわせて動くように仕掛けをされている人形のように、ニネットも立つ。彼女の四肢からは、ぎしぎしと機械人形のパーツが擦れあう音がするのではないかと、ジャスティンは思わず注視してしまった。
ふたりの淑女に見送られ、ジャスティンは居間を出る。そこからは執事に、屋外まで案内される。髪の少々寂しくなった執事に、ジャスティンは尋ねた。
「ニネットは……いつから、ああなんだ?」
執事は、なんのことかというように首をかしげる。そして、昔のニネットを思い出したのだろう。ああ、とうなずいた。
「昔は……幼いころは、元気なお嬢さまでいらっしゃいましたが。四、五歳のころからは淑女らしく、礼儀作法もワルツもなにもかも、自ら進んで身につけるようになられました」
「ワルツ……」
草むらに飛び込んで、転がってきゃあきゃあ声をあげていたニネットが、優雅にワルツを踊るなど信じられないことだ。しかし先ほどまで目の前にいたニネットなら、わかる。彼女なら、ステップひとつも間違えずに踊ることだろう。そう、まるで機械仕掛けのように。
(そうだ……時計仕掛け。まるで、ねじを巻いて動かしてるかのような)
あの、奇妙な動き――奇妙と言っては、失礼かもしれない。少なくとも、隙なくたちふるまう、淑女としての動きとしては完璧であったのだから。
それを、奇妙な、機械仕掛け、などと。
「まだ十四歳ではいらっしゃいますが、あちらこちらから、縁談が。旦那さまは、ナデージュさまの縁談がまとまるまでは、まだお手離しになるおつもりはないでしょうが」
ナデージュの名に、ジャスティンはずくりと胸が痛むのを知った。そう、ナデージュにも縁談があるのだ。先ほどまでの会話では、幼いころの約束など覚えているかどうか。
(ばかな……、あんなの、子供の口約束……覚えているなんて、考えるほうがおかしいんだ)
幼いころといえば、それよりも――ニネットの変わりよう。
ナデージュも、幼かったころのニネットを懐かしみはしても、今のニネットをどう思うか、ということはないようだ。
当然のことだ、ジャスティンが寄宿学校に入ってからということはもう十年もこうであるわけで、ナデージュにとっては昔のおてんばなニネットよりも、今のニネットのほうが馴染みがあるにはずなのだから。
それでもジャスティンは、ニネットのことが気になって仕方がなかった。自分が寄宿学校に入ったあと、何が起こったのか――ニネットはもともとああいう少女で、ジャスティンの知っているニネットのほうが、彼女の本性ではなかったのだろうか。
久しぶりに会ったナデージュの美しさ、その麗しい淑女ぶり。居間での彼女は妹を立てて、自分から話そうとはしないニネットを話題に引き込もうとしていた。昔と違わないものがあるのなら、ナデージュのその優しさだ。ドレスを汚されても、泣きはしても妹を責めることをしなかった彼女の、美徳だ。それはおてんばだったころのニネットにも、今の機械人形のような彼女に対しても変わらない。
『変わらない』――ニネットは、変わってしまったのに。ナデージュは、大人のしとやかさを身につけた以外は、変わらない。そんなナデージュは、ニネットのことをどう思っているのか。
(……!)
ふと、そのようなことを考えてしまったから。ともすれば、ナデージュの胸のうちに思い至ってしまったから。ぞくり、とジャスティンの背に這うものがある。
(まさか……)
執事に案内され、邸の門にまでやってきて、ジャスティンはふっと振り返った。
「あの……、ナデージュとニネットとって、仲がいいのかな?」
「もちろんでございます」
何を尋ねられたのか、というように驚くように、執事は言った。
「あのように仲睦まじい姉妹を、わたしは存じあげません。ナデージュさまもニネットさまをとてもお慕いしていらして。絵に描いたような、仲よしの姉妹でいらっしゃいます」
「……ニネットは、昔はとってもおてんばだったよね。草むらとか、転がって遊ぶの大好きで。よく、ドレスを泥で汚して叱られてた」
執事は、そのようなこともあったかと首を捻っている。事実そういうことはあったのだけれど、執事の記憶の中では、もう彼方に去ってしまっているかのようだ。
しかし、ジャスティンはしっかりと覚えている。同じ変わったといっても、ナデージュは十年経って少女が大人になったのだと納得できる。しかしニネットは――あの、変わりようは。
「足もとには、お気をつけください」
執事の言葉にうなずいて、馬車に乗る。ちらりとアーウィング家のタウン・ハウスを振り返り、十年経ってもその外観は変わらない建物に、過ぎ去った遠い日のことを思った。
†
ジャスティンが、友人にサウス・ケンジントンに誘われたのは、アーウィング家への訪問から、三日経ったのちのことだった。
サウス・ケンジントンには、自然史博物館がある。そもそもは遡ること百年以上、一七五九年、大収集家であったハンス・スローン医師が収集した博物学的収集物を源とする大英博物館が建設されたのだけれど、収蔵物の増加に追いつかず、自然史関連の収集物を独立させた建物が、この一八八一年、サウス・ケンジントンに建設されたのだった。
「それにしても、収集物ってどのくらいあるんだろうな」
サウス・ケンジントンへの道すがら、馬車の中で友人――ラリー・ケンベルトンは首を捻りながら言った。
「本だけは、キングズライブラリーに収められてるんだろう? 本もあわせて、すべての収集物って何万……何百万……何千万……」
想像できない、とラリーは頭をかき回した。ジャスティンは笑う。
「キングズライブラリーか……。そんな大きい図書館の蔵書って、どんな本があるんだろうな。哲学、法学、経済学、科学に化学、史学に倫理学、美学に心理学……」
「まぁ、あっち関係の本は、まずないだろうな」
そう言ってラリーが卑猥な手の形を示したので、ジャスティンはぷっと噴き出した。
「わからんぞ。こっそり、そっちのほうがメインかもしれないしな」
「たしかに、わからん」
ジャスティンは、キングズライブラリーに行ったことはなかった。話に聞くかぎりとにかくすごい量の蔵書とのことで、一度行ってみたいとは思いつつ、一年のほとんどは寄宿学校、ロンドンに帰ってくれば社交やなんやと、その機会がなかったのだ。
「キングズライブラリー、か……」
「なに、行ってみたいのか? 物好きだな」
ラリーは、本には興味がない。なにしろ、教科書以外は三巻本でさえもいやがるという、筋金入りだ。
しかしジャスティンは違った。家にある図書室も、寄宿学校の図書館も、ジャスティンを魅了してやまない。本さえあればいつまでも時間を過ごしていられる。
一面の本に埋まった、黴くさい建物。古今東西の知識の詰まった建物。図書館という響きは、それだけでどこか甘やかにジャスティンの耳をとらえ、ジャスティンの脳裏には『図書館』という言葉が鮮やかに焼きついていた。
まさか、本当にキングズライブラリーに『卑猥な』本がぎっしり並べられている、なんて思ったわけではないのだけれど。
数日後、ジャスティンの足は、キングズライブラリーに向いていた。御者にはキングス・クロス駅まで、馬車を走らせた。目的のキングズライブラリー、本館のセント・パンクラス館まで直接馬車で乗りつけるにはなんとなく気が引けたのだ。
御者には、帰りは馬車を拾って帰ると告げ、目的の場所に向かう。朱色の壁と灰茶色の壁を持った建物に入ると、吹き抜けのホールになっている。優雅な男性の肉体美を象った銅像があり、その奥が階段になっている。
図書館に入るには身分証明書の提示と、荷物預かりにすべての荷物を預ける必要があった。盗難防止のためだろう。そもそもたいした荷物を持っていなかったジャスティンは、さらに身軽になって、書物の海の中に飛び込むことになった。
「へ、ぇ……」
手前は、ジャスティンの通っている寄宿学校にもあるような本が並んでいる。違うのはその量だ。場所が場所だけに話をする者もなく、静かに求める本を探す者たちの中、ジャスティンも書棚を見てまわり、奥へ、奥へと入っていった。
ジャスティンが本に興味があるのは、本当だ。たくさんの本が並んでいるのを見ているだけでわくわくする。しかし、わざわざキングズライブラリーにまで出向いてきたのは、ここにしかない本があるかもしれない――などと思ったからだ。
ニネット。彼女の、変わりよう。ナデージュのように、淑女になったというのとは違う、まるで別人になってしまった彼女の変化――その手がかりになるものが。
(……どの本に、そんなことが書かれているっていうんだ)
自分の発想のばかばかしさに気がついたのは、図書館のかなり奥に来てからだった。そこは人も少なく、ともすると自分はひとりきりであるかのような錯覚に陥ってしまう。まわりにぎっしりと詰め込まれた本の圧迫感が、ジャスティンを我に返らせた。
(医学書? そんなもの、読んだって理解できるはずがない。心理学? 形而上学……哲学?)
ばかな、とジャスティンは胸中で繰り返した。どうしてこのような場所に来てしまったのだろう。なにがジャスティンを引き寄せたのだろう。ここに、答えがあるわけがないのに。
(……帰ろう……)
そう思い、踵を返しかけたジャスティンを引き止めたのは、つま先の引っかかった穴だった。
(なに……? これ)
近づいて、覗きこむ。暗い中、ジャスティンのいる階の光だけが中を照らす。光は絨毯の敷かれたそこに、深くまで射していた。
それは手すりもなにもない、階段だったのだ。部屋の奥、下へ向かう階段はみっしりと建ち並ぶ本棚の中、隠されたようにひっそりとあった。
(なに……?)
まるで、引力が働いているかのようだった。わずかに何人か、足音を潜めてすれ違う人たちは、誰ひとりその階段に気がついているようではないのに。ジャスティンだけが、まるで吸い寄せられるようにその階段に足を向けた。招かれるように、下へと降りていく。
十段ほどを下りると、踊り場になっていた。そこまでは上の階の光が射すが、その下は真っ暗だ。ジャスティンは手すりを手がかりに慎重に一歩一歩を進める。
すでに、階上の光も射さなくなった地下深く。そこには、灯があった。なにが光源なのかはわからないけれど、ぼんやりと薄明るい中には、ますますたくさんの本があった。壁はすべて本棚で構成されていて、奥に続いている。
本棚の本は、英語だけではなかった。ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語にヒンディー語、イスラム語、ロシア語。そのくらいまではわかったけれど、それ以外にも見たことのない文字の本もたくさんあって、ジャスティンは目を白黒させながら奥へと進む。
しゃら、しゃら、と聞こえてくるのはなにかと思った。視線をあげたずっと先、そこは大きな大きな丸天井の、ガラスのホールになっていた。ライアンズ家のタウン・ハウスが、すっぽり入ってしまいそうな大きさだ。
丸いガラス張りの部屋は郊外のシドナムにある水晶宮を思い出させるけれど、ここにあるのはただひたすらに本だった。目の届く奥、そこはガラスで丸く形取ってある天井を持つ驚くほど広大な部屋で、本と同じくらいに息苦しいまでの緑に包まれている。
そこに、何かがいるのがわかった。ここからでは遠すぎて、はっきりとは見えないけれど。
ジャスティンは、ゆっくりと歩み寄った。ここが未知の場所で、果たして入ってしまってよかったのか、というのもある。同時になにが現われるのかわからないから、知らない生きものでも現われれば恐ろしいから、というのもあった。
(ばかな……図書館だぞ。知らない生きものなんて)
ガラスのドームに、近づいていく。銀色のものが、ちらりと見える。それはジャスティンが抱きかかえることができるほどの大きさで、しかしここからではそれが何かわからない。
ジャスティンは、歩く。びっしりとまわりを埋め尽くす本の黴くささと緑の清涼な香りの中、銀色のものが近くなる。
――さらり。
(……っ!)
うごめいたものがあったことに、ジャスティンは驚愕した。そしてそれが髪で、それがなめらかにすべったのだということに気がついたのだ。
(髪……?)
思わず、早足になった。ガラスドームの中に足を踏み入れ、するとジャスティンの髪も少し、揺れた。先ほど、しゃらしゃらと聞こえていたのは、かすかに吹き込む風だったのだ。その証に、ドームの中に置かれているたくさんの緑もゆっくりと揺れている。
(地下なのに……緑があって、風が吹いてて……?)
そして、その真ん中に位置するは。
ジャスティンは、ゆっくりと近づく。本が広げてある。それも、一冊や二冊ではないのだ。十冊は下らない、しかもあらゆる言語の本だ。そしてそのうちの一冊の前に、背を丸めて座り込んでいるのは。
「……あ、……」
ジャスティンは、思わず声をあげてしまった。さらり、と銀が動く。本に向けられていた顔がこちらを向き――それは、陶器人形のような、少女だった。
光源はどこにあるのか――彼女の白い頬は、輝いている。そこに、ほんの少し紅を乗せた顔色。ふくり、と少女らしいふくよかさを見せていながら、体は細くなだらかに華奢で、少しでも触れると崩れてしまう砂糖菓子のように見えた。
少女は、十二、三歳くらいに見える。さらり、さらりと流れているのは彼女の長い髪だった。銀髪――輝く、銀色の髪。大きなリボンを頭のうえに飾り、大理石の床に模様を作っている。
くちびるは小さく、ピンクの薔薇の蕾のよう――ギリシア神話最大の美女であり、世界三大美女のひとりであるへレネとは、このようなくちびるをしていたのではないだろうか。
なによりもジャスティンの目を惹いたのは、彼女の瞳だった。髪と同じ、銀色の睫毛に重そうなほどに彩られている。
銀色の目、というものが存在するとは、思いもしなかった。大きな瞳は磨かれた月のような銀で、じっとジャスティンを見つめていたのだ。
彼女は、白いドレスをまとっていた。それはまるで計算されたかのように彼女に似合う。繊細なレースだけを使って縫い合わせて一枚の布にして、仕立ててあった。襟も肩飾りも、袖もカフスも、なにもかもが銀糸でも織り込んであるらしいレースだ。
彼女は、本のページをめくるところだったらしい。小さな手が、古めいた紙に添えられている。そこに印刷された文字は、読めない。まったく見たことのない文字で、しかし少女は確かにその本を読んでいたようなのだ。
「こなたは、何者じゃ」
少女は言った。その声は繊細なグラスを割ったようなきらめく声音、耳に心地いいぞくりとするような声なのに、話しかたはまるで時代ものの芝居の登場人物のよう。ジャスティンは思わず彼女をじっと見、彼女もまた、銀色の瞳でジャスティンを見返した。
「このような場所に、入り込んでくるとは。こなた、さまよい人か……?」
ジャスティンは、耳にした意外な言葉を繰り返した。少女は驚くジャスティンを見つめ、その大きな目を少しすがめた。
「この水晶の部屋は、さまよい人を呼ぶ。さまよい人がここを訪れるは当然。呼ばれておるのじゃからな、この部屋に」
めくりかけた本のページをもとに戻しながら、少女は言った。どう目を凝らしても読める文字ではなかったけれど、少女はちらりとページに目を落とした。読書の邪魔をされて残念だという表情が見えたけれど、少女は口には出さなかった。
「訪れる者は、ほんにまれじゃ。が、あの階段を見つけるとは……そなた、久方ぶりの訪問者。もっとも、歓迎はせぬが……」
「す、すみません……」
少女が、その薔薇の蕾のようなくちびるから吐息をついたので、ジャスティンは思わず謝ってしまった。少女は、ジャスティンの謝罪を当然のように受け取って、じっと見つめてくる。
その銀色の瞳は、見つめていると恐ろしいような気がした。それでいて、目が離せない。彼女は神が降りたように、否、彼女自身が神であるかのように、厳かに口を開いた。
「こなた、その迷いを言語と化してわれに伝えよ」
ざわり、と大きな風が吹いた。その風が少女の銀髪を、白いレースのドレスを翻し、きらめいた粒があたり一面に広がるように感じて、ジャスティンは視界を奪われた。
反射的に目をつぶり、次に開いたときには、風はやんでいた。目の前にあるのは白いドレスの銀髪の少女、そのジャスティンの言葉を待ってまばたきをしない目だった。
「……幼馴染み、が」
その銀色につられるがままに、ジャスティンは口を開いた。
「変わってしまったんだ……そりゃ、十年も経てば当然変わるだろう。でも、それだけじゃない。……人形みたいになっちゃったというか、機械みたいになっちゃったというか。しかもそれを、誰もおかしいと思ってないんだ。みんな、あの子が淑女になったんだって……」
「しっ」
少女は、それ以上詳しいことを尋ねなかった。彼女はジャスティンを遮ると、立ちあがり両手を広げる。
まわりの空気が、ざわりと変わった。少女を中心に、渦巻いているかのような――ばさばさ、と音がする。
「わぁ、……っ……っ!」
見まわせば、ドームの中の本が浮き上がっている。一冊一冊がまるで蝶のように舞い、少女に呼ばれることを待っているかのように、ドーム中を埋め尽くしている。
「な、なんだ……、なんなんだ、いったい!」
「静かにおし」
少女は静かに、しかし威圧的な調子で言った。舞う本は、本当に蝶のようにばたばたはね回ったあと、そのうちの一冊が大きく風を孕んで飛んでくる。それは少女の手の中に収まり、少女はぱらぱらとページをめくった。
その間に、ひらめいていた本は羽ばたきをやめてもとの場所にすっと収まり、嵐のような騒ぎは嘘のように鎮まった。そこには、一冊の本を手にした少女が立っているばかりである。
「こなたの、迷いを晴らすものじゃ」
少女は、緑の革表紙の本をジャスティンに手渡した。なおも戸惑いながら、ジャスティンはそれを受け取る。表紙には美しい金の筆描で『ミミクリィー』とあった。
「『擬態』……?」
少女の、白いレースのスカートがふわりと広がり、そして風船がしぼむように収まった。少女は、そのまますとんと大理石の床に座る。そして先ほどの風でもページのめくれなかった彼女の読んでいた本の前に、ぺたりと座り込んだ。
「……あの……?」
いきなりの出来事にも驚いたけれど、本を渡されてますます困惑してしまう。ジャスティンは少女を見、しかし彼女は顔をあげなかった。
「この、本……?」
少女は、小さな手をあげた。その袖も、細かいレースで縁取られている。
彼女は、しっし、と犬でも追い払うように手を振った。それがさっさと行け、とでも言ってジャスティンを追い出しているようだ。
「……じゃ、また」
それでも無言で出ていくのは気が引けて、小さな声でジャスティンはそう言うと少女に踵を返す。かつん、かつん、と大理石に自分の足音が響くのを聞きながら、そっと振り返った。
少女は床に座り込んで、本を読んでいる。先ほどの不思議な出来事も、ジャスティンのことも忘れてしまったかのようだ。彼女の世界には本しかなく、本が彼女のすべてであるかのように見えた。
来た道を、戻る。ぎっしり本の詰まった本棚に挟まれた道はだんだんと薄暗くなっていき、絨毯の敷かれた道に至ったときにはもう暗く、手探りでしか歩けない。
どうにか、壁にぶつからないように階段をのぼり、いきなり目に入ってきた光に顔を歪めた。
気づけばそこは、もとの図書館だ。はっと振り返ると、確かに自分が出てきたはずの地下への階段は消えていて、ほかと同じ木材の床に変わっている。
あの階段は床に擬態してしまい、ジャスティンには見えなくなってしまったかのようだ。
それでも少女に渡された緑の表紙の本は、ジャスティンの腕にしっかりと抱えられていた。それが、あの地下のドームがあったことを教えてくれる。
これはいったいなにを示しているのか。擬態――なにが、なにを。もしくは、誰が、なにを。
ぎゅ、と本を抱きしめたまま、ジャスティンは目を見開いていた。そんな彼を訝しそうに見やりながら、本を抱えた人が歩いていく。
†
『擬態』――。
擬態とは、生物学の用語である。動物の形などがほかの動植物などに似ていることを指す。種類としてはふたとおりあって、まずは隠蔽的擬態だ。これは自らの体を環境に似せ、目立たなくするもの。尺取り虫が枝に似ているなどというのがそれに当たる。
もうひとつは、標識的擬態。すなわち危険なものに似て、襲うものを騙すという方法である。虻が蜂に似る、などというのが一番わかりやすい例だろう。
「……ふぅ……」
ぱたん、と本を閉じ、ジャスティンは外を見やった。ロンドンの夏は、重く怠い熱がこもっている。今日はどんよりと曇っていて、だからこそよけいに暑さが苦しく感じられた。
なにかが、なにを擬態している。もしくは、誰が、なにかを――。
いったい、なぜこの本はジャスティンに渡されたのか。なぜ、蝶のように舞いあがる不思議な本の中からこれが、ジャスティンのもとに降ってきたのか。あの少女は、何者なのか。あの場所は、どういう場所なのか――。
こんこん、とノックの音がして、ジャスティンは飛びあがりそうになった。それだけ深く思考の淵にあったということで、ついつい咳払いとともに返事をした。
「な、なに?」
「お客さまであらせられます」
メイドの言葉に、ああ、と立ちあがった。緑の本はテーブルのうえに置き、ドアに向かう。
「ナデージュさまがおいででいらっしゃいます」
「来てるの? ナデージュが?」
ドアを開けると、困ったような顔をしたメイドが立っている。その表情からして、ナデージュはすでにここにいるようだ。淑女が、先触れもなしに他人の家を訪れるなんて。
しかもメイドがこの部屋にやってきたということは、ナデージュの訪問の目的はジャスティンの父や母ではなく、ジャスティン自身なのだ。
「でも、僕……お客さまをお迎えする支度もなにもしてないし」
「お手伝いいたします。今は、居間でお待ちですから」
暑いのでだらしくなく前を開けて着崩していたシャツのボタンを、留めるのを手伝ってもらい、ベストを着てクラヴァットを締める。
女性の支度ほどではないが、それなりに時間を食うジャスティンの支度を待てなかったのか。
「あ、ナデージュさま!」
メイドが、慌ててドアに飛び寄る。慌てていたのでしっかり閉めていなかった隙間から、紺色のドレスをまとったナデージュの姿が見える。侍女も着けず、懺悔室に向かうような顔をしていたものだから、締めかけのクラヴァットのことも忘れてジャスティンは彼女に駆け寄った。
「どうしたの、ひとりで……」
「ジャスティン……わたし……」
その青い瞳には、しずくが浮かんでいた。ジャスティンが泣かせたわけではない――と思うものの、少なくとも彼女をこのままにはしておけず、急いで部屋の中に引き入れる。メイドは、お茶の支度をしてくると言って、部屋を出てしまった。
「どうしたの、ナデージュ……?」
今にも涙をこぼしそうなナデージュをなだめながら部屋に招き入れ、手近な椅子に座らせる。そのあいだに、ひと粒涙がこぼれ落ちた。
「ジャスティン……」
消え入りそうな声で、ナデージュは言った。彼女の両手はジャスティンの腕に縋り、体を寄せられてどきどきしてしまう。しかもナデージュも落ち着いて身支度する余裕がなかったと見え、胸ぐりの深く開いたイヴニング・ドレスをまとっている。このような時間に身につけるドレスではないのに。ジャスティンは、目のやり場に困った。
しかしナデージュは、自分の恰好になど構ってはいられないらしかった。ジャスティンに縋りつき、右目から涙を流しながら赤いくちびるを開いた。
「ジャスティンは……、わたしと、ニネット。どちらが、お好きなのです?」
突然の質問に、ジャスティンは困惑した。ナデージュはなおも、涙をこぼしながらジャスティンに取り縋って言葉を続ける。
「教えていただきたいのです。わたしと、ニネットと、どちらを、お好き……?」
淑女に、涙とともに縋りつかれる。端から見れば羨望する者もあろうが、ジャスティンは困り果てた。ナデージュの涙は次々とあふれ出し、艶やかな頬をすべり落ちていく。
その頬の涙を吸い取ってやりたい、こぼれる涙で濡れるくちびるを――そんなことを考えてしまうくらい、ジャスティンはナデージュを好きだ。
しかし、今の彼女はどうだろう。人形のように、機械のようになってしまったニネットを思い出した。今のナデージュは反対に、昼間なのにイヴニングドレスをまとい感情を剥き出しにジャスティンに泣きついているけれど、ジャスティンが今まで知っていた彼女ではない、という点では、同じだ。
「ニネットのほうが? 妹のほうが、ジャスティンの妻にふさわしいと、お考えですの?」
ナデージュは忘れているのだろうか。昔の約束を。当然だ。忘れていてもおかしくない――そのことはジャスティンの胸に突き刺さり、意外なほどにショックを受けているということが自分でもわかった。
そんなジャスティンに、ナデージュはなおも縋りつく。
「……ジャスティンさまは、わたしと結婚してくださるとおっしゃったのに。手をつないで、指を絡めて、約束してくださったのに」
逆だった。彼女は、約束を覚えていたのだ。そのことはとても嬉しかった。嬉しかったけれど、ナデージュの表情は、幼いころの甘い約束を反芻しようというようではなかった。
「それなのに、ちっともおやすみに帰って来られず……あまつさえ、ニネットにいい顔をなさるなんて、ひどいですわ」
「ニネットに……?」
ニネットに、いい顔などしたはずがない。ただでさえ、機械のようになってしまった彼女を――言葉を選ばずに言えば、気味悪く思っているのだ。それを、いい顔だなんて。
「ほかの誰でも、それは仕方ないと思っておりました――でも、ニネットだなんて! よりによって、わたしの妹だなんて!」
「そんな、僕は、ニネットを……」
何とも思っていない、という言葉は、ジャスティンの口の中でくぐもってしまった。ジャスティンに縋るナデージュが、きゅっとつま先立ちをして、驚きにぱくぱくとするジャスティンのくちびるを、奪ったのだ。
くちづけは、涙の味がした。ナデージュは、技巧もなにもなくぐいぐいとくちびるを押しつけてくる。両腕を首もとに絡め、豊かな胸はふたりの間で潰れてしまう。
「ナデ、……ジ、ュ……っ……」
まるで、人が変わってしまったかのようだ。先日、ともに茶を飲んだとき穏やかで優しげで、淑女そのものだったナデージュの変貌ぶりに、ジャスティンはただ慌てるしかない。
(……擬態……?)
その言葉が、ジャスティンの脳裏に一気によぎった。
(擬態……だったのか?)
ジャスティンの頭にその言葉が浮かんだのは、本当に自然なことだった。ナデージュは、淑女を擬態していた。これは隠蔽的擬態に当たるだろう。普通の淑女の振りをしておいて、実のところは先触れもなく幼馴染みとはいえ男を訪ね、真昼なのにイヴニングドレスをまとい、くちづけをねだって縋りついてくるなんて。
娼婦といってもいい――高級娼婦なら、もっとましな作法を取るだろう。正真正銘の淑女であるナデージュがこのような態度を――今までのナデージュは、擬態だったのだ。凡百の淑女に紛れ、おとなしくしとやかだったナデージュは、実はこのような激情家で、礼儀など忘れて男のもとへ走ってきてしまうような女性だったのか。
『擬態』――。
「だめだ……、ナデージュ。こんな、こと……」
ジャスティンは、どうにかナデージュを引き剥がした。思いのほか強い力に異様なものを感じながら、腕一本分の距離を作る。
「君とか、ニネットとか……そういうことじゃないよ。あなたが……あなたのような淑女が、こんなことをするなんて」
「淑女……?」
その言葉の意味がわからない、というように、ナデージュは言った。
「わたしが……淑女ですって……? 十年間、顔を見せずに手紙もくださらない『婚約者』をお待ち申しあげて、あまつさえその婚約者がわたしの妹に色目を使う。それを、顔色も変えずに見ているのが、淑女のたしなみですの……?」
「なにを……、ナデージュ!」
ジャスティンは、両手を彼女の剥き出しの肩に置いた。さらり、とした艶やかな肌が手に触れるけれど、そのなめらかさを味わう余裕など、ジャスティンにはなかった。
「ジャスティンさま! おっしゃって! わたしより……ニネットを、お慕いになっていらっしゃるの?」
今にもくずおれそうなナデージュを、その場に座らせた。ジャスティンも一緒にしゃがみ、目線を同じ位置にして、泣き濡れたナデージュの頬に淡いキスをする。
「落ち着いて。涙を拭いて。そんなあなたは、あなたらしくない」
ジャスティンが言ったことは、ナデージュの神経を逆撫でしてしまったらしかった。ナデージュは、大きな紫色の瞳を、ますます大きく開く。すると濡れた瞳は、紫水晶のように光った。
「わたしが、わたしらしいですって……そのようなこと、ジャスティンはごらんではないくせに。だって、ジャスティンはあんなに優しくニネットに微笑みかけて。わたしには、ただ淑女に対する礼儀を見せてくださっただけですわ」
激しくそう叫び、そして自分の声音に驚いたように手で口を押さえた。そして、上目遣いにジャスティンを見やる。
「幼いころ……結婚の約束をしたのも、もう無効ですの?」
激情に駆られていたのが嘘のように、ささやくようにナデージュは言った。今までの自分の態度を恥じらうように、まるで子供のような口調だった。ジャスティンは、そんなナデージュの金髪を撫でた。
「ちゃんと覚えているよ。手をつないで、指を絡めて、約束、したね」
ナデージュは、落ち着いたようだった。泣き濡れて淑女らしくもなく赤くなった顔に、ほろりとひと粒涙が流れる。それを指先で拭いながら、ジャスティンは微笑みかける。
「だから、ニネットのことなんて、気にしなくていい。誰に、なにを言われたのかは知らないけれど、僕は……昔通りに、あなたと結婚したいと思っているんだから」
「本当、ですの……?」
「もちろんだよ」
ふたりは、吸い寄せられるように淡いキスを交した。しっとりと濡れたくちびるが吸いついてきて、それが彼女の純情を示すようで、どうしようもなく心地よかった。
誰が、あのようなことをナデージュに吹き込んだのか。
メイドたちを呼び表に出られるだけに身なりを整えたナデージュを、丁重に送り返した。
それから、数日後。ジャスティンは家を出て歩きながら、むっつりと眉をしかめる。
彼女が、幼いころの約束を覚えて、待っていてくれたことは嬉しかった。しかしあんな激情に駆られるまで思い詰めさせた、その真犯人は誰なのか。
ロンドンの、狭いタウンハウスだ。数ヤード歩けば、隣家の庭にたどり着く。ジャスティンが見たのは、濃い青のドレスをまとった女性――庭先のあずまやに座っている、ニネットの姿だった。陽の光を頼りに、刺繍をしているように見える。
そうやっていると、まったく普通の女性なのに。直接対峙したときの人形のようなぎこちなさ、機械を相手にしているような違和感は見受けられないのに。以前の茶会での彼女は、いったいなんだったのだろうか。
「……あ」
そのようなことを考えながら、あずまやを見ていたせいか。ニネットが振り返り、ジャスティンと目が合った。
彼女は、その表情のない瞳でジャスティンを招いた。招かれたような気がした、というほうが正しいだろうか。彼女は口早にメイドになにかを指示している。ジャスティンのぶんの茶を、とでもいうのだろうか。
そこまでされては特に用事もない身、招きに応じないのはかえって失礼で、ジャスティンは顔馴染みの庭師と挨拶を交しながら、あずまやに入る。
「……こんにちは」
「こんにちは、ジャスティン兄さま」
ニネットは、やはり抑揚のない調子で挨拶をした。手は刺繍をしたままで、どうも花を象っているらしいけれど、ジャスティンにはなんの花かわからなかった。
「あの……、毎日、暑いけど。元気?」
「この間は、お姉さまがご迷惑をかけたわね」
そういわれて、正直ジャスティンはほっとしたのだ。この間のナデージュの醜態はアーウィング家で話題になっているだろうし、ジャスティンもなにも言わないわけにはいかない。しかし自分から口火を切るのはどう考えても難しく、だからニネットの機転をありがたく思った。
「迷惑ってほどじゃないよ。ただ……誰かに、なにか言われたんだろうね」
そうね、とニネットは淡々と答えた。遠目には感じないのに、やはりこうやって近づくと彼女が人形のような、機械仕掛けであるかのような印象は否めない。
「でも、僕は嬉しかったんだよ。ナデージュが、昔の約束を覚えていてくれてね。あんな、子供のころの約束。すっかり忘れて、もう婚約者でもいるんじゃないかって思っていたから」
「お姉さまは、ずっとジャスティン兄さまを想っていてよ」
刺繍を続けながら、ニネットは言った。
「ジャスティンが寄宿学校に行っておいでの間、誰かいい人ができるんじゃないかって心配しながらも、ずっと、ね。だからこの間訪ねてきてくださったときは、とても嬉しかったんだと思うわ」
声は抑揚なく、手は機械的に刺繍をしながら、ニネットは言う。この間のことからも、ナデージュの気持ちが変わっていないことは確信した。
それでは、ニネットはどうなのだろうか。あんなにおてんばで、大はしゃぎをするのが好きだった娘が、抑揚のない声で話しながら、刺繍をしている。ひとつの縫い目も間違えていないというのは、その手が淀みなく動くことからもわかる。
「だから、お姉さまはやっと安心なさって……でも」
「……でも?」
突然、ニネットが刺繍をやめたことにジャスティンは、はっとした。
彼女は立ちあがり、母屋のほうを見やる。ジャスティンのぶんの茶を持ってくるはずのメイドの姿は、まだ見えない。菓子の用意でもしているのだろうか。
姿を現わしたのは、ナデージュだった。まるで家庭教師のようにかっちりとした青いドレスをまとったナデージュは、この遠目なのに怒っているのがはっきりとわかった。
彼女は、淑女とは思えない大幅な足取りで、あずまやに歩いてくる。
「ニネット、あなた!」
ナデージュの視線は、ジャスティンのほうを向いてはいなかった。彼女はまっすぐに妹を見ていて、ずかずかと歩いてくるといきなり妹の頬を叩いたのだ。
「ナデージュ!」
「あなた……、ジャスティンとはもうお話ししないって言ったのに。どうして、早々に約束を破るの!?」
「ナデージュ、だからって、いきなり頬を……」
しかし、彼女をなだめようとするジャスティンの言葉は、耳に入っていないようだった。彼女はもう一度腕を振りあげ、殴られた勢いにニネットはあずまやの中で転がった。
「ニネット!」
ジャスティンは、とっさにニネットを抱き起こした。するとナデージュの怒りの表情は、ますます色濃くなるのだ。
「ジャスティン……近づかないで。その女に、近づかないで!」
見たことのない、ナデージュの顔。そういえば、先日泣きながらジャスティンのもとを訪ねてきたナデージュもそうだった。
ジャスティンは、本当のナデージュという人物を知らないのではないのだろうか。それとも、これはナデージュの擬態――今までのナデージュが擬態なのか、もしくはこのように感情を爆発させるナデージュこそが、なんらかの理由で擬態を取っているのか。
「ジャスティンに近づかないで……、近づかないと、言ったじゃない……!」
ナデージュは、ニネットにのしかかった。両肩に手を置いて突き飛ばし、上半身を石の床に押し倒す。そしてその細い首を、両手でぎゅっと締めたのだ。
「やめろ、ナデージュ!」
ジャスティンはナデージュを後ろから羽交い締めにし、力尽くで引き剥がした。スプーンより重いものを持ったことのないような淑女の手はすぐに離れ、あずまやには横たわったニネットと、彼女を前に目を見開いているナデージュ、彼女の両脇から腕をまわし、力を込めて羽交い締めをしているジャスティンとが、はぁ、はぁ、と息をしている。
(ナデージュは……変わった? それとも、何かを擬態して……?)
どうしても『擬態』という言葉が頭から離れないのは、あのガラスのドームの図書館で自分の手の中に落ちてきた本のせいだ。しかしナデージュがいったいなにを偽装するというのか? なにゆえに、偽装などする必要があるのか?
「……ニネット、っ……」
ナデージュの声にジャスティンは、はっと彼女を見た。ニネットは、ナデージュに突き飛ばされた恰好のまま、動かない。首をおかしな方向にねじ曲げて、目を見開いて横たわっている。
「ニネット……?」
震えるナデージュの声に、ジャスティンは恐る恐る、彼女から拘束をほどく。ナデージュはニネットに縋りつき、悲鳴をあげた。
「息を、してないわ……!」
「そんな、ばかな!」
いくら首を絞められたとはいえ、息をしていない――死ぬなどということが、あるだろうか。ナデージュの細い指なのだ、いくらなんでも――そして思い当たった。あずまやに踏み込んできたナデージュは、ニネットを突き飛ばした。下は、固い石だ。そこに頭を強くぶつけたのだ。
「ニネット! ニネット!」
ナデージュはニネットに縋りつく。ジャスティンも彼女の脈を取り、口もとに耳を寄せても、やはりナデージュの言うとおりだ。ニネットは、息をしていない。脈もない。
「死ん、だ……?」
思わずジャスティンが洩らした言葉に、ナデージュは悲鳴をあげた。庭中に響き渡るような声をあげ、胸をかきむしる。使用人たちが何ごとかと駆け寄ってくる中、先ほどニネットの首を絞めた手で、自分の首をぎゅっと掴んだ。
「なにをするんだ、やめろ!」
「わたしも死ぬの……! ニネットを殺して、おめおめと生きていられると思って!?」
自分で首を絞めて、死ぬことができるはずがない。しかしそれくらい、今のナデージュは混乱しているのだ。彼女の首にかけられた指をほどこうとしても、男のジャスティンでさえ驚くほどの力だ。ジャスティンの心を奪われるかと恐れるナデージュも、妹を殺してしまったという良心の呵責には耐え難いのだろう。
(それにしても、この力……!)
ナデージュの指を彼女の首からほどこうと懸命になるジャスティンは、彼女が首からかけている金色の鎖が切れたのを見た。
かしゃん、と音を立てて、ペンダントが落ちる。それはロケット型になっていて、留め金が開いて中が見えた。映っているのは――。
肩を並べた、ふたりの子供。ひとりはナデージュ、ひとりはジャスティン。映っているのはふたりだった。恐らく、十年ほど前の写真――ふたりだけで写っている写真――。
(あぁ……っ……!)
閃光が、ジャスティンの脳裏を走った。それは、目も眩むような白い光だった。まるで、あの地下の図書館で本が舞い飛び始めたとき、あたりを覆った光のようだった。
「……ナデージュ!」
ジャスティンは、声をあげる。その大きさにナデージュは驚いた顔をした。自ら絞める首の指の力が、少し緩んだようだった。
「――ニネットは、十年前に、死んでいたじゃないか……!」
四歳のニネットは、転がっていったボールを追いかけてタウン・ハウスの門を出たところ、通りかかった四頭立ての馬車に轢かれ、亡くなった。車輪の土まみれになって無惨な姿だったけれど、それ以外には外傷はなかった。土を拭ってやると、まるで眠っているようだった。
「ニネットは死んだ! 十年前、馬車に轢かれて亡くなったんだ!」
よろり、とナデージュがその場に倒れかける。ジャスティンは慌てて彼女を支える。その首には指の痕がついていたものの、命を絶つところまではいかなかったらしい。それにほっとしながら、転がっているニネットの遺体を見る。
「ニネットは死んだ……あのとき、死んだ。僕たちは一緒にお葬式に行って、土に埋められたニネットを見送ったじゃないか」
ロケットの写真は、そのあとに撮られたものだ。ここにニネットがいれば、とナデージュが泣き、撮影に時間がかかったことを覚えている。ジャスティンも、泣きそうになるのを押さえるのに必死だった。
「ニネットは死んだ……とうの昔に、亡くなってるんだ!」
「……じゃあ、これは誰なの?」
掠れた震える声で、ナデージュが尋ねた。ジャスティンは、ごくりと息を呑む。目の前に転がっている、女性の体――四歳だったニネットが成長すればこのような姿になるだろう、と思わせる見かけではあるが、人形のようで、機械仕掛けのようだったこの――これはいったい、誰なのだろう。
ナデージュが、喘ぐような声をあげた。ジャスティンも横たわるニネットを見、そして思わず声をあげた。
「……面白いところまで、いったんだけれどねぇ……」
それは、今までのニネットとは比べようもなく低い、しゃがれた声だった。まるで老婆のような声とともにニネットは起きあがり、ナデージュとジャスティンを見るとにやりと笑った。
「俺の擬態は、うまくいっていたはずだけど。姉妹が、同じ男を取りあって争う……姉は妹を殺してしまい、悲嘆のあまりに自らも、死ぬ。筋書きは上等だったんだけどねぇ」
ニネットであったときの清楚さもどこへやら、まるでイースト・エンドの物乞いのように、乱雑な仕草で彼女はぼりぼりと頭を掻いた。
ニネットだった誰かはそのままナデージュを見ると、やはりギニー硬貨でももらった物乞いの表情をして、にやりと微笑んだ。
「妹に化けた俺が、さんざん煽ってやったのが効いたかい? いつも澄ましているあんたのあんなやこんな顔、いろいろが見られたのはなかなかに面白かったけど」
「あな……た、は……、なに、もの……?」
言葉にならない言葉を綴り出すナデージュに、ニネットはいきなり手を突き出した。それは自分自身の指の痕がついているナデージュの首にかかり、ぎゅっと締めた力の強さはあがった悲鳴からはっきりとわかった。
「この女を、連れていく」
片手でナデージュの首を絞めたニネットは、男とも女とも、若いとも年寄りともつかない、がらがらとした声で言った。
「魔王さまへの、みやげさ! 染まりやすい魂は、ごちそうだからね。俺みたいなちっぽけな小悪魔でも、人間の魂を持っていけば、少しは格があがるというもの」
「ばかな……連れていかせるか!」
ジャスティンは、ナデージュの首を絞めるニネットの手を強く掴むと、振り払った。強く抱き寄せ、ニネットから離れる。まわりには使用人が取り囲んでいるが、皆、驚愕に凍りついたように動かない。
「ナデージュから離れろ! 自分の住み処に帰れ、悪魔め!」
「おや、ではこの体を殺してみるかい?」
悪魔は、ニネットの体を見せびらかすように肩を捻った。
「その娘は、この俺の技にかかったのさ。放った罠にいったんかかっては、逃げられない。俺はそいつの妹が死んだのを見て、このことを思いついたんだ」
罠。その言葉に、放心したようなナデージュを抱きしめるジャスティンはくちびるを噛んだ。
「擬態、か……」
「そのとおり」
そう言ったのは、ニネットの体に取り憑いた悪魔ではなかった。繊細なガラスを割ったような声――よく響く、耳に涼しい心地のいい声。
そこにいたのは、あの銀色の髪の少女だった。いつの間に、どうやって現われたのか。まわりを取り囲む使用人たちもざわめいている。
少女の小さな手は、まっすぐにニネットを――悪魔を、指差している。
「おしゃべりな小悪魔め。自分の手柄のように何もかもをべらべら話してしまうから、こなたは小悪魔の地位から離れられぬのじゃ」
そう言うと、少女はジャスティンを見やった。ナデージュを抱きしめた彼に、ふんと鼻を鳴らして見せる。
「返してもらいにきたぞ。こなたにやると申した記憶は、ないのでな」
なにを、と問う暇もなかった。ふわり、と空気が揺れ、少女の腕には、あの緑の革表紙の本が抱えられていた。
「貴様……、それは……!」
悪魔が、苦しげな声をあげる。少女は銀色の目をすがめ、髪と同じ色の厚い睫毛をふぁさりと伏せて、薔薇の蕾のくちびるを開いた。
「Air, fire, water, earth, elements of astral birth, I call you now; attend to me!」
それは、あまりにも鮮やかに口早に唱えられたものだから、ジャスティンには聞き取ることができなかった。しかし悪魔は、げぇ、と声をあげて苦しみ始め、その姿は青のドレスをまとったニネットのものから、その青が肌にも染み渡っていく。
皮膚には爬虫類のようにいやらしい青の鱗を生やしはじめ、妙な方向に関節がねじ曲がり、顔といえば目玉が飛び出し鼻が伸び、曲がり、くしゃくしゃの老婆よりもなおも深い皺に覆われて、その場に転がりしきりに苦しげに呻き声をあげる。
少女の、呪文の朗詠は続く。その声が大きく、高く、澄んでいくがごとに悪魔の姿は、まるで靄がかかったように消えていった。そして最後、少女が「This is my will, so more it be!」と叫んだとたん、しゅうう、と消える瞬間の蝋燭のような白い煙をあげて、消えてしまった。
あたりには、沈黙が満ちた。誰も彼もが、黙っていた。
動いたのは、緑の本を持った少女だった。彼女は、あずまやの床に落ちたままのペンダントを取りあげ、ナデージュに手渡す。震える手でそれを受け取ったナデージュは、今にも泣き出しそうな表情で少女を見る。少女は、薔薇のくちびるを少し歪めて笑った。
「こなたの言動は、すべてあの悪魔にしてやられたこと。恥じることはない。普通の人間として、当然の反応であったのだから」
少女は、片手をナデージュに差し出す。その小さく白い手で、ナデージュの頭を撫でる。傍目には幼い妹が姉をあやしているような光景のようだけれど、ナデージュはまるで素晴らしい説法師の説教でも聞いたかのように、満ち足り清められた表情を見せていた。
小さな、少女の手はジャスティンに向けられる。と、それは握られてげんこつを作り、いきなり脳天に一発を受けてジャスティンは声をあげた。
「な、なんだよ! なんで僕にはこんな!」
「姫君を守ってやることもできぬ、出来損ないの王子には、これで充分じゃ」
そう言って、少女は本を抱えたままナデージュとジャスティンの前を、そして使用人たちの間を抜けていく。彼女の足は、ドレスと同じレースでできたバレエ・シューズが包んでいたが、そんな薄い靴と華奢な足で、キングストン駅近くの、キングズライブラリーにまで、帰ることができるわけがない。
「あ、あの……あの、帰り、馬車を!」
彼女がどうやってここまできたのかは、わからない。しかし窮地を救ってくれた人物をひとりで帰らせるわけにはいかず、ジャスティンは声をあげた。
「阿呆め」
振り返って、少女が言った。きっ、と銀色の目をつり上げている。長い銀色の髪がきらきらときらめいて、芸術品のように光った。
「われを、馬車などに乗せるつもりかや。あのような、原始的なもの」
「じゃあ、自動車で……」
ますます強く、睨みつけられてしまった。それでは、いったい何が彼女にふさわしいのか。
「あの……、あなた。お名前は……?」
ジャスティンの腕の中のナデージュが、体を起こして、問う。少女はジャスティンに見せていたものとはまったく違う優しげな笑みを作って、言った。
「クロディーン」
そう言って、彼女の姿は、消えた。あの悪魔が消えたときとはまったく違う、まるで砂糖菓子でできた人形が、さらりと解けて空気にかき消えたかのようだった。あたりには、甘い香りさえ漂っている。
少女が消えたあとを、ジャスティンは見つめていた。クロディーンのおかげで助けることのできたナデージュを抱きしめたまま、消えた先を、じっと見つめていた。
†
「図書館の賢者、じゃないかしら」
アーウィング家の、ナデージュの居間。香り高い紅茶が染める部屋の中、ナデージュがつぶやいた。
「聞いたことがあるわ。キングズライブラリーの地下には、もうひとつ不思議な図書館があって……そこには、主がいるんですって。世のすべての不思議を司る、主が」
「主、ねぇ……」
主、というにはあの少女はあまりにも妖精めいていて、しかしあの口調は確かに『主』で。
「会えて、よかったわ。ジャスティンが、クロディーンに会っていてくれていて……」
ひと口、紅茶を啜ったナデージュは、茶器を置いた。そして指先で、目もとを拭う。
「ナデージュ……」
「呆れたでしょうね、ジャスティン。いくら、悪魔が……悪魔が、ニネットに……」
泣き崩れるナデージュに寄り添い、抱きしめた。ジャスティンは彼女の髪を撫でる。その心中は、想像するにあまりある。
「呆れてなんか、いない。仕方がなかったんだ。クロディーンだって、このことは人間として当然だって言ってたじゃないか」
ナデージュはしばらく涙にくれ、紅茶の湯気が薄くなり始めるころに、ジャスティンの胸から顔をあげた。
「クロディーンには、どうやったら会えるのかしら。あなたも、地下の図書館から出たあとは、もうわからなかった、って言ってたわよね」
「ああ……」
いまだに信じられない、あのときの出来事を思い出しながら、ジャスティンはうなずいた。
「今となってはあんな場所があったのかって、それさえも半信半疑というか……」
もう二度と、クロディーンに会うようなことにならなければいいと願った。彼女が現われるのは、悪魔が関わりあいになるようなことばかりなのだろうし、それは想像するだけでぞっとすることだったから。
それでいて、あの銀髪。けぶるような睫毛。大きな、月のような銀色の瞳。陶器人形のような顔、細かいレースのドレス。作りもののような手、バレエ・シューズに包まれた小さな足。
彼女の姿をもう一度見たいと思っているのは、本心だった。そしてあの不思議な図書館と、起こったすべての不思議の真実を、知りたいと願う心の底からの好奇心――。
(もう、悪魔なんてごめんだ)
ジャスティンは、頭の中からクロディーンのことを追い出した。そんな彼にナデージュは少し笑い、そして手を伸ばして、ジャスティンの髪を撫でた。
「あなたは、これから大学に行ってしまうけれど……」
さみしそうな顔をして、ナデージュは言った。
「休みのときは、きっとわたしのところに来てね。もう二度と、離れなくてもいいように」
そのせつない声は、ジャスティンを揺り動かす。彼女の艶やかな髪に手をやって、そっと撫でた。それだけでナデージュは、うっとりとしたような表情をする。その顔つきがあまりにも艶めかしくて、愛おしくて。しきりにジャスティンは、ナデージュの髪を撫で続けた。
「これからも、わたしを守ってね」
「ああ、もちろん」
ナデージュの髪を指先に絡めながらそう言って、そしてジャスティンは、彼女に顔を寄せる。ナデージュが逃げずに受けとめ、ふたりはそっとキスをした。
それ幼いころ、結婚の約束をしたときかわしたものより、大人の香りのするくちづけだった。
〈終幕〉
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